西成 火事。 【火事】大阪市西成区太子1丁目で火事が発生し、現場付近に煙が広がる

大阪市西成区の火事・火災情報

西成 火事

事故車両の同形車 (キハ42000形の後身のキハ07形) 西成線は、と臨海部を結ぶ路線で、昭和の初めごろまで閑散路線であったが、以降軍需産業が発達し、沿線に多数の工場が建設され、通勤客が激増していた。 翌年にはが決定していたが、輸送能力は限界に近づいており、区間もあったため運転本数を増やすことができず、朝夕のにはが300パーセント以上に達していたという。 当時、ガソリンは戦略物資として統制され、も節約が強く奨励されていた。 安治川口駅に到着したのは午前6時55分で、定時よりも3分遅れていた。 西成線は単線であるため、安治川口駅の前の西九条駅まで来ていた臨時6001列車(蒸気機関車牽引)も出発できず遅れることになり 、同じく蒸気機関車牽引の上り旅客列車も同駅を発車できず遅れることになった。 列車が遅延すると余計に石炭を消費するため、焦った信号係が早く線路を空けようとして十分な確認を怠り、1611列車が駅構内の分岐器を通過し終わる前に分岐器を転換した。 この重大な操作規定違反のため、最後部の1両(キハ42056 )が2対の線路にまたがったまま走行したのち脱線し、構内踏切付近の電柱に衝突して転覆した。 さらに転覆時に燃料タンクからガソリンが漏れ出し、これに車体とバラストとの摩擦による火花、もしくは電気配線のショートによる火花が引火し車体が炎上した。 なおガソリンタンクが破損した原因は転覆によるものではなく、脱線時に車輪が敷石に乗りあげた時に動力を車輪に伝達する継ぎ手()が接触したためである。 満員の乗客の重みで車体が沈み込んでいたため、接触したものであった。 そのうえ折り悪くから吹く西風にあおられ、瞬く間に火勢が強くなり全焼した。 この事故では、耐火構造になっていない車両、車両横転、火災発生、乾燥した冬の気候、西風、超満員と数々の悪条件 が重なったため、多くの通勤客が犠牲になった。 また事故車両に乗車していた大味彦太郎は、横転により片側からしか脱出できなくなっていた窓から脱出しようとする乗客をできるだけ助けていたため、自身も下半身に大火傷を負い、収容先のでした。 事故車両には多くの焼死体が積み重なっていたが、死体を収容していったところもっとも下から奇跡的に2名の生存者が発見された。 なお西成線は軍事的に重要な路線であったため、事故後の復旧作業は迅速に進められ、鉄道省の職員だけでなく駅周辺の工場労働者まで動員して、当日の正午には運行が再開された。 事故処理時に確認されただけで181名が焼死し、その後前述の車掌を含めた8名が収容先で死亡したことで、最終的には死者189名、重軽傷者69名という人的被害となった。 現在に至るまで、日本の鉄道事故において、正確に記録されたものとしては史上最悪の死者数を出した事故である。 事故原因 事故の直接の原因は、列車通過中にもかかわらず信号掛が分岐器を転換したことである。 信号掛が操作を焦った背景には当時の時節柄、戦略物資である燃料節約のための強い圧力があったが、そもそも列車通過中に分岐器が動かせる設計であったことが最大の要因であった。 通常、分岐器には、という安全装置が付けられており、列車通過中は分岐器が固定され、切り替えることができないようになっている。 この装置は東海道線などの複線の幹線には設置されていた。 事故現場にも元々設置されていたが、事故前に撤去されて当時の西成線には備え付けられていなかった (参考文献「機関車と共に」に記述されている。 そのことについては参考文献にある「」を参照のこと)。 なお、列車が通過中にもかかわらず分岐器が切り替わる事故は(大正15年)に横浜の 構内で発生していた。 この事故は、鎖錠装置があったにもかかわらず、日常的に列車通過中にポイントを切り替える不正な操作を行っていたため、ポイントが疲労破損して事故になったものである。 この時は上りが脱線し、その後の車両が切り離され下り線を逆走、下り電車は停車ののち逆走して衝突を回避しようとしたが、逆走車に追いつかれ衝突した。 この事故では衝突速度も遅かった為、幸いにも大事故にならなかった。 なお、信号掛は起訴され、裁判により罰金200の刑事処分を受けた。 このように実際に類似の事故が起きていたにもかかわらず、事故防止対策の欠如があったとの指摘もある。 すなわち、人間が通常ありえない操作を意図的に行うことを前提にして、人為的ミスが重大な結果を招かないようにする「」が重要視されていなかった。 『事故の鉄道史』192頁• 『別冊ジュリスト・交通事故判例百選』、有斐閣〈〉. 事故車はその車両番号から「死に頃」「死に丸殺し」と呼ばれた。 『事故の鉄道史』186頁• 事故車両となったキハ42000形は当時の国鉄旅客車には珍しく鋼板張り屋根を用いていたため、横転した車両の屋根に穴を開ける救出方法が採れず、これも犠牲者を増やす要因となった。 大阪朝日新聞、1940年1月30日。 この装置はには実用化され、主要路線には導入されていた。 『事故の鉄道史』203頁• 刑法第11章「往来を妨害する罪」には「 汽車又ハ電車ヲ・・・」とあり、ガソリンカーや気動車についての規定はないが、前年に起きたのガソリンカー転覆事故について(現在の最高裁)は、「立法趣旨に鑑みて本質的にガソリンカーも汽車に含まれる」と判断し、1940年(昭和15年)8月22日に有罪判決を下している。 裁判のでは犠牲者は「193名」とされているが、訂正されず誤りのまま確定している。 『事故の鉄道史』202頁.

