赤狩り ディズニー。 「ローマの休日」〝赤狩り〟と闘った人たち 5月20日: 暖かさと希望を届けたい

ウォルト・ディズニーってどんな人?:今週のクローズアップ

赤狩り ディズニー

東京ディズニーリゾート(「Wikipedia」より) ディズニーR、来たことを後悔する人続出…陳腐&危険な混雑&バカ高いで行く意味消失 2017. 27 文=編集部 Business Journal 東京ディズニーリゾート(TDR)が、まさかの2連敗。 マスコミやネットの論調をまとめると、こんな具合だろうか。 4月、TDRとUSJの2016年度入場者数が確定した。 「TDRとUSJで明暗分かれる」と報じた新聞社もあった通り、TDRは前年度比0. 6%減の3000万人と2年連続で前年実積を下回った。 一方のUSJは5%増の1460万人と、3年連続過去最高を示した。 TDRを運営するオリエンタルランドは入場者減少について、下の2つを主な原因として挙げている。 (2)についても、台風は1年限りのアクシデントだ。 2年連続で前年割れという顧客離れの直接の原因とは考えにくい。 3月20日に東京ディズニーランド(TDL)を訪れた、1歳半の子を持つ40代の父母に話を聞いた。 まず父親が苦笑して言う。 「初めて子供を連れてきました。 祝日だから混雑は覚悟していましたが、それでも予想を上回る人混みに驚きました。 無理してアトラクションに乗る必要はない、園内を散歩できれば充分と夫婦で考えていたのですが、散歩でさえ厳しかったです」 この父親によると、互いを見つめあう若いカップルや、マップを凝視する外国人観光客は周囲への意識が散漫ぎみだという。 子供と衝突しそうになって冷汗をかいたことも、何回かあったそうだ。 「混雑に疲れたこともあって、昼食は外に出ました。 夫婦共にほっとしましたし、子供が最も喜んだのが誰もいない入場ゲートの外で走り回ることだったんです。 これなら、チケットを買う必要はなかったですね。 大学生の時に友だちとわいわい言いながら来た時は楽しかったはずですが、今回は満足感が得られず、不思議な気持ちになりました」(同) 家計を預かる母親は、さらにシビアだ。 「子供がぐずるのが怖くて、行列は避けました。 だから、朝から夕方まで滞在して乗れたのは蒸気船の『マークトウェイン号』や『ウエスタンリバー鉄道』など、片手で足りる数ぐらいのアトラクションでした。 子供は喜びましたが、入場料は夫婦2人で1万4800円ですからね。 高すぎるというのが実感です」 これに昼食、夕食代も加わる。 園内の混雑を避け、なおかつ節約しようと家族はイクスピアリのフードコートを利用した。 「それでも、1食で2000円ぐらいはかかります。 家族が祝日を過ごす方法としては、あまりコストパフォーマンスはよくないというのが正直な気持ちです。 だが、似た不満を感じた来園者は、決して少なくないのだ。 そう指し示すデータが厳然として存在する。 それが「日本版顧客満足度指数」(JCSI)という日本最大規模の消費者調査だ。 これは2006年、当時の小泉純一郎政権が発足にかかわり、代表幹事は茂木友三郎・キッコーマン取締役名誉会長が務める「サービス産業生産性協議会」が実施したものだ。 調査は国内の小売サービス業32業種・上位企業約400社を対象とし、回答者は12万人のユーザーだ。 JCSIの年間調査で、TDRは常に高い評価を受けてきた。 12年度からの「顧客満足度上位50企業・ブランド」ベスト3を振り返ってみよう。 12年度 1位:劇団四季、2位:TDR、3位:オルビス 13年度 1位:TDR、2位:劇団四季、3位:帝国ホテル 14年度 1位:劇団四季、2位:TDR、3位:宝塚歌劇団 このように、TDRは劇団四季と激しいトップ争いを繰り広げていたが、15年度に突然、11位に転落してしまう。 さらに17年3月に発表された16年度調査では、驚愕の27位にまで急落している。 顧客満足度の低下に歯止めがかかっていないことが浮き彫りになっている。 調査関係者は、次のように分析する。 「TDRの2000年代における入場者数は、2400〜2700万人を上下していました。 ところが、TDRは13年度に30周年を迎えたこともあり、入場者数をさらに増やす戦略を取ります。 結果、同年度は3129万人、14年度は過去最高の3137万人を叩き出しました。 サービス業関係者は、次のように指摘する。 「サービス業における2大基本は、『設備の魅力』と『従業員の接客態度』です。 USJの人気は報道の通り、次々と新アトラクションを投入したことが大きく寄与しています。 一方のTDRですが、昨年にTDLを訪れたところ、アトラクションのマンネリ化と、大混雑でキャストが疲弊している印象を強く持ちました」 2大基本がなっていないのだから、ただでさえ悪名高い「待ち時間・行列」への苦痛、不快は増す一方だ。 そのため、顧客満足度はさらに下がってしまう。 「なんでもすぐに手に入るネット時代の到来で、消費者は待つことの耐性を引き下げられた」という分析をしているメディアもあるが、そんなに複雑な話ではないだろう。 何よりも、TDRは客が多すぎるのだ。 年間入場者数が2000万人台に戻れば顧客満足度が回復する可能性はあると考えられるが、企業の論理からすると受け入れられないだろう。 「TDRは、中長期的な経営戦略が間違っていたと言わざるを得ません。 新アトラクションの投入が不完全でした。 それに比べると、入場料値上げの悪影響は本質的な原因ではないでしょう」(同) TDR側は何が問題なのか、よくわかっているようだ。 実際に、20年までに約2500億円の大規模投資に乗り出すことを発表している。 『美女と野獣エリア(仮称)』など新アトラクションの着工準備のほか、屋外の寒暑対策、温水便座の導入なども計画しているという。 つまり、顧客満足度が低下していることを充分に理解しており、対策に乗り出しているのだ。 あらためて振り返ってみれば、TDLの開園は1983年。 人間でいえば、御年34歳。 立派な中年だ。 「老朽化を感じるのは、アトラクションなどのハード面だけでなく、食事などでも見られます。 ピザなどの洋食は、80年代ならば来園者は心の底から満足したでしょう。 しかし、バブル崩壊後、デフレ経済に直面した外食産業では『安くて、なおかつおいしい食事』の競争が激化し、コストパフォーマンスが格段に向上しました。 ところがTDLの飲食店は、そのレベルアップに追い付いていません」(同) 逆に、TDRにとってレストランのレベルアップは、短期で改善できるポイントだと見なすこともできる。 今のTDRにとって必要なのは、こうした「応急処置」だろう。 新アトラクションがオープンするまで、さまざまな「目先の問題」を発見し、解決していく。 そうして入園者数と顧客満足度の下落を必死に押し止めるしかない。 「USJもそうですが、TDRの経営が大変なのは、常に一定の利益をアメリカの本社に吸い上げられることにあります。 