戦国 大名 家紋。 戦国の大名・武将285名を紹介(肖像画あり)

武将の家紋[九州]

戦国 大名 家紋

品名:家紋蒔絵小箪笥 寸法:幅 36cm 奥行 24cm 高さ 36cm 現状:東日本大震災被災にて欠け、及び経年劣化による漆艶鈍化。 概要:全体に黒漆塗りとし、蓋の四廻、引き出しの上縁を金縁とする。 蓋並びに本体側面、引き出し前面に多数の家紋を蒔絵で表現している。 描かれた家紋は、戦国から徳川時代の大名家 家紋が多く、東北の有力大名として各地の大名と親交が深かった伊達家の遺品らしい品である。 破損状況:経年の日焼けにより全体の漆塗装膜表面の劣化が進み、艶が失われている。 蓋の甲前面に座屈が一カ所ある。 修理方針:作品の古美術的な風格、美しさを残すべく、保存修理を行う。 修理方法:全体を注意深く洗浄し、前面の座屈は整形し、後に黒塗り漆を塗りこみ、傷を目立たせないように処理する。 金縁を復元する。 古い部分と違和感の生じないように古色付けを行う。 全体に黒漆を染み込ませて、塗装膜の強化をはかり、艶を適度に復元する。

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戦国の大名・武将285名を紹介(肖像画あり)

戦国 大名 家紋

武家家伝_毛利氏 毛利氏 一文字三つ星 大江氏流 毛利氏は、系図によれば天穂日命を祖としている。 のち野見宿禰などを経て音人にいたり大江氏を称するようになったという。 しかし、そのあたりまでのことは確実ではない。 大江匡房、さらに大江広元が出、そのあたりから比較的信憑性のあるものとなってきている。 大江広元は、鎌倉幕府草創の功臣であり、その四男・季光が相模国毛利庄を領して、はじめて毛利氏を名乗ったという。 経光に基親・時光・政光・時親らの男子があり、北条庄は基親に、南条庄および安芸国吉田庄が時親に譲られた。 こうして時親が安芸国吉田庄の地頭となって移り住んだのが、毛利氏が中国地方で発展するスタート台となった。 親衝の子元春の代あたりから庶子家が派生し、坂・有富・麻原・中馬・福原氏などが生まれている。 また坂氏から さらに桂・光永・志道氏などの庶流家が生まれ、これらがみな毛利氏の家臣団となっていくのである。 毛利氏が戦国大名へ転化をとげたのは元就のときからである。 元就は、弘元の次男として生まれたが、兄興元が若死、その子幸松丸も九歳で病死した。 その時、家臣団は元就を盛りたてようとする派と、尼子氏の後楯をもって元就の弟元綱を推そうとする派の二派に分かれて争うことになった。 元就は元綱を殺し、自力で毛利氏の当主の座を確保することに成功した。 しかし、元就は大内氏と尼子氏に挟まれ、結局、大内氏の傘下となって勢力を維持することになった。 天文九年尼子晴久の兵を郡山城に破って武命を挙げ、三男隆景を小早川氏の養子に、次男元春を吉川氏の養子に入れて態勢を固め、天文二十四年大内氏を下克上によって倒した陶晴賢と安芸厳島で戦い、これに大勝した。 その後、大内義長を滅ぼし、ついで尼子氏を降し中国十一ケ国を領する戦国大名にのし上がった。 嫡男隆元は元就より早く死んでおり、孫輝元が隆景、元春の補佐を受けて後を継いだが、両川なきあとに起こった 関ヶ原の戦いでは西軍の主将となり、その責任をとらされて防長二国を領するのみとなってしまった。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。 地域ごとの戦国大名家の家紋・系図・家臣団・合戦などを徹底追求。 2010年の大河ドラマは「龍馬伝」である。 龍馬をはじめとした幕末の志士たちの家紋と逸話を探る…。 これでドラマをもっと楽しめる…ゼヨ! 人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。 なんとも気になる名字と家紋の関係を モット詳しく 探ってみませんか。