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【火災】西成区太子で火事 出火元から大量の黒煙立ち上り充満 延焼の可能性も ・・・情報がtwitterで拡散される

西成 火事

事故車両の同形車 (キハ42000形の後身のキハ07形) 西成線は、と臨海部を結ぶ路線で、昭和の初めごろまで閑散路線であったが、以降軍需産業が発達し、沿線に多数の工場が建設され、通勤客が激増していた。 翌年にはが決定していたが、輸送能力は限界に近づいており、区間もあったため運転本数を増やすことができず、朝夕のにはが300パーセント以上に達していたという。 当時、ガソリンは戦略物資として統制され、も節約が強く奨励されていた。 安治川口駅に到着したのは午前6時55分で、定時よりも3分遅れていた。 西成線は単線であるため、安治川口駅の前の西九条駅まで来ていた臨時6001列車(蒸気機関車牽引)も出発できず遅れることになり 、同じく蒸気機関車牽引の上り旅客列車も同駅を発車できず遅れることになった。 列車が遅延すると余計に石炭を消費するため、焦った信号係が早く線路を空けようとして十分な確認を怠り、1611列車が駅構内の分岐器を通過し終わる前に分岐器を転換した。 この重大な操作規定違反のため、最後部の1両(キハ42056 )が2対の線路にまたがったまま走行したのち脱線し、構内踏切付近の電柱に衝突して転覆した。 さらに転覆時に燃料タンクからガソリンが漏れ出し、これに車体とバラストとの摩擦による火花、もしくは電気配線のショートによる火花が引火し車体が炎上した。 なおガソリンタンクが破損した原因は転覆によるものではなく、脱線時に車輪が敷石に乗りあげた時に動力を車輪に伝達する継ぎ手()が接触したためである。 満員の乗客の重みで車体が沈み込んでいたため、接触したものであった。 そのうえ折り悪くから吹く西風にあおられ、瞬く間に火勢が強くなり全焼した。 この事故では、耐火構造になっていない車両、車両横転、火災発生、乾燥した冬の気候、西風、超満員と数々の悪条件 が重なったため、多くの通勤客が犠牲になった。 また事故車両に乗車していた大味彦太郎は、横転により片側からしか脱出できなくなっていた窓から脱出しようとする乗客をできるだけ助けていたため、自身も下半身に大火傷を負い、収容先のでした。 事故車両には多くの焼死体が積み重なっていたが、死体を収容していったところもっとも下から奇跡的に2名の生存者が発見された。 なお西成線は軍事的に重要な路線であったため、事故後の復旧作業は迅速に進められ、鉄道省の職員だけでなく駅周辺の工場労働者まで動員して、当日の正午には運行が再開された。 事故処理時に確認されただけで181名が焼死し、その後前述の車掌を含めた8名が収容先で死亡したことで、最終的には死者189名、重軽傷者69名という人的被害となった。 