TDRは1パーク(東京ディズニーランドと東京ディズニーシーのうち、いずれか片方のパス)6万3000円、2パーク(両パーク共用パス)9万3000円だが、USJは3万4800円か2万2800円、という価格設定になっている。 「リピーターを大切にすることは商売の王道です。 USJが、対TDR戦略として、まずは入場者数を伸ばしていくという方針も理解できます。 とはいえ、最大でも5回、最低でも3回行けば元が取れてしまうというのは、サービスし過ぎかもしれません。 よくも悪くも、TDRが殿様商売をしているのに対し、USJの収益構造は、まだ磐石なものとはいえないでしょう。 年パスの価格差は、その象徴として捉えられるのではないでしょうか」(同) USJは2001年のオープンで、まだ16歳と若い。 「後輩」「挑戦者」としてのアドバンテージを充分に活用しているといえるが、いつかはTDRのような中年に差し掛かる。 同じ轍を踏まないためにも、中長期的な経営戦略の構築は、しっかりしないといけないようだ。 ライバルUSJから激しく追い上げられているTDR。 発表された2500億円の大型投資が「プラスに働く」と予測するのは、小川孔輔・法政大学経営大学院教授(マーケティング論)だ。 「発表通りなら、新しいアトラクションがお目見えする2020年の春以降は、顧客満足度が回復する可能性が高いと思います。 ただし、それまでの間、園内の混雑緩和と既存施設のリニューアルで、顧客の期待を裏切らないように努力することが必要です。 TDRが日本のサービス産業を牽引していく役割を担っていることに変わりはないでしょう。 USJの追撃をかわしてTDRが復活することに期待します」 ネット上でも人気のある、ウォルト・ディズニーの名言に、こんなものがある。 「過去の出来事に傷つけられることもあるだろう。 でも私が思うに、そこから逃げ出すこともできるが、そこから学ぶこともできる」 オリエンタルランドの社員・関係者は、この名言を拳拳服膺して忘れないことが求められているに違いない。 東京ディズニーシー開業15周年の関連商品の販売好調も寄与した。 売上高は2.7%増の4777億円、本業のもうけを示す営業利益は5.4%増の1131億円。 18年3月期は減収減益の見通し。 入園者数は前年度比約50万人減の2950万人を予想する。 横田明宜常務は記者会見で「何周年のイベント翌年は入園者数が減る」と説明した。 asyura2. html c28 マスコミが報じない!創価学会系企業のまとめ どこかで創価学会系の企業を一覧で見れるようなサイトがないか調べていましたが、なかなか見つからないので独自で調べてまとめてみました。 あくまで噂なのであしからず。。。 株式の1割は星野康二(スタジオジブリ社長、ウォルト・ディズニー・カンパニー・ジャパン元社長)など創価学会の幹部が保有。 (略) 凄い!これが在日のパワーか!日本の経営者大丈夫??? これを見るとアベノミクスの成長戦略も危うい気がします。 しかし、パチンコ店や風俗店の売り上げが北朝鮮に流れ、 それが核兵器やミサイルの開発資金になっているとの話しも あり、これは重大な問題ではないでしょうか。 それで人手不足?人件費ケチって従業員をコキ使って生み出してる不正な利益だな。 酷使されて賃金安いって話じゃん。 13 ID:dnfzGHZj0 夢の仕事場 の幻想がばれたか。 35 ID:42pc3e5z0 ディズニーって結構ブラックだよね 夢と希望と誰もが憧れるお仕事と銘打って、実際はただの非正規低賃金の奴隷を 求めてるだけ。 26 ID:vBYl4r9L0 売り上げは大幅減だったと思ったが。 純利が上がってるならいいのかな。 日本スゴイ。 19 ID:tO2BlnSF0 夢の国じゃねぇのか 結局は金儲け第一か スタッフも毎日毎日同じ事ばっかしてるんだもの辛いだろうな で給料は50万位は無いとやってられないだろ dメニュー ニュース ディズニーランドを誘致した『全国女性街ガイド』著者の正体 NEWSポストセブン2017年01月20日16時00分 (略) ・・その一方で長男・聡一郎から興味深い話も聞いた。 若い時にテレビ喫茶を始めたのは正力松太郎からテレビをたくさんもらったからだと言っていたし、有名な総会屋の志賀さんという人と付き合っていて、毎年お歳暮をもらっていた」 この「志賀さん」とは、東京ディズニーランド建設時の埋め立て事業でマスコミを賑わせ、川崎との親交が囁かれた総会屋・志賀三郎のことだ。 戦前、外部招聘を受けて京成電鉄の総務部長となり、京成電鉄が上野・浅草に乗り入れられるように政治家に働きかけて「贈賄」で有罪判決を受けた。 また、正力が設立した「大日本東京野球倶楽部」(後の東京巨人軍)の筆頭株主も京成電鉄だった。 川崎が相談役となり経営の一線から退くのと時を同じくして、京成グループとも徐々に疎遠となっていった60代後半の渡辺は、「千葉日報」の論説委員などを務めた後、京成電鉄が開発したベッドタウン・京成八千代台で、余生を過ごした。 そして平成9年8月、妻と娘に看取られながら84年の生涯を終える。 356か所の売春地帯を歩き回り、1000人を超す女たちに「取材」を続けてきた無頼さのかけらもない穏やかな最期だった。 このTDRによる食品偽装、なぜかマスコミ各社はこれを大きく報じようとせず、TDRの不祥事が世間に知られることのないまま、葬り去られてしまいかねない事態になっていたことは、当サイトの11月20日配信記事『ディズニーランド食品偽装はなぜ批判されない?巧妙手法とマスコミタブー、ディズニー信仰』()が伝えた通りである。 このTDRの食品偽装問題が、ここにきて新たな展開を見せている。 (略) (一部抜粋) (略) ・・・「テレビと雑誌はTDRから莫大な広告をもらったり、取材させてもらっている関係で、悪口なんて書けない。 TDRの不祥事が大々的に報道されることは、刑事事件にでもならない限りないでしょう」 大手出版社の編集者はこう話すが、実際、メディアとTDRの深い関係は想像以上だ。 例えば、講談社は東京ディズニーランド、東京ディズニーシーのオフィシャルスポンサーになっており、「ディズニーファン」という専門月刊誌、「東京ディズニーランドベストガイド」「東京ディズニーシー パーフェクトガイドブック」「東京ディズニーランド おまかせガイド」「子どもといく 東京ディズニーリゾート ナビブック」「東京ディズニーリゾート ハピネスガイドブック」など、年間10冊以上のディズニーガイドブックを出版している。 これでは同社発行の「フライデー」や「週刊現代」にディズニー批判が載らないのも当然だろう。 そのひとつが、TDRと読売グループ、政治家との関係だ。 (略) ・・ベテラン政治評論家は、TDRと政治家、読売グループの関係について、次のように解説する。 「氏家氏は、東京ディズニーランドのオープンとほぼ同時期に日本テレビ副社長に就任して以降、運営元であるオリエンタルランドの歴代経営トップとは非常に密接な関係にあった。 