マーク・ボラン。 T・レックスとは何だったのか? マーク・ボランが生み出した永遠不滅の魔法に迫る

マーク・ボランの20曲:真に個性的な究極のポップ・スター

マーク・ボラン

本日、9月16日はマーク・ボランの命日である。 妖しいフォーク・デュオ、ティラノサウルス・レックスがロック化したT-レックスは事件だった。 それまで英米のロックではユニセックスなアーティストはほとんどいなかったからだ。 化粧が好きなミック・ジャガーがオカマっぽくふるまう場面もあったが、マーク・ボランの甘く震えながらささやく鼻にかかった声は、男にとって「男もイイな」と性の概念をトロけさせるヤバいものがあった。 女子はみんなマークに夢中だったが、日本の男子ロック・ファンにも性的に多様な道を選ぶ可能性を与えたのがマーク・ボランだ。 化粧はバンドに流行りだした。 それが遠くビジュアル系まで繋がる。 ラメも流行った。 マークのまとう肩幅の広いラメのジャケットは、売れに売れ、重度のファンだった僕の千葉の中学のクラスメイトはジャケットだけを買い、完全に持ち腐れた。 着ていける場所など千葉にはどこにもなかったからだ。 1971年秋「電気の武者」の発売直後は、加藤和彦のように耳の早い人が話題にしている感じだったが、72年初頭のシングル「テレグラム・サム」のヒットで日本のシーンには完全に火がついた。 ビートルズ不在の穴を埋めた感があった。 当時はレッド・ツェッペリンが王者だったが、ツェッペリンにはない性的アイドルの匂いがあったのだ。 歌舞伎の女形の伝統を持つ日本は、欧米よりもこうした存在に敏感だ。 60年代末のグループサウンズでは、沢田研二やオックスの赤松愛が女性的オーラを発し、世界でも特異なジェンダー的状況を作りだしていた。 しかしマーク・ボランがGSをぶっ飛ばすようなインパクトがあったのは、その麻薬的音像である。 それは薬物体験を持たない青少年も官能させる「ドラッギー」な響きに充ち満ちていた。 60年代のサイケデリック・ロックはハッピーでアッパーな輝きはあったのだが、T-レックスは、精神のインナーワールドに直接響く、ダウナーな感触を持ち合わせていたことが画期的だった。 アチラの世界はアッパーだけでは語れない。 日本少年少女はマークから「心のアンダーグランド」を学んだのではないだろうか? 必殺のギターリフにストリングスのからむミディアムなグルーヴも特別だった。 グラムロックは、スピード感やハードロック的ドタスタ感のインパクトに頼らない、ミドル・テンポの渋いブギーだ。 まだまだグルーヴ音痴だった日本のロック・ファンをハイ・テンポにならずイケイケにさせた、さりげなく凄い功績。 日本の少年少女をロックのグルーヴに入門させたのもマークではないだろうか? そしてなんといっても、鼻声を「アイドルの声」という響きに昇格させた意義が大きい。 一般的2枚目的な美声ではない、グニュっと低い声の印象がスターのテイストに塗りかえられた。 72年8月1日に、郷ひろみがデビューするのだが、マーク・ボランのヒットは影響はしていないだろうか?声の妖しさには共通性がある。 出典未確認だが、近田春夫が当時、郷ひろみを「和製マーク・ボラン」と評したという話しもある。 1972年はマークと郷ひろみの当たり年なのだ。 ギターボーカル&パーカッションという編成については、ティラノサウルス・レックス時代からPANTA率いる頭脳警察が向こうを張っていた。 ピックアップをとりつけたアコースティック・ギターとコンガという編成、PANTAとマーク、カーリーヘアの見た目が似ていた。 頭脳警察の音楽は主張もビートも、T-レックスより激しかったが。 T-レックスとなった頃、頭脳警察のステージもドラムを入れたバンド編成が増えた。 マークとPANTAはロックのセックスシンボルという意味でも良き時代のライバルであった。

