東本願寺の仏壇。 西本願寺と東本願寺の違い 仏壇やお焼香の違い お経の読み方は別物?

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東本願寺の仏壇

クリックして好きな場所へ移動• お仏壇に炊き立てのご飯をお供えしましょう 出典: ご飯が炊けたらいつもどうされていますか? 「美味しそう!炊き立てだっ!」 といってすぐに食べていませんか? 気持ちはよくわかりますが(笑) その喜びの気持ちは、お仏壇にもお供えして、 手を合わせて感謝するとより良いですね? お供えするご飯は、 「仏飯」(ぶっぱん) 「お鉢」(おはち) などと呼ばれます。 丁寧に「お仏飯」と呼ぶのもよく使われます。 お仏壇を購入された方は、 仏飯器(ぶっぱんき) という ご飯を盛る器をお持ちだと思います。 これに炊き立てのご飯を盛るのですが、 ご自分の 宗派にあった盛り方 があります。 まずは、ご自身の宗派の確認をされてみて下さい。 仏具等に宗紋が入っていたりするので、以下の紋でご確認下さい。 紋を見て自分の家の正しい宗派を知ろう! 浄土真宗・本願寺派(通称:お西) 「下がり藤」 という紋です。 大谷派は仏具が金なのが特徴です。 お仏壇に合ったサイズの仏飯器を選ばれて下さい。 本願寺派(お西)と大谷派(お東)では ご飯の形も違って、2通りあります。 それぞれ見ていきましょう。 スポンサーリンク 本願寺派(お西)の仏飯の盛り方 浄土真宗・本願寺派(お西)では、 蓮 はす のつぼみをイメージ した仏飯の 盛り方をします 仏飯器にご飯を小高く盛ります。 人それぞれ、得意な方法で盛って下さい。 大谷派(お東)の仏飯の盛り方 大谷派(お東)では、形が全く異なってきます。 蓮の実をイメージした形で、 円筒形です。 この形にするには、しゃもじでは難しいので 盛糟(もっそう) という道具を使います。 お求めの際にはサイズにご注意下さいね? スポンサーリンク 位牌や過去帳の前に仏飯をお供えするのは間違い! お仏飯はご本尊へのお供え なので、 「阿弥陀如来」又は「 六字名号」の前にお供えします。 そして、 大型のお仏壇なら、ご本尊の両脇にある 「お脇懸け」の前にもお供えするので計3か所となります。 また、お仏壇の高くて奥まった所へ お供えするのが難しい方は、 手前に卓などがあればそこへお供えされても大丈夫です。 自分ができる範囲で精一杯 の施しをするといったことが 浄土真宗では大切とされています。 パン食や麺類が多くて 毎日ご飯を炊かないのであれば、無理に炊く必要はありません。 炊いた時には是非お供えしてくださいね? お仏壇にお供えした仏飯は、 しばらくしたら下げてかまいません。 お供えの時間に決まりはありませんので。 カリカリになってしまってはもったいないですからね? 食べ物を大切に思い、感謝する心からお供えするものであって、 決して阿弥陀様や ご先祖様がお腹を空かしているから 「ご飯」として お供えしているのではありません。 お子さんがいらっしゃる方は、どうぞ 一緒にお供えをして手をあわせる習慣を教えてあげて下さい。

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西本願寺と東本願寺の違いとは?わかりやすくご紹介!