政治家を交えた会合も何度も開いていたようですし、アメリカのディズニー本社との交渉や地元対策のための政治家への根回しなどにも、協力していたと聞いている。 日本テレビが同映画を放映し、ディズニーと二人三脚で日本での原発導入の地ならしをした。 ちなみに、正力松太郎氏のCIAのコードネームはポダム(podam) 日テレのコードネームはポダルトン(podalton)。 もちろん今も、日本国民のための新聞社ではなく、米国に利益誘導したり、 情報統制したりするための新聞社という事になります。 kaola. 息子(5歳くらいだったかな?)が「トイレに行きたい」と言うので、お父さんが付き添いでトイレに行ったそうです。 でもお父さんはトイレのなかまで一緒に行ったわけではなくて、 トイレの出入り口のところで息子を待っていたそうです。 5分、10分たってもいっこうに息子が出てこないのでお父さんが耐えかねてトイレの中に探しに行ったところ、息子の姿はどこにもなかったそうです。 両親は急いで近くのスタッフの人に事情を説明すると、そのスタッフの人は両親に「黙っててください。 すみません。 」と、言って、監視モニターが沢山ある部屋に連れていってくれたそうです。 連れて行く間スタッフの人は無線のようなもので暗号かと思うくらい意味不明な言葉を話していたということでした。 モニター室に入ると、「ゲートは全て閉じましたから」といわれ、沢山のモニター の中から息子さんの姿があったら教えてと言われ、両親はくいいるようにモニターをみつめていたそうです。 しかし、それらしい姿は見つからず、もうだめかと思った時、お母さんが「あの子息子と同じ靴をはいている」と叫んだそうです。 その瞬間、そのモニターに写っていた子どもの周りの大人達がその子のお父さんらしき人の腕をグッと掴んだそうです。 その数5. 6人だったと思います。 その子は帽子をかぶって、顔が隠れるくらいのマスクをして くるまいすに乗せられていたそうです。 顔を確認しようと帽子、マスクをとってもその子はぐったりして、意識はないように見えたそうです。 結局、その子がその両親の子どもだったそうで、くるまいすを押していたお父さんらしき人物は人身ブローカーということでした。 と、これはかつて「あめぞう」の掲示板で収集したものだが、ほぼこのままのエピソードが「〜だそうです」式の伝聞口調で語られているのを何度も耳にしたし、ディズニーランドを舞台にした噂話というとかならずネット上にも登場する。 これこそ、地下トンネルや巨大ネズミ以上に有名な最も一般化したディズニーランドにまつわる都市伝説かも知れない。 だが、この話の元ネタとも言えるエピソードがジャン・ハロルド・ブルヴァンの『消えるヒッチハイカー』という都市伝説を収集した本に登場する。 舞台はディズニーランドではなくソルトレイク・シティの北にあるファーミントンの「ラグーン」という名の大きな遊園地だ。 ある夏の休日、モルモン教徒の大家族がこの遊園地に遊びにゆき、幼児の行方を見失ってしまう。 後にその幼児が出演している幼児ポルノ映画が発見され、ある暗黒組織に誘拐されたことが判明するというあらすじだ。 この話は地元ではかなり一般に知れ渡り、知らない者はいなかったという。 だが、不思議なことにこの事件が掲載された新聞記事は存在しない。 疑問に思ったユタ州の二人の学生が追跡調査したところ、この誘拐事件の舞台はいつの間にかディズニーランドに変化していたのだった。 日本でも大正14年に開園した「市岡パラダイス」という劇場や温泉を目玉にしたアミューズメントパークで、サーカス団の興行中、曲芸師のなかに行方不明になっていた某洋品店の娘を両親が発見し、交渉の末にとりかえしたという噂が広まった。 ちょうど時節的に新聞の紙面が誘拐事件で賑わっていたという当時の世相もあいまって、その噂話が巷の脚光を浴びてしまった。 しかもこのスキャンダルが逆にサーカス団への好奇心をそそり連日満員の大盛況だったともいう。 もはや遊園地や劇場といった娯楽施設を舞台にした誘拐事件は都市伝説の定番ともなっているようだ。 海外旅行へ行った学生が洋品店の試着室で行方不明となり、数年後、東南アジアの山中で「ダルマ人間」として見世物にされているのが発見されるといった話とまったく同系列のものだとも解釈できるだろう。 神や仏のように完全な人間が存在しないように、一般大衆は一寸のほころびもなく健全で明るい娯楽空間など存在するわけがないと思いたがるのだろう。

次の

ウォルト・ディズニー

赤狩り ディズニー

僕にとって親しみ深いところを挙げるだけでも、チャールズ・チャップリン、ダシール・ハメット、ジョン・ヒューストン、ウィリアム・ワイラー、オーソン・ウェルズ、ハリー・ベラフォンテ、アーサー・ミラーなど、そうそうたるメンバーが告発されたり、ブラックリストに載せられたり、一時映画界から追放されたりしました。 一方、マッカーシーの側に立って密告した人物として、エリア・カザン、ゲーリー・クーパー、ウォルト・ディズニーといった名前があがります(ニクソンやレーガンも密告者だったそうです)。 赤狩り=マッカーシズムをどう評価するかは色々な立場があるのですが、僕には、この事例などはアメリカは時に行き過ぎたことをするが、自浄能力もあって、行き過ぎには反動が生まれるようになっていると感じます。 60年代にカウンターカルチャーが花開いたのはマッカーシズムと無縁ではありません。 強いアメリカ、自由と正義のアメリカという50年代のイズムに対する異議申し立てが60年代のカウンターカルチャーであったはずです。 映画界では60年代はアメリカン・ニュー・シネマの時代ですが、これもまさにカウンターカルチャーの一表現でした。 僕はアメリカン・ニュー・シネマを愛好する人間なので、マッカーシズムにはネガティヴな感情を持ちがちなのですが、しかし、考えてみるとマッカーシズムがあればこそ、アメリカン・ニュー・シネマの台頭もあったのだと思います。 僕には、良くも悪くも「アメリカは理想の国家を目指すべきだ」という信念がアメリカ人に根付いていることが、このような現象を生み出したように思えます。 レーガンからブッシュに至る流れのために「強いアメリカ=正義」という図式が、アメリカの本質であるという認識の方もいるようなので、すこし振り返ってみるのも良いかな、と思い、投稿しました。 (誤解なら無視してくれ) ただそれだけ。 が、無責任な傍観者さんだけをターゲットにしているわけではなく、ここ数年のインターネット上の論調を思い返して問題提起しているつもりです。 僕が気になっているのは、まず「強いアメリカ=正義」をアメリカ人自身が肯定しているという先入観があって、そのイメージにマッチするシーンを発見すると「ほら、アメリカはいつもこうだ!」というアジテーションが始まるということです。 こういう脊髄反射的な反応は、冷静な議論を損なうし、これといった益がないと感じます。 アメリカは時代とともに変質しています。 日本もそうです。 何らかの「決めつけ」が映画の解釈に有益とは思えない、ということです。 