現在に至るまで、日本の鉄道事故において、正確に記録されたものとしては史上最悪の死者数を出した事故である。 事故原因 事故の直接の原因は、列車通過中にもかかわらず信号掛が分岐器を転換したことである。 信号掛が操作を焦った背景には当時の時節柄、戦略物資である燃料節約のための強い圧力があったが、そもそも列車通過中に分岐器が動かせる設計であったことが最大の要因であった。 通常、分岐器には、という安全装置が付けられており、列車通過中は分岐器が固定され、切り替えることができないようになっている。 この装置は東海道線などの複線の幹線には設置されていた。 事故現場にも元々設置されていたが、事故前に撤去されて当時の西成線には備え付けられていなかった (参考文献「機関車と共に」に記述されている。 そのことについては参考文献にある「」を参照のこと)。 なお、列車が通過中にもかかわらず分岐器が切り替わる事故は(大正15年)に横浜の 構内で発生していた。 この事故は、鎖錠装置があったにもかかわらず、日常的に列車通過中にポイントを切り替える不正な操作を行っていたため、ポイントが疲労破損して事故になったものである。 この時は上りが脱線し、その後の車両が切り離され下り線を逆走、下り電車は停車ののち逆走して衝突を回避しようとしたが、逆走車に追いつかれ衝突した。 この事故では衝突速度も遅かった為、幸いにも大事故にならなかった。 なお、信号掛は起訴され、裁判により罰金200の刑事処分を受けた。 このように実際に類似の事故が起きていたにもかかわらず、事故防止対策の欠如があったとの指摘もある。 すなわち、人間が通常ありえない操作を意図的に行うことを前提にして、人為的ミスが重大な結果を招かないようにする「」が重要視されていなかった。 『事故の鉄道史』192頁• 『別冊ジュリスト・交通事故判例百選』、有斐閣〈〉. 事故車はその車両番号から「死に頃」「死に丸殺し」と呼ばれた。 『事故の鉄道史』186頁• 事故車両となったキハ42000形は当時の国鉄旅客車には珍しく鋼板張り屋根を用いていたため、横転した車両の屋根に穴を開ける救出方法が採れず、これも犠牲者を増やす要因となった。 大阪朝日新聞、1940年1月30日。 この装置はには実用化され、主要路線には導入されていた。 『事故の鉄道史』203頁• 刑法第11章「往来を妨害する罪」には「 汽車又ハ電車ヲ・・・」とあり、ガソリンカーや気動車についての規定はないが、前年に起きたのガソリンカー転覆事故について(現在の最高裁)は、「立法趣旨に鑑みて本質的にガソリンカーも汽車に含まれる」と判断し、1940年(昭和15年)8月22日に有罪判決を下している。 裁判のでは犠牲者は「193名」とされているが、訂正されず誤りのまま確定している。 『事故の鉄道史』202頁.

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【火事】大阪市西成区太子で火災発生!火災原因は何?けが人情報は?