東本願寺の仏壇

浄土真宗の御本尊は「阿弥陀如来」「阿弥陀仏」です。 それ以外の仏さまは安置しません。 御本尊が画かれた「御絵像」を最近ではお仏壇屋さんで求める方が多いようですが、本来は御本尊は脇掛と一緒に、お寺にお願いして、本山からお受けするものです。 脇掛とは、御本尊の両脇にお掛けするものです。 向かって右は「歸命盡十方無碍光如来(十字名號)」をお掛けした場合は、左には「南無不可思議光如来(九字名號)」をお掛けします。 また向かって右に親鸞聖人の御影をお掛けした場合は、左に蓮如上人の御影を安置します。 「仏壇屋で買う御本尊と本山でお受けする御本尊はどう違うのか?」 本山でお渡しするものには、次のように必ずお裏書きがあり、当代御法主(現在は26世大谷光見御法主台下=聞如上人)の落款があります。 方便法身尊形• 大谷本願寺 釋聞如(法主印) お仏壇は「亡くなった家族やご先祖を祀る場所」と思っておられる方が多いようですが、浄土真宗においては、それだけの意味でお仏壇を置くわけではありません、お仏壇の正面には必ず阿弥陀さまが安置され、まわりには綺麗なお飾りがありますが、その様子は阿弥陀さまの世界「極楽浄土」をあらわしています。 自分の家族やご先祖が、阿弥陀さまのお導きで仏とならせて頂いたことへ日々感謝申し上げたいという心が、家庭にお仏壇を置く主な理由ではないでしょうか。 人間は誰も一人で生まれてきたものはいません。 互いに支え合って生きている私たちですから、家族が元気であればなおさら感謝の心を持ちたいものです。 お仏壇は誰かが亡くなってから買うものではないのです。 かつては、お仏壇を安置する仏間を中心にして家の設計が行われたと聞きますが、今はその逆のケースも多いようです。 住宅事情など、やむを得ない理由があるにせよ、家族みんなが集まるお仏壇であって欲しいものです。 お仏壇の場所や向きにはきまりはありません。 浄土真宗の仏さまは阿弥陀如来で、お浄土は西方極楽浄土です。 かつては、お仏壇を東向きに置き、西方に向かってお参りをした方が多くいらっしゃったと聞きます。 浄土往生を強く願い、西方の極楽に思いをはせたのでしょう。 確かに阿弥陀如来は極楽浄土の主ですが、仏さまは自由自在で、いつでも、どこでも、どなたにでも、はるか彼方にいながら、すぐ側にいらっしゃるのです。 お仏壇をどの向きに置こうとも、仏さまは常に私たちを見守って下さいます。 向きや場所が問題なのではなく、家族みんながお参りすることが重要です。 もちろん、湿気の強いところや常に日陰の場所では、お仏壇も痛みやすいし、せっかくお供えした花もすぐ枯れてしまいますから、適度に日があたり、目の行き届く場所がいいでしょう。 浄土真宗では、本来、お位牌は用いません。 お位牌は本来仏教の風習ではありませんでしたが、中国の儒教の習俗が仏教の風習と混同し日本に伝えられて今に至っているようです。 浄土真宗の教えとは簡単に言えば、我々凡夫は仏さまの導きにより、浄土に往生し仏となる、というものです。 「お位牌に魂が宿り、それを供養していく」という教えではないのです。 そのような意味から浄土真宗では、位牌を使用いたしませんし、「お位牌の魂入れ」などもいたしません。 ですが、やはり「何か対象がないとお参りしにくい」というのが正直なところかも知れません。 ですから本山では、法名軸や過去帳をすすめています。 葬儀等で使っている白木のお位牌は一時的な仮りのものです。 忌明けなどが終わり一段落ついたら、お寺に相談してお焚き上げしてもらいましょう。 法名は法名軸や過去帳に書き写し(お寺にご相談ください)お仏壇に安置しましょう。 浄土真宗では魂を入れ替えるということはいたしません。 よくお仏壇を新しくしたので、「魂の入れ替え」をして欲しいとか、古いお位牌から新しいお位牌に「魂の入れ替え」をして欲しいと言われることがありますが、浄土真宗ではそのようなことは行いません。 というのは、浄土真宗の教えでは亡くなった方はすぐに仏さまの導きにより浄土に往生し仏となるからです。 仏となった方の魂が現世に残る、霊として現れるという考えは、浄土真宗の教えにそぐわないのです。 お仏壇や御本尊を新しいものに替える時に「おあたまし」をします。 これは改めることを指しています。 決して魂の入れ替えをしているのではなく、 改めて、仏さまとのご縁を喜び、感謝するお勤めなのです。 浄土真宗お東における焼香作法をお答えします。 焼香机の前に進み、合掌せずにご本尊を仰ぎます。 香盒 香入れ の蓋を開けて、香盒の右隣に置きます。 お香を二撮(二回)香炉にくべます。 焼香後、香盒の蓋はそのままにし、お香の乱れを指先で直し、合掌します。 合掌をしたまま「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えて礼拝し、その後席に戻ります。 浄土真宗お東以外の宗派の方は、各宗派の作法でお焼香して頂いてかまいません。 お焼香は前の人がしたことをマネするのではなく、自分の家の宗派の作法をするようにしましょう。 「戒名」とは戒律を守って生活する人つまり、受戒を受けた人に与えられる名前です。 「法名」とは仏法に帰依した人に与えられる名前です。 いわゆる戒律のない浄土真宗では「戒名」とはいわず、「法名」を用います。 「法」という字は「万人に平等に与えられ、効力を発揮するもの」という意味があります。 仏さまの教え、願いは、万人に平等に与えられるものなので、それを「仏法」といいます。 浄土真宗の御本尊・阿弥陀如来は全ての人を救うと願われ、おはたらき頂いている仏さまです。 その仏さまの導きを喜び、心から帰依して頂く名前が「法名」なのです。 「法名」は生前におかみそりを受けて頂くものです。 ですから、決して亡くなった人の名前ではありません。 仏弟子の名前です。 本来、院号法名は宗門に多大な功績があった人に、その功労をたたえて寺院から贈られるものです。 近年では一定の懇志金を納め宗門護持に協力したという事で寺院から贈られています。 浄土真宗では、法名が長いから特にエライとか、功徳があるということは申しません。 親鸞聖人の法名ですら、釋親鸞。 これだけです。 阿弥陀如来は、だれでも平等に救うと願われ、はたらいて下さっている仏さまです。 そこには、世俗の評価、価値は入ってこないのです。 ですから法名の種類に位はないのです。 法名を頂くことによって、自分自身の人生を仏とともに歩むものと実感し、より明るく充実した生活となることを願います。 なお、法名を頂く方が女性の場合、釋の後に「尼」の一字が入ります。 また、浄土真宗では法名の下に、居士・大姉・信士・信女・位・霊位・不退転などはつけません。 「殺生してはいけない」というのは、お釈迦さまが生きていらっしゃった頃からある戒律の一つで、その昔には、不殺生の厳しい修行をされた弟子もいたようです。 ですが、私たちが殺生をしないで生活していくのは難しいわけです。 他の命を頂かずには、一日だって生きていくことはできません。 ではお釈迦さまはなぜ不殺生を説かれたのでしょうか。 それは、必要以上のものをむやみに殺生してはいけないということです。 ライオンは肉食ですが、おなかがいっぱいの時は目の前を草食動物が通りすぎても、襲ったりしません。 必要以上のものを欲しがるのは、私たち人間だけのようです。 私達が生きていく上で、他の命を頂いていることを忘れてはいけません。 それをしっかりと受けとめ、心より「いただきます」と申したいものです。

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浄土真宗本願寺派の法事についてお供えやお焼香まで徹底解説します|終活ねっとのお坊さん

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織田信長に10年間引けを取らない信の力 本願寺が東西に分裂した原因は、1570年から1580年までの10年間、織田信長と石山本願寺が間戦った石山戦争までさかのぼります。 本願寺は、8代目の上人の後、11代目の顕如上人のときには、最高の寺格をもつ門跡となりました。 イエズス会のフロイスが、 「財産、権力、身分において、つねに他の僧侶たちに比べ最高位にあった」 と言うほどの勢力を有していました。 ところが1568年、織田信長は、諸国の関所を廃止し、矢銭という軍事課税を課しました。 本願寺にも五千貫の矢銭を課してきます。 このときは顕如上人は、争いを避けるために要求に応じます。 ところが、1570年、本願寺と連携した三好三人衆を壊滅寸前まで追い込み、軍を進めます。 こうして本願寺対織田信長の石山戦争が始まったのです。 桶狭間の奇襲によって、戦えば勝ち、攻めれば落ち、朝に一城、夕に一国と領土を拡げ、群雄草の如くなびかせ、五畿内の猛将を馬前の塵に蹴った織田信長も、 「 進めば極楽、退けば」 と書いたムシロ旗をかかげて一死報恩の覚悟で戦った「 南無六字の城」の為に、実に前後十数年の持久戦を続けざるを得ませんでした。 このことを江戸時代の歴史家、頼山陽はこう驚いています。 「 豈はからんや、右府千軍の力、抜き難し、南無六字の城」 信長が天下統一のチャンスを失ったのは、実にこの無用な戦の為だったといわれます。 和戦派と抗戦派の分裂 1580年、織田信長は正親町天皇を仲裁にたてて和議を求めて来たのですが、この時開城するか抗戦するかで本願寺内の議論は真っ二つに分かれたのです。 それが、東西本願寺分裂の遠因となりました。 顕如上人と末子の准如とは和解の勧めに従おうとしたのに対し、長男の教如は籠城して徹底的抗戦を主張してゆずらず、きびしく両派は対立することになりました。 一朝の思いつきで叡岳三千坊を焼き払い、高僧から美女小童に至るまで数千人を火中に投げ込んだ織田信長。 またすでに和解したにもかかわらず、残虐非道な大量殺りくが行われた長島一揆などを知っていた教如は、信長のやり方がどんなものであるか骨身に沁みていたに違いありません。 そこで顕如上人は己に順わない教如を義絶し、弟の准如をたてて御真影と共に和歌山の鷺の森別院へ移ったのです。 ところが果して、姦雄信長の軍勢は、その後間もなく雑賀騒動を機として、浄土真宗殲滅を期して追撃して参りました。 その時の総軍師が明智光秀だったのです。 明智光秀の三日天下 1582年6月、暁の風を切って粛々と進む光秀の大群が大江山にさしかかるや、右すれば備中に走る道を 「 敵は鷺の森の本願寺に非ず、本能寺にあり」 と馬首一転、鬢髪をふり乱した美少年の森蘭丸に護られた織田信長が49才の生涯を火中に葬るという一大悲劇があったため、危く本願寺は救われたのです。 だから三日天下の明智光秀は浄土真宗にとっては大恩人ということになります。 後日このような事変を知った顕如上人は教如の義絶は解きましたが、親子の溝は深まるばかりで、やがて教如をおいて弟の准如へ本願寺12代目の宗主の職をゆずることを認めました。 豊臣秀吉によって西本願寺ができる その後、戦乱はおさまって、利口な秀吉は、さわらぬ本願寺にたたりなしの態度で、本願寺とは常に協調を心がけていました。 1587年、九州の嶋津攻略に准如を同行させ、薩摩門徒に道案内させています。 1591年、顕如上人は、現在の京都の西本願寺がある土地を秀吉から寄進されます。 1592年に顕如上人が亡くなると、教如が本願寺を継いで、石山戦争での抗戦派を重く用いました。 ところが、顕如の妻の如春尼が、准如に法主を継がせるように秀吉に訴えます。 やがて秀吉の裁定が下り、教如は隠居して准如が本願寺の十二代目となったのです。 これが今日の本願寺派であり、西本願寺です。 徳川家康によって東本願寺ができる 1600年、関ヶ原の戦いで徳川家康が豊臣家を打ち破ると、教如は家康に接近します。 徳川家康は天海僧正の謀略によって、この不遇をかこっていた教如に目をつけ、本願寺勢力の分割を謀って、1602年に寺地を寄進します。 1603年に、教如は東本願寺を別立し、第十二代目となります。 これが現在の大谷派であり、東本願寺です。 その後、幕府は浄土真宗を支配体制に組み込むために、本寺、末寺の関係を報告させます。 そのため1650年頃まで、各地の末寺は西本願寺に着くか、東本願寺につくかという問題が起きました。 東西本願寺でも、勢力争いが起きますが、だんだん固まっていきます。 教如が家康に近づいたため、江戸時代はどちらかというと東本願寺が主流となりました。 明治時代に入ると天皇家と仲良くした西本願寺が勢力を伸ばし、東本願寺は分裂して勢力を弱めます。 東西本願寺の冷戦の現状 こうして浄土真宗の勢力は真っ二つに分断され、東西両本願寺は冷戦を続けるようになりました。 西が御影堂を南に置けば、東は北に建てる。 片方が『 』と言えば一方は『 お文さま』 一方が『 』といえば片方は『 改悔文』 西が報恩講を正月に勤めると、東は十一月に変える。 その他、僧侶の位階、学階、仏前の、『 』の読みぐせまで一々変えて、互いにいがみ合うようになったのです。 まことに愚にもつかない意地を張っているとすれば、情けないかぎりです。 現在の浄土真宗は、葬式仏教となり、東西本願寺はじめ真宗十派は日に日に衰退しています。 そんないがみ合っている場合ではありません。 聖人のみ教えのもとに団結して、一人でも多くの方と浄土真宗の教えを学ばせていただきましょう。

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