ハリウッドの全盛期とアメリカン・ニュー・シネマが、映画史に一時代を築いたということは異論のないところだと思いますので、その時代の変化がどうして起こったのかを通じて、アメリカの多面性を論じられたら... と思っています。 全てのアメリカ人と会った事も話した事もないボクらは、 得体の知れないアメリカ人を、 何かの枠にはめないと語れない。 それが、ある日本人によれば アメリカ人ってのは「強いアメリカ=正義」を肯定している。 って事になるのでしょう。 ボク自身もその事は否定しませんよ。 まぁ、似たような思いを持っている。 それと、ネット上でのアジは なんとも言いようがないな。 確かに下らないとは思うが、 単なるアメリカへの思い入れや反発だけでなく、 面白半分も手伝うからな。 オレみたいに。 ただ、そんなボクでも アメリカン・ニュー・シネマは嫌いじゃないし、 ビックマックだって食べるし、 コカコーラだって呑むし、 何だかんだ言っても「ボビー」も観ちゃう。 確かにアメリカは嫌いだけど、 ネットでアジる程ではない。 だってボクはアメリカ人じゃないからな。 アメリカの国と人を語れるぐらい アメリカ人と話した事もないしな。 勉強も不足しているし。 それにアメリカは広いしねぇ。 だから、「そこは謙虚に行っとこうぜ。 」 ってのがボクの気持ちだ。 アジる奴の気持ちは分らん。 難しいねぇ。 変化しているという点は分かるよ。 それはボクの場合アメリカだけではなく、 「全て」と付け加えたいぐらいだな。 ただ、言葉のアヤかもしれんが 「決めつけ」ではなく 「決めないと」映画って解釈できなくね? 最もボクは映画を解釈しようと 試みたことはほとんど無い。 解釈している人の気持ちになって考えてみただけ。 ま、仮にそうだとして 「決めつけ」と「決める事」の違いが良くわからん。 客観的に、より客観的たらんとする事か? ボクは普段は唯物論者のくせに、 映画は主観的かつ観念的に観たいと思っているから、 より客観的に観て「決める」って事への 限界が無いだろうか?と思うのだが? 「ボビー」について色々書いてあるのを読んだけど。 まぁ、何か心の琴線に触れたんだろう。 的な感想しかボクは持たなかったな。 それが例え、盲目的で一方的かつ飛躍した極端な感想だとしても、 しょうがないじゃん。 って感じ。 ただボクは、自分の感想に謙虚であれ。 とは言いたいけどね。 と思っています 論じられると良いね。 ボクは消えますので、 とりとめがなくてスマン。 ただそれだけ。 原作はレジナルド・ローズの脚本によるTVドラマ。 ルメットは、それまでいくつかのTVドラマを手がけていたのですが、ローズと主演に抜擢されたヘンリー・フォンダによってこの映画の監督に招かれたそうです。 この作品は「密室物」の傑作と評価されていますが、それ以上に「アメリカの陪審員制度の優れた点」をよく描いていることで知られています。 と同時に、同年に公開された「戦場にかける橋」もそうなのですが「人権」「公正さ」というものにスポットが当てられた作品として印象的です。 「12人の怒れる男」も「戦場にかける橋」もアカデミー作品賞の候補となりました(受賞は「戦場にかける橋」)。 マッカーシズムの終焉が1954年末なので、これらの作品は当時のメディア人たちが「公正さ」に重きを置いていた気分を感じさせると思うのですが、考え過ぎでしょうか。 カザンは共産党員だったのですが、マッカーシズムの圧力に負けて転向し、仲間を売ったのです。 この1999年の事件は、カザンの転向から60年がたっていたにも関わらず、カザンのことを許す気になれない業界人が多数いたということを示しています。 マッカーシズムのような言論統制に対して、何人かの映画人は海外逃亡を余儀なくされます(たとえばロバート・アルドリッチがそうです)。 これに対し、チャールズ・チャップリンは抗議の意を表するために映画製作を続けました。 こうして生まれた作品が「ライムライト」です。 この作品を撮り終えたチャップリンのコメントを引用します。 「私は笑いと涙とが、憎しみと恐れの解毒剤になることを信じて疑いません。 … われわれの周囲には、暴力や、病的なセックス、戦争や殺人、不寛容などが無意味に充満した映画があまりにも多すぎます。 」 「ライムライト」は穏やかな男と女の物語です。 この映画そのものにはマッカーシズムへの直接的な抗議は表現されていません。 上記のコメントからもわかるように、東西冷戦への白熱に対する警鐘として、チャップリンは愛の物語をリリースしたのです。 しかし、この映画は各地で上映禁止となり、ハリウッドのあるカルフォルニア州で上映されたのは実に完成後20年も経ってのことでした。 私たちは「ライムライト」が不当にも20年も上映禁止だったという事実を通じて、マッカーシズムがどれだけ深刻なものだったかを感じることができます。 と同時に、権力からの圧力に屈しない信念を持つクリエイターが存在していたということもわかるのです。 1962年の「夜への長い旅路」、そして1964年の「質屋」という映画はヘイズコード(ハリウッド映画界にあった自主規制)に挑戦した作品として知られているそうです(個人的には未見)。 特に後者はハリウッド映画で初めて女性の乳房を露出させた映画ということで記録されているそうです。 そう考えると「イージーライダー」におけるドラッグやフリーセックスの描写は相当過激なものだったのですね... この映画は予算の都合で撮影準備から編集までのすべてをイタリアで行なったのですが、トロンボはこの撮影に参加することができませんでした。 ブラックリストに載せられていたためです。 トランボが「ローマの休日」にどの程度貢献したかはわかりません。 映画の脚本というものは撮影中に変更することもしばしばですし、まして「ローマの休日」はローマでのロケーションとチネチッタスタジオでの撮影で作られましたから、いろいろと想定外のことが起こったはずです。 オードリー・ヘップバーンを活かすためにいろいろと修正が必要だっただろうことも想像できます。 ただ、監督・製作のウィリアム・ワイラーにとって、トロンボの貢献はどうしても記録しておきたかったに違いありません。 わざわざ映画のクレジットに原案という項目を用意したのですから... トロンボの名前が映画に復活するのは1960年の「スパルタカス」「栄光への脱出」によってです。 彼は「ジョニーは戦場へ行った」の原作者としても知られています。 この原作の出版は実に第二次大戦前のことですが、戦争中は発禁処分となり、戦後に解禁。 さらに朝鮮戦争の際にも発禁処分となり、戦後に解禁となっています。 本作は1971年、ベトナム戦争のただ中に映画化されるのですが、この際トロンボは監督・脚本を担当しています。 まさに執念の作家というわけですが、その彼のもっとも愛された作品が「ローマの休日」であるのは、不思議な気がします。 カザンはアメリカ元共産党員でした。 文芸指向の強い演出家でもあり、テネシー・ウィリアムズの「欲望という名の電車」の映画化したり(舞台も演出した)、アーサー・ミラーの「セールスマンの死」の舞台初演の演出を担当し、いずれも成功させています。 マッカーシズムの嵐が吹き荒れたのは、まさに映画監督・舞台演出家として名声が確立された頃のことでした。 カザンは当局から共産党員の嫌疑をかけられました。 カザンは追求を逃れるために(そして映画作りを続けるために)、司法取引に応じます。 共産党員の疑いのある友人・同業者のリストを作成して、当局に渡したのです。 カザンの行為は、メディア人としては「あってはならないこと」と言えます。 ハンフリー・ボガードなどは「憲法に保証された自由と権利に反する」としてマッカーシズムに対抗する組織運動を展開しました。 映画監督という「表現者」の立場にあるにも関わらず、仕事を安全に続けたいという理由で権力に屈したカザンは少なくない同業者から非難を受けました(その結果が1999年のアカデミー賞の事件につながります)。 1909年、当時のオスマン・トルコ帝国の首都、イスタンブールにエリア・カザンは生まれました。 カザン家族はギリシア人だったのですが、1897年に始まったギリシアとトルコの戦争により、ギリシア人はトルコに住みにくくなり、1914年、家族はアメリカに移住します(同年、第一次世界大戦が勃発します)。 カザンが短期間アメリカ共産党に入党したのは、20代中頃、イェール大学を卒業して演出家としての活動を始めたばかりの頃でした。 当時はフランクリン・ルーズヴェルト大統領がそれまで対立関係にあったソ連を国家として承認し、ニュー・ディール政策を通じて労働者の権利が確立された時代でした。 この時代背景により、アメリカ人の反共意識が薄れ、進歩的な知識人はソ連に興味を抱くようになっていました。 カザンはまさにその一人だったのです。 一方、保守的な人々は共産党への敵意をますます募らせていました。 労働者の権利を認めることはアメリカを「赤化」することだとする考え方も根強かったのです。 しかし、この直後、第2次世界大戦が勃発し、ソ連はナチス・ドイツに対抗する有力な勢力として連合国に加わります。 実際、ソ連の奮闘なくしてナチス・ドイツを屈服できたかどうかは疑問です。 大戦前から大戦中にかけて、保守派の人々は共産主義に対する感情を我慢しなければなりませんでした。 そのことが、戦後、爆発し、マッカーシズムへとつながっていくのです。 1947年には「紳士協定」でアカデミー作品賞を受賞しています(この映画はユダヤ人差別を扱った最初のハリウッド映画ということでも記録に残っています)。 カザンの映画界への貢献として有名なのは「アクターズ・スタジオ」の創設です。 アクターズ・スタジオは理論的・体系的な演技指導を行なったアメリカで初めての俳優養成所であり、その出身者としてはマーロン・ブランド、ジェームズ・ディーンが有名です。 1954年にカザンは「波止場」でアカデミー賞8部門を制覇しますが、このとき主役を演じたのがマーロン・ブランドでした。 なお、この1954年はマッカーシズム終焉の年でもあります。 日本人にとって、もっとも親しみ深いカザン作品は「エデンの東」でしょう。 そう、ジェームズ・ディーンの代表作です。 この作品の原作はジョン・スタインベック、「怒りの葡萄」の原作者として有名な小説家です。 「怒りの葡萄」はアメリカ社会の矛盾を鋭く突いた小説として賛否両論を巻き起こした傑作です。 「エデンの東」は「怒りの葡萄」ほど政治性の強い作品ではありませんが、保守層が喜ぶような作品ではありません。 マッカーシズムが終焉したことにより、カザンも本来の個性に素直な作品作りに回帰したと言えるでしょうか。 この通り、カザンはマッカーシズムによる騒動にも関わらず、名作をコンスタントに発表し続けています。 1999年の事件のとき、拍手をしなかった人たちの中には「仲間を売っておきながら、成功しやがって」という気持ちがあった人もいることでしょう。 アメリカン・ニュー・シネマの金字塔である「俺たちに明日はない」に主演、自ら製作も担当したウォーレン・ベイティは、1981年、歴史大作「レッズ」によってアカデミー監督賞を受賞します。 この「レッズ」はロシア革命の詳細なルポを書いたジョン・リードの生涯を描いた作品です。 ベイティはここで述べたことからもわかるとおり、もし、マッカーシズム全盛期に活動していたら、ブラックリストに載せられたであろう人物です。 そのベイティは1999年のアカデミー賞において、カザンを讃えるために席を立って拍手を送った一人でした。 ベイティが映画デビューを飾った「草原の輝き」を監督したのがカザンでした。 その恩に報いるために拍手を送ったのでしょうか? 真相はわかりませんが、ベイティはカザンも本当は仲間を売りたかったわけではないということに同情していたような気がします。 (感想等ございましたら、一言・二言でも書き込んでいただけるとうれしいです。 ) 50年代から60年代にかけて、ハリウッドは繁栄から斜陽へと向っていきます。 マッカーシズムがその原因ではないのですが、まったく無縁だったわけでもありません。 この時代、3つの出来事がハリウッドに変革を迫っていきます。 すなわち「独立系映画の台頭」「TVの普及」「芸術映画の要求拡大」です。 1920年代に確立された5大スタジオ、すなわちフォックス 現在の20世紀フォックス 、ロウズ 現在のMGM 、パラマウント、RKO、ワーナー・ブラザーズは事実上、全米の映画館を支配していました。 1948年、アメリカ政府はパラマウントを独占禁止法違反で訴え、勝訴します。 これによりハリウッドの黄金時代は終焉を迎え、新しい時代に入っていくのです。 この判決の結果、映画館は自由に映画を上映できるようになりました。 そこに出現したのが「独立系映画」です なお、5大メジャーも19世紀末の映画黎明期には「独立系」と呼ばれる立場にあったのですが、それとは別の話です。 シドニー・ルメットの項で「ヘイズ・コード」に少しだけ触れましたが、1930年代以来、ハリウッドは厳しい自主規制をしいていました。 新しい娯楽である映画は、不良の温床とみなされ、しばしば攻撃を受けていたためです いつの時代も変わりませんね。 この「ヘイズ・コード」は今日の目から見ると異常に厳しい制約です。 「観る者をしてモラルを落しめる映画を作ってはならない。 犯罪、悪行、邪悪、背徳の側に観衆を共感させてはらない」という大原則があり、このため悪が勝利するような物語は禁止されます。 「殺人を描くときは模倣を招かないようにすること」「残酷な殺人を詳細に描いてはならない」「現代における復讐を正当化しないこと」「犯罪の手口を明らさまにしないこと」「麻薬取引をけっして登場させないこと」「アメリカ社会におけるアルコールの使用は、ストーリーまたはキャラクター描写上不可欠でないなら、描かないこと」「姦通は、プロット上不可欠な場合もあるが、けっして明らさまに描いたり、正当化したり、あるいは魅力的なものとして描いてはならない」「プロット上本質的でない官能描写を導入しないこと」「みだらなキス、みだらな抱擁、それらを暗示させるポーズや仕草を見せてはらない」「下半身を刺激するようなシーンを描いてはならない」「誘拐や強姦については、比喩以上のものとなってはならず、また、プロットにとって本質的な場合にかぎり、またその場合も明らさまな方法で示してはならない」「誘拐および強姦をコメディの題材としてはならない」「性的倒錯は厳禁とする」「白人の奴隷は扱わないこと」「白人と黒人の間のセックスは厳禁」「性の衛生および性病については映画の題材としないこと」「出産シーンは実写またはシルエットのいかんを問わず、けっして表現しない」「子供の生殖器を露出させないこと」「下品な表現を行なわないこと」「ひわいな単語、ジェスチャー、引用、歌詞、ジョーク、比喩 一部の観衆にしか理解できないとしても は厳禁」「神、主、イエス、キリストを冒涜するような表現は厳禁」「フルヌードは許されない」「脱衣シーンは避けるべきであり、プロット上本質的である場合に限る」「ひわいな露出、過度な露出は厳禁」「過度な露出やひわいな動きを意図したダンスや衣装は厳禁」... まだまだ続くのですが、このくらいにします。 独立系映画はヘイズ・コードに必ずしも従いませんでした。 低予算の怪奇映画やお色気映画が量産されるようになりました。 駐車場で観るタイプの映画館が誕生したこともこの傾向に拍車をかけることになります。 いわゆる「エクスプロイテーション・ムービー」の誕生です。 この頃までに、大手映画会社が作る映画は大作指向が強くなり、映画の本数は減少傾向にありました。 映画は、上映開始後、毎週観客が半減していくのが普通でしたから、大作ばかりが作られる傾向に映画館側は満足していなかったのです。 この状況は、若手の映画作家たちにチャンスを与えました。 刺激的なタイトルのついた新作でさえあれば上映できたので、大手映画会社とは桁違いの作品数が生み出されていきます。 このことが、後に個性的な映画作家を生み出す下地となっていくのです。 と同時に、良識ある人々がハリウッドの黄金時代を懐しむ原因にもなっていきます。 「TVの普及」は、売上げの低下に悩むハリウッドにとって救いとなりました。 ハリウッドは旧作の放映権を売ることが大きな利益になることに気付きました。 このことから、俳優たちと映画会社の権利関係を調整するエージェントが台頭していきます そして俳優の出演料の高騰へとつながっていくのです。 また、ハリウッドはTVドラマの制作も手がけました。 シドニー・ルメットもTVドラマの演出出身の映画監督です。 TVドラマの成功によって、映画の制作本数が実質的に増えたことになります。 先述の独立系映画の件と含めまして、飛躍的に映画の本数が増え、映画作家の需要が伸びることになったのです。 最後に「芸術映画の要求拡大」ですが、これはちょっと不思議な現象に端を発しています。 第2次世界大戦において、何百万ものアメリカの若者がヨーロッパに渡りました。 そこで若者たちはヨーロッパの文物に触れ、興味を抱いたのです。 戦後、多くの若者たちがヨーロッパに留学し、あるいは政府からの補助金を受けて大学に通いました。 その結果、ヨーロッパの芸術的な映画がアメリカでもヒットするようになったのです。 この現象は、ハリウッドにとっても好都合でした。 というのは、この頃までにハリウッドの映画の収益の半数以上を海外への輸出が占めるようになっていたためです。 ハリウッドは映画を外国に売りつつ、そのお金で海外の映画を買うことができました。 こうして海外の傑作がアメリカでも人気を博すようになり、観客の嗜好は急激に複雑化・多様化していくことになります。 マッカーシズムへの反動が起こったとき、これらの動きが「助けられた」ことは否めません。 大手映画会社がマッカーシズムに迎合していたことが、独立系映画に機会を与えましたし、マッカーシズムに対する運動はTVにおいて行なわれました。 そして芸術映画の受容は、ハリウッド式の映画に飽き足らない観客を生み出しました そしてヨーロッパの芸術映画はヘイズ・コードにもマッカーシズムにも従っていなかったのです。 言うなれば、この時代、アメリカは急速に変化していたのです。 冷戦の高まりとともに、進歩的な勢力と保守的な勢力はともに激しく運動していきます。 そういう時代背景に育った若者たちが、60〜70年代のカウンターカルチャーの時代を支えていくことになるのです。 とても楽しんで読ませて頂いてます。 walkerplus. cgi? その戯曲を書いたのは、これも赤狩りで証言台に立たされ、転向したクリフォード・オデッツである。 翌年には上官の命令で部下が戦死したジャック・パランスの復讐物語『攻撃』を監督し、その強烈な反戦メッセージの為に、一時はハリウッドから干されてしまった。 そして、外側からハリウッドを、アメリカ社会を見る監督だからこそ、暴力に支えられ、暴力に囚われたアメリカ社会を突き放して見る事が出来たとも言えるだろう。 その洗脳をサスペンスの素材として用いた作品がジョン・フランケンハイマー監督の『影なき狙撃者』である この『影なき狙撃者』では共産主義を追い払おうとするマッカーシズムが実は共産主義による陰謀だった、という設定がカナメとなっている。 反共主義も共産主義も、本来アメリカとは無縁の存在であり、外からやってきたアメリカを侵す脅威だ、という位置付けだ。 監督のフランケンハイマーはケネディ大統領とごく親しい事で知られていたが、『影なき狙撃者』はマッカーシズムとも共産主義とも区別されたリベラルアメリカを標榜するケネディ政権の、殆どプロパガンダのような作品だった。 移民の国、人種のサラダボールアメリカは内なる敵に関して過剰なまでに敏感になり、時にはその排他性からヒステリー症に陥る事もあります。 唯、アメリカに救いがあるのは、国内から鋭い批判の声が上がってくる事なんですね。 この点で、じょリちょこさんとは同意見です。 未読なら、ぜひ、熟読を!• クーパーは密告者ではありません。 共産党員とその協力者を吊るし上げる非米活動摘発委員会に参考人として呼び出され釈明を要求されたのです。 対象になった作品は実在の建築家フランク・ロイド・ライをモデルにした「摩天楼」(1948 で、この作品でクーパーは信念を通すために失業するが他人名義で仕事を請け負う場面がありこれが複数の匿名で脚本を描き続けたダルトン・トランボを連想させるからだそうです。 クーパーが役を引き受けた事は自分の発言がハリウッド・テンを見放した事への謝罪でありアカデミー賞は協会から『クーパーを容疑者扱い』した事への謝罪とも思えます。 その後のクーパーは本領発揮した3本の例外を除いて孤立する痛々しいキャラが主流になります。 「真昼〜」でクーパーを裏切る助手を演じたロイド・ブリッジスは党員だった事を告白しこれが引き金になってレッド・パージが広がったとも言われています。 レッドパージでイジメの標的にされた一人にエドワード・G・ロビンソンがいます。 彼は失業中のダルトン・トランボの銀行口座に3千ドル振り込んだ事を密告されて釈明したが認められず委員会に対して謝罪を強要されたそうです。 このロビンソンを「十戒」(1956 で密告者の役に起用したのはセシル・B・デミルのロビンソンに対する試練というかブラックジョークであり謝罪にもとれます。 ウォルト・ディズニーやセシル・B・デミルが体制側発言者だった事は実際には政治になど興味はなくただ銀行から融資を受けやすくするための処世術パフォーマンスだったという意見もあります。 デミルの「地上最大のショウ」 1952 では親友である団長チャールトン・へストンの命を救うために身を犠牲にする道化師(素顔をペイントしたままの)ジェームズ・スチュアートが作品の核ですがこの描き方は匿名脚本家に依頼したように思えます。 ディズニーの「海底2万マイル」 1954 もラストの大爆発は明らかにビキニ島の核実験の反省があり孤高のネモ艦長は追放された映画人を連想します。 長くなりましたので続きは次回に…• ご指摘の点に異論はありません。 (ちなみに「真昼の決闘」は僕のお気に入りの一作であります。 ) 続きもぜひ、読ませてください。 (実は「十字砲火」をまだ観ていないので、誰かに解説して欲しかったりします... あぁ、何だか『影なき狙撃者』また観たくなって来ました(笑)近々観直して見ようと思ってます。 『ヘイズ・コード』については、ずっと気になっていたんですが、ちゃんと本を読んだ事がなくて、もし良い本をご存知でしたら、教えて下さいませ。 私はもう立派な中年なんですが(笑)このサイトはお若い方も大勢利用されてます。 若い方が古典作品に触れて、いろんな国の歴史や政治、文化に興味を持つキッカケに映画がなってくれたら嬉しいなぁと思っているので、頻繁にはレスできないかも知れませんが、時々はお邪魔しますね。 では、では。 赤狩りとウォルト・ディズニーのお話、とても面白いですね、感謝。 私もじょリちょこさんと同じく、続編期待してます! RKOを買収したハワード・ヒューズの政治力によってニコラス・レイは赤狩りのブラックリストからは逃れられたと本で読んだ事があったんですが、真偽の程はどうなのでしょうか?• ) 私も見てません。 悪しからず。 ヤング、ミッチャム、ライアンという3人のロバートが共演した作品でエドワード・ドミトリク監督でした?日本では40年後やっと劇場公開された作品ですね。 ライアンは最もハリウッドで進歩的な映画人と言われてました。 彼は好んで憎まれ役を演じ争いの空しさを訴えた俳優だったと定評があります。 ドミトリクはカザンと同様に転進した人ですね。 「折れた槍」(1954 や「ワーロック」 1959 で娯楽映画の中に巧みに辛口の批判を込めた作品を作りました。 「ワーロック」に主演したヘンリー・フォンダも実はリベラルな俳優で彼が1948年〜1954年にかけて映画界を離れブロードウェイ舞台に専念したのは表向きは所属会社ダリル・F・ザナックと大喧嘩したからとなっていますが時期がレッドパージに重なります。 ジェーンとピーターがアメリカンニューシネマをリードした事は決して偶然とは思えないのです。 『ヘンリー・フォンダ・マイライフ』を読むとダリル・F・ザナックは今撮影中の映画はフォンダが必要ですと国防省に書類を送っただけでフォンダの海軍入隊は延期されたとあります。 「サーカスの世界」(1964 はニコラス・レイ監督で開始されましたが、途中解雇されアンソニー・マンが中継ぎ最後は無難なヘンリー・ハサウェイが完成させ監督はハサウェイ名義になってます。 主演はジョン・ウェインです。 私は特定のジャンルには或る程度は明るいかもしれませんが、ヨーロッパ作品やオーソン・ウェルズ、ウディ・アレン等に対しては『無知との遭遇』です。 決して博識ではなりません。 提供したい事は他にもありますが今日はこのへんでSo Long• 若き日のアーサー・ケネディが弟役、アンソニー・クインが恋仇役でそれぞれ共演している。 石原裕次郎主演の「嵐を呼ぶ男」は本作のリメイクだそうです。 本筋に戻すと ロバート・アルドリッチはチャップリンの「ライムライト」 1952 で助監督を務めている。 出世作「アパッチ」 1954 は予定されていた『陸軍の一斉射撃で主人公マサイが殺される』というラストシーンがレッドパージにひっかかりハッピーエンドへの変更を余儀なくされた。 本作でアルドリッチを起用した主演兼共同製作者バート・ランカスターは後年「明日なき十代」 1961 でジョン・フランケンハイマーを起用している。 ランカスターはリベラル派。 フランケンハイマーの「影なき狙撃者」の主演はフランク・シナトラ、シナトラは「地上(ここ)より永遠(とわ)に」 1953 で共演したランカスターとも親交があった。 「地上…」の匿名脚本家がダルトン・トランボ、同年の「ローマの休日」も彼の作品ですね。 カイタカケンさん このページは僕も読んでいます。 なかなか読み応えがあるというか、マニアックすぎて僕にはちょっとついていけないのですが... 公開当時はオールスターキャストによる理屈ぬきのアドベンチャーウエスタンと評された「マッケンナの黄金」ですが意外な事が発見できます。 製作兼脚本:カール・ファアマン(真昼の決闘) 主演:グレゴリー・ペック(ローマの休日) ゲストスターに物語のキーマンである盲目の老人エドワード・G・ロビンソンとその世話役青年ジョン・ガーフィルドJr.(赤狩りで自殺したガーフィールドの遺児)、レイモンド・マッセイ(エデンの東)、イーライ・ウォーラック(ベビィドール)、リー・J・コッブ(波止場)これだけの偶然が重なるだろうか? フォアマンは「戦場にかける橋」や「ナバロンの要塞」でも反戦思想を巧みに取り入れたが「マッケンナ…」でも人間のあさましい行動を批判していると思う。 二人の対照的な1947年度の作品 デミルの超大作「征服されざる人々」のヒロインがチャップリンの三番目の妻だったポーレット・ゴダードで、デミルがゴダードを起用したのは三度目。 チャップリンの「殺人狂時代」はおそらくアメリカでは出資者が現れなかったのであろうフランスから発表された。 公開当時は「征服…」の方が圧倒的にヒットしたが現在までの評価は全く逆で「殺人…」の方が断然高い。 --- フランシス・コッポラの出世作「ゴッドファーザー」の中で、マーロン・ブランド演じるマフィアのボス、ドン・コルレオーネを頼ってカムバックを果たす歌手が出てきます。 この歌手のモデルが他ならぬフランク・シナトラであることは有名な話です。 1940年代、シナトラはアイドル歌手として若い女性に絶大な人気を誇っていました(ミュージカル映画にも出演していました... その中の一本がレナード・バーンスタインが音楽を担当した「踊る大紐育 On the town」です)。 しかし、1940年代も後半に入ると次第にスランプに陥り、1950年に喉の病気で一時的に声が出なくなるとレコード会社からも映画会社からも契約を解除されてしまいます。 そんなシナトラが出会ったのが「地上より永遠に」のシナリオでした。 シナトラはシナリオを読むや、マッジオというイタリア系兵士の役に惚れ込み、この役は自分がやるしかないと確信、あらゆる手を使ってこの役をものにします。 そう、このエピソードこそが「ゴッドファーザー」のモデルになったエピソードなのです。 フレッド・ジンネマン監督の「地上より永遠に」は1953年に発表されました。 そう、「ローマの休日」と同じ年です(ちなみに「シェーン」も同年)。 「地上より永遠に」はアカデミー賞を総なめにし、シナトラも助演男優賞を獲得します。 シナトラは見事、カムバックを果たしたわけです。 「地上より永遠に」は、ヘイズコード時代の作品としては、かなり意欲的な作品(露出度の高い水着を着た女優にラブシーンを演じさせたり、軍隊を描きながら軍隊に批判的だったり)ですが、ラブシーンを強調したのはジンネマンではなく、映画会社の意向だったと言われています。 ヘイズコードの後進性は、ビジネスの面からも歓迎できない状態になっていたことを伺わせます。 カムバックを果たしたシナトラは、アイドル時代をはるかに越える成功を収めるのですが、その人気を利用したのがジョン・F・ケネディでした。 ケネディ家はマフィアとのつながりがあり、大統領選挙にあたってジョンはシナトラとマフィアに支援を求めました。 シナトラは大いにジョンを応援し、その甲斐もあって見事ジョンは大統領に就任します。 しかし、ジョンは当選後、マフィアとの関係を清算するため、弟ロバートを司法長官に任命し、マフィアの封じ込めを乗り出します。 シナトラはジョンの変節に対して激怒し、ジョンとの関係を絶ちました。 ジョンの恋人であったマリリン・モンローの変死、ジョンと弟のロバートの暗殺は謎に包まれていますが、このときのマフィアに対する仕打ちが関係していると見る意見もあります。 1962年の「影なき狙撃者」(ジョン・フランケンハイマー監督)は、米ソ冷戦下における「洗脳を用いた政治的陰謀」のドラマです。 この作品はマッカーシズムを正面切って批判した最初のハリウッド映画とみなされています。 シナトラはこの映画に主演しています。 この頃、シナトラは「シナトラ一家」を名乗って、多くの有望なアーティストを世に送り出していました。 その中の一人がサミー・デイビスJr. で、シナトラは周囲の反対を押し切ってサミーを白人しか出演できなかったステージにあげました。 シナトラ自身がイタリア系移民ということで、人種差別を受けてきたことが理由とされています。 マフィアとのつながりも、同郷の仲間という意識が強く働いていたものと思われます。 また、シナトラは、この頃台頭してきていたロックには目もくれず、アイドル時代のファン層に向けて大人向けの音楽を追求しました。 シナトラは横暴で傲慢なところもあるのですが、一本筋の通ったところもあったわけです。 フランケンハイマーが「影なき狙撃者」にシナトラを起用した理由ははっきりしませんが、フランケンハイマーは脚本をシナトラに渡し、どれでも好きな役を選ぶように言ったと言います。 この作品は、安易に作れるようなテーマではありません。 フランケンハイマーとしても満を持してこの企画に臨んでいたはずです。 そのフランケンハイマーがシナトラに好きな役を選ばせたのですから、どうしてもシナトラに演じてほしかったのでしょう。 この作品は、洗脳された狙撃者が大統領を狙撃しようとする展開でクライマックスを迎えます。 公開の翌年、ジョン・F・ケネディが暗殺されてしまったため、この映画は80年代に入るまで再上映できなったと言われています。 が、フランケンハイマー本人へのインタビューによるとシナトラとギャラのことでトラブルが発生し、これの解決に手間取ったのが原因だという話です。 「影なき狙撃者」の脚本家、ジョージ・アクセルロッドはモンローの「七年目の浮気」、オードリー・ヘップバーンの「ティファニーで朝食を」の脚本家として知られています。 この時点で、ハリウッドでももっともギャラの高い脚本家として知られていました。 アクセルロッドは、フランケンハイマーを高く評価しており、この「影なき狙撃者」は損得抜きで成功させようと、自ら共同製作者として本作に臨んでいます。 フランケンハイマーは、男臭い、社会派のドラマを得意とする監督で、多くの傑作をものにしています。 TV番組の演出家出身で、プロデューサーの注文通りに映像を作る技術にも優れていたとされます。 彼のキャリアを調べてみると、面白いことがわかりました。 「影なき狙撃者」と同年に発表された「終身犯」はアカデミー賞をいくつも受賞した名作ですが、「終身犯」はもともとは別の監督で製作が進められていたのです。 主役を演じつつ、自らプロデュースも担当していたバート・ランカスターは、前年一緒に仕事をしたフランケンハイマーに監督を依頼したのです。 脚本を読んで、フランケンハイマーは「これはちょっと長すぎるよ」と指摘したのですが、脚本通りに作ってくれと関係者は言いました。 フランケンハイマーが言われたとおりに撮影を進めると、できあがった作品は4時間半もあり、しかも各シーンが密接につながっているのでこれ以上カットできないという有り様でした。 フランケンハイマーは「シナリオを書き換え、いくつか追加撮影すれば半分にできる」と主張し、会社はフランケンハイマーの案に合意しました。 かくして126分の作品に仕上り、大ヒットを記録したというのです。 フランケンハイマーのスゴ腕ぶりがよくわかるエピソードです。 「影なき狙撃者」の原作は1959年に出版されたものです。 原作者のリチャード・コードンはハリウッドでエージェント業を努めた後、小説家に転身した人物です。 彼は自作をハリウッドに売り込みましたが、何社もの映画会社に脚下されました。 ようやく最後に買ってくれたのが、フランケンハイマーとアクセルロッドだったのです。 フランケンハイマーは作風から言っても、「影なき狙撃者」をものにするのにふさわしい監督です。 しかし、アクセルロッドはそうは言えません。 二人の格からすれば、どう見てもアクセルロッドが圧倒的に上であり、フランケンハイマーがアクセルロッドに頼み込んだとは思えません。 ここはやはり、アクセルロッドがフランケンハイマーを気に入り、彼を成功させるシナリオを必要としていたところに「影なき狙撃者」が持ち込まれたと見るべきだと思います。 そして、きわめてハリウッド的な脚本家であるアクセルロッドにも、マッカーシズムに抗議する気持ちがあったことを伺わせます。 改めて、感謝。 全てに目配せしながらまとめようとすると大変な事になってしまいますから、少しづつ気付いた所を書いていけばいいと思いますよ。 私もそのほうが、やり易いし(笑) ケネディ家の話題が出たので、少し書きますね。 マッカーシズムはいろんな視点から複合的に捉えなければならないもので、一元的な見方は考えの幅を狭めてしまう危険性もあるかもしれませんが、こういった捉え方もされていると、参考程度に受け取っていただければ幸いです。 『プロテスタント・エスタブリッシュメントーアメリカの貴族制とカースト』の著者として有