西成 火事

概要 [ ] 暴動の現場となっているあいりん地区は、のとともに()として有名な地域である。 日雇いの労働条件は決して良くはなく、及びそれらを束ねるなどにピンハネされるなど、鬱積した感情が高まっており、暴動発生の温床となっていた。 はに発生している。 その頃の暴動は、ある意味「 自然発生的」な暴動事件であった。 そしてに入ると、 がを掲げてドヤ街に乗り込み、日雇い労働者を煽動するようになった。 からまでの13件の暴動は70年代前半に集中している。 その頃になると扇動者による計画的な暴動になってきている。 6月の第21次暴動を最後に17年間の空白があったが、にが発生した。 に入ってで起きた最初の暴動事件であった。 のから16年経った、が発生した。 各暴動一覧 [ ] 1960年代 [ ]• (1961年8月1日-8月5日) 日雇い労働者がに轢かれたの処理を巡って発生した暴動。 最初の西成暴動である。 (1963年5月17日-5月19日) 夜間作業のが意外に少なかったことに端を発する暴動。 (1963年12月31日-1964年1月5日) 求人が思ったよりも少なかった事に端を発する暴動。 (1966年3月15日) 立ち飲み屋の支払いを巡るで、日雇い労働者がに連行されたことに端を発する暴動。 (1966年5月28日-5月30日) の現場にいた野次馬が暴徒化した事件。 (1966年6月21日-6月23日) 屋の店員と日雇い労働者が喧嘩したことに端を発する暴動。 (1966年8月26日) 屋でのトラブルに端を発する暴動。 (1967年6月2日-6月8日) で支払った代金を巡るトラブルに端を発する暴動。 店の備品のほとんどを破壊した。 1970年代 [ ]• (1970年12月30日) 年末で求人が激減したことに端を発する暴動。 ちなみに活動家によるが始まるのは、この後からである。 (1971年5月25日-5月30日) 夜間作業の求人に来ていた業者とのトラブルに端を発する暴動。 新左翼活動家がこの暴動に介入し騒ぎを大きくした。 (1971年6月13日-6月17日) の管理人が玄関に寝ていた日雇い労働者をどかそうとしたことに端を発する暴動。 (1971年9月11日-9月15日) 果物屋の店員が酔っ払っていた日雇い労働者を転倒させたことに端を発する暴動。 果物屋が焼打ちされた。 (1972年5月1日-5月2日) 釜ヶ崎メーデーでされたのを求めた暴動。 新左翼活動家がこの暴動に介入し騒ぎを大きくした。 (1972年5月28日-5月31日) 労働組合員と手配師との喧嘩に端を発する暴動。 (1972年6月28日-7月3日) 第14次暴動の検挙者の釈放を求めた新左翼活動家とそれに煽動された日雇い労働者による暴動。 (1972年8月13日-8月16日) (釜共闘)ととのトラブルに端を発する暴動。 (1972年9月11日-9月15日) 新装開店したパチンコ屋が、の故障でただちに閉店したことに端を発する暴動。 (1972年10月3日-10月4日) 職員と日雇い労働者とのトラブルに端を発する暴動。 (1972年10月10日-10月11日) 釜共闘と手配師とのトラブルに端を発する暴動。 (1973年4月30日-5月1日) 中の求人減に不満を抱く日雇い労働者が釜共闘に煽動されて起こした暴動。 (1973年6月14日-6月30日) 酔っ払い同士の喧嘩に端を発する暴動。 1990年代 [ ]• (1990年10月2日-10月7日) あいりん地区を管轄するの署員が、暴力団から賄賂を貰ったことが発覚したことに端を発する暴動。 (1992年10月1日-10月3日) が行っていた資金貸付を、資金が尽きたことを理由に中止したことに端を発する暴動。 2000年代 [ ]• (2008年6月13日-6月17日) 飲食店の支払いを巡るトラブルで、日雇い労働者が警察に連行されたことに端を発する暴動。 参考文献 [ ]• 大阪府警察史編集委員会編『 大阪府警察40年の記録』大阪府警察本部、1998年 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。

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