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家紋の種類、意味を簡単解説!戦国武将盛り合わせ

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戦国武将・島左近とは? 引用: それではまず、島左近について簡単に見ておきましょう。 生まれは戦国時代の 天文9年(1540年)5月5日。 大和の国(今の奈良県)に生まれました。 まだ戦国時代の初期の頃ですね。 豊臣秀長(豊臣秀吉の弟)もこの歳に生まれています。 様々な領主に仕える はじめは、大和の国(奈良)の守護・畠山高政、それから大和の国(奈良)を治める筒井順慶に仕えて戦に内政に活躍を果たしています。 この頃(20代くらい)からかなり実力を持っていたのですね! そして 40代くらいまで、筒井家の元で働いています。 結構長い間ですよね。 しかし、筒井順慶が36歳で亡くなると、筒井家を継いだ嫡男の定次とは上手くいかず、筒井家での仕官を辞めます。 現在風に言えば 転職です。 その後、同い年の豊臣秀長(豊臣秀吉の弟)、豊臣秀保(秀長の養子)と主君を変えますが、相次いで死に別れにあいます。 天下の豊臣秀吉の親族に仕えるところ、目の付け所が良いですねえ! その後、一旦浪人(今で言うニート)になった後、石田三成の家臣になるのですが、その際に採用される時の話をしましょう。 石田三成の家臣になる 引用: 豊臣秀保が亡くなってから島左近は浪人になりました。 いわゆるニートですね。 島左近、45歳の頃です。 まだまだ働き盛りなのにねえ。 自分の能力をいかにこの世に活かしていくのか?ってことを常に念頭に置いていたのでしょう。 実際に就職のお誘いは結構あったのに断っていたのは、自分のイメージと合致しなかったのですね。 そんな時、 豊臣秀吉の作り上げようとした世界を引き継ごうと志した石田三成からアプローチがかかります。 このアプローチは強力でした。 もちろん、はじめは「ok」しなかったのですが、三成の本気の想いが左近に伝わったのでしょう。 三成の半分の禄(給料)を与えるから来て欲しい!と破格の待遇を示されます。 これはすごいですよ。 主君となる相手と同じ禄を与えようと言うのですから、そりゃあ本気度マックスですよね。 そもそも三成が左近にアプローチをしたのには背景がありました。 石田三成が島左近にアプローチした背景 豊臣政権では、 石田三成は五奉行(現在の官僚のトップのようなもの)の一人として、政治手腕を発揮していました。 刀狩りやら、太閤検地やら、歴史的な様々な重要な政策を実行していたのでした。 しかし徳川家康が徐々に天下を狙って来るようになりました。 それを許せない石田三成。 徳川家康に比べ、石田三成は近江(滋賀県)の東を治めていた小さな大名でした。 さらに、 政治能力はあっても軍事的な能力が不足していることを、石田三成自身が把握していました。 とってお頭が良い人でしたからねえ。 そこで、軍事能力に長けていて、今誰の元にも仕えていない浪人の島左近は、 三成の不足部分を満たす相手としてぴったりだったのでアプローチをはじめたってわけです。 そんなわけで、石田三成の家臣となった島左近は、関ヶ原の戦いのプランを立てるに至るのです。 関ヶ原の戦い やがて豊臣秀吉が亡くなり、世の中はもともと自分で天下を狙っていた 徳川家康と、豊臣秀吉時代の政治の跡をつごうとする 石田三成の2つの勢力に分かれるようになっていきました。 その2つの勢力ががっぷり四つで戦ったのが、世に聞こえる「 関ヶ原の戦い」です。 関連記事: 島左近は、様々な献策を石田三成にしますが、採用されないものがあったりとすべての効果があったかはわかりません。 (島津義久とともに献策した夜襲が採用されていたら、もしかしたら、6時間で決着がつかず、もう少し長引いたかも知れませんね) 関ヶ原の前哨戦である、 杭瀬川の戦いでは、島左近が500の兵で出撃し、東軍の勢いを若干削ぐことに成功しています。 戦の上手ぶりを見せ付けてくれました。 本戦でも、激闘を続けます。 しかしながら最善を尽くすも、 戦闘の最中、島左近は銃で打たれ亡くなります。 御年61歳です。 (生存説など諸説あり) と、ざっとまとめますと、 前半は筒井家の元良い働きをし、後半は石田三成のもと、関ヶ原の戦いという、日本中が参加した戦いのキャスティングボードを描いた人生だったって言うことが言えるでしょう。 家紋「丸に三つ柏」とは? 一方、家紋の「丸に三つ柏」ってどういう由来と意味を持つのでしょう? 丸に三つ柏の由来は? 柏(かしわ)というのはブナ科の木の名前です。 神様にお供え物をする時、 柏の葉に食材を盛ったり、食材を炊くのに使用していたことから神事に繋がります。 また神社の参拝の際、 柏手(かしわで)といって、手と手をたたく儀式がありますが、この柏から来ています。 要するに、神様に関わる家がこの家紋を使っていたのです。 柏の木の特性 柏の木というのは、翌年に新芽が出るまで古い葉っぱが落ちないようにできています。 ということは、それを人間に例えると、 次の代まで切れない!というように捉えることもできます。 これは縁起がよい! ということで縁起物として、家紋が使用された経緯があるってことです。。 うんうん! それでは最後、島左近と家紋との関係性を見てみましょう! 島左近と「丸に三つ柏」との関係性は? 島家を遡ると、藤原氏にたどり着くようです。 藤原氏といえば、 平安時代、天皇をとりまく朝廷の中枢を抑えていたかなりの実力者たちです。 様々な公家を生み出しました。 そして江戸時代までその影響力が続きます。 ということは必然的に神様や天皇のことを補佐する一グループ!このあたりの血を島左近はひきついでおるようです。 また、 本家ではなく分家だったといえます。 なぜかといいますと、家紋が丸で囲まれていますが、この丸で囲まれているのが分家を意味するものです。 途中、藤原氏の子孫が分れ、大和の国に流れ着き、そこから戦国時代まで受け継がれてきたのでしょう。 (島左近とは関係ありません。 ) まとめ 島左近の家紋「丸に三つ柏」について意味や由来を見てまいりました。 神事を扱う藤原氏からの流れで、どこかで分家し、それが大和の国に住みついた島家に繋がっていったって言うことになるのですね。 公家から武将になる。 このブログは、あなたが知り得ない戦国武将の普段の様子や、何を食べていたのか?などをあなたに伝えるブログです! なんで知ってほしいと思ったのか?といいますと、どちらかというと表舞台に出ない、日常という部分にフォーカスし、掘り下げて見ることで、色々な発見があります。 その発見から、現代の我々が生きている時代にも使えたり、応用できたりするものがあれば活用して頂き、より豊かな人生を送るのにお役に立てて欲しいと思うからです! また、戦国武将、大名の事を知ることでどんどん武将達を好きになってもらいたいなと思ってます。 武将たちも人です。 生きている時代は違えど人の子。 共感できる部分はたくさんあリます。 神格化された大名など、実際の所、日常はどうなの?どんな逸話があるの?などと解き明かしていくと、すっかりその武将の虜になっちゃっているかも!? 戦国時代の他にも広く武士に関連した情報があれば、いち早くお伝えしていくことをモットーにしていきます。 あなたには、好奇心と感動をくすぐりまくられ、戦国時代の虜になるでしょう! お楽しみに!.

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