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T・レックス

マーク・ボラン

男性でありながらメイキャップしてラメやサテンのコスチュームを身にまとって演奏。 今でこそロックアーティストがメイキャップすることは珍しくありませんが当時としては衝撃的でした。 1968年にデビュー。 フォークロック・グループとしてマニ アックな人気がありました。 その後、新しいパートナーに ミッキー・フィンを迎え1970年12月に「 T. Rex」とバンド名を短縮、「 ライド・ア・ホワイト・スワン」 全英2位 の大ヒットでスターダムに。 アルバム『 電気の武者』がUKチャート1位の大ヒット。 「 ゲット・イット・オン」 全英1位・全米10位 「 ジープスター」 全英2位 といった人気シングルも生まれ、グラムロック・グループとして一斉を風靡。 1972年に『 ザ・スライダー』 全英4位・全米17位 、1973年には『 タンクス』 全英4位 と次々にヒットアルバムを出しました。 日本でも武道館公演を行なうほどの人気で、1973年にリリースされたシングル、「 20センチュリー・ボーイ」 全英3位 は当時の東芝EMIのスタジオでレコーディングされたほどでした。 さらに「 ザ・グルーバー」「 トラック・オン」「 ライト・オブ・ラブ」「 ティーンエイジ・ドリーム」もヒットしました。 グロリアジョーンズとの恋愛と突然の死 しかし1975年に入るとグラムロックブームも終わり、急速に人気もしぼんでいきました。 そして黒人女性シンガーの グロリア・ジョーンズと1969年に最初に出会い、恋愛関係になりました。 「 僕と母の前に突如現れた救済者がデヴィッド・ボウイだったんだ」 以後はグロリアさん母子の 衣食住・生活費全部をボウイが支払い続けただけではなく、ローラン君の学費までずっと父親がわりになって支払い続けたといいます。 ボウイの優しさに感謝する母子が「 血縁でもないのに何故こんなに親切にしてくれるんですか?」と訊いても、 「長年親しくしてきた親友の家族が困っている時、ヘルプするのは友人として当然のこと。 大したことじゃないよ」 と軽く受け流し、 「今後も何か僕にできることがあるなら、遠慮せずいつでも連絡してくれ」 と会話の最後にはいつも付け加えていたそうです。 そんなボウイも2016年にその生涯を終えてしまいましたが、こうした素晴らしいカリスマ同士の友情があったのです。

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アキマツネオが語る、feed.partizan.comの本質「マーク・ボランの魅力は音楽理論を超えたところにある」

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ミッキー・フィン死亡記事 ミッキー・フィンの死亡記事 2003年 1月14日・・・粗雑な仮訳なのでご容赦を。 (高級紙のタイムズ。 芸能記事に関わらず、かなり紙面を割き、詳細に調べてあります。 ) Mickey Finn・・T. Rexの主要メンバーとして時代のスタイルを定義し、バンドの名前と音楽を不滅にしたパーカッショニスト T. Rexのパーカッショニストであり、時にはベーシストでもあったミッキー・フィンの役割は、その音楽的な貢献をはるかに超えるものだった。 写真やアルバム・ジャケットでは、ストレートな漆黒の髪に、青白く、ハンサムな顔立ちの彼は、暗いアイシャドウに派手なカーリーヘアーのマーク・ボランと対照的な様式美を醸し出している。 おそらく、1969年に彼がティラノザウルス・レックスに参加したことで、グループ自身にとっても、ポップ音楽界一般にとっても一つの終焉が訪れた。 スタイルが内容より重要、という点で。 ボランはもう一人の相棒、スティーブをロサンゼルスで見捨てざるを得なかった。 フィンの参加で、ティラノザウルス・レックスの、風変わりな、トルーキン風味は次第に消えていった。 (トゥックのミドル・ネームは「指輪物語」のいたずらな小人にちなんで付けられている。 )アルバム「ビアード・オブ・スターズ」がティラノザウルス名義では最後のものとなった。 ボランとフィンはT. Rexとして1970年9月に「ライド・ア・ホワイトスワン」を携えて戻ってきた。 妖精についてのナンセンスな歌詞はそのままだが、ボランの曲はドノヴァンスタイルのアコースティック・フォークから、サンバースト・レスポールのエレクトリック・サウンドへの移行し、エッジが利いた、勇ましいサウンドが巧みに作られていた。 この曲は全英2位になった。 トゥックに音楽的な才能があったことは間違いない。 しかし、ボランはトゥックに才能面で劣っても、トラブルを起こす可能性が少ない、新しい相棒に取り替えるのを躊躇しなかった。 トゥックは常にドラッグびたりのジャンキーであり、また、自身のハードロック志向を、ティラノザウルス・レックスに導入したがっているのがボランの気に触ったのだ。 ボランは、自分が参加するバンドは常に、彼のためのバック・バンドであると決めていたので。 フィンはまさに、うってつけだった。 彼はある時はパーカッショニストであり、常にティーン・アイドルという、その役割に満足していた。 (「ちゃんとした」ドラマーは1973年に加入した。 )ボランは「彼は歌なんてからっきしだけど、ルックスが最高だからね。 」と後に言っている。 「ゲット・イット・オン」や「テレグラム・サム」でよく判るように、フィンはバンドの音をさらに「ビーバップ」感のあるものに捻じ曲げ、またある時はまずまずのベーシストだった。 しかし、もっと重要なのは、彼はボランの非常に親しい友人だったことであり、ボランが常にスターとしてトラウマに悩まされている間、陽気に元気付けていたことだ。 しかし、ヒットと金が生まれるにつれ、フィンはホテルのスイートルームでおきまりのアルコールやドラッグ・セックスに耽るようになる。 Rexは「ジープスター」「チルドレン・オブ・ザ・レボリューション」「20thセンチュリー・ボーイ」など8曲連続トップ・チャートに送り出した。 が、急に失速した。 全くアメリカでヒットを飛ばさなかったのもその一因である。 1975年ごろには、メディアは、ボランは3コードの強烈なリフ以外のスタイルで曲を作れない、と日増しにとげとげしく批判した。 ボランは周囲に当り散らすようになり、フィンを含むバンド・メンバーの給料を減らそうとした。 既にメンバーの収入はボランと比べてかなりつつましいものであったが。 ボランはT. Rexは1975年3月に絶滅すると宣言した。 ツアーは大絶賛で、新ムーブメントのパンク・グループとそのファンも賛辞を惜しまなかった。 一方、フィンは、スティーブ・マリオット・グループでギターを弾いていたが、(注:このフィン氏は同姓同名の別人との指摘あり。 1977年のボランの交通事故死で彼の問題は更に悪化した。 後に彼は、「マークが死んで、おかしくなっちゃったんだよ。 僕らは兄弟以上だったからね。 」と語っている。 10年後、容貌は衰え、財産を全て失い、フィンは南ロンドンノーウッドの母の元へ帰る。 1997年、彼はケンブリッジでのボランの没後20周年記念に出席する。 彼は1973年にT. Rexのドラマーだったポール・フェントンと組み、T. Rexを再結成する。 他に4人のメンバーを加え、ミッキー・フィンのT. Rexとし、ヨーロッパから日本までツアーを行った。 2001年にはクラッシックなT. Rexナンバーを集めて「バック・イン・ビジネス」というアルバムを出している。 昨年、BBC2の番組にも出演し、容貌は変わってしまったが、誰もがすぐに彼と気づいた。 さらには、昨年のボランの死から25周年記念ではボランの息子、ロランを含む2000人のコアなT. Rexファンを前にプレイした。 1991年のT. Rexリバイバルは彼に何ももたらさなかった。 フィンは金銭的な問題は耐えられるが、亡き親友ボランがフィンのT. Rexでの役割を目立たなくしていることにフラストレーションを感じると語った。 「僕はT. Rexで重要な役割だったということを忘れて欲しくないんだ。 」「T. Rexを聞くときにマーク・ボランと同じに、ミッキー・フィンも思い出して欲しいんだ。 ・・・完全に忘れられていたら深く傷ついてしまう。 」 ミッキー・フィン・・T. Rexのパーカッショニスト・・は1947年6月3日生まれ。 2003年1月11日にロンドンで亡くなる。 55歳。 肝臓・腎臓疾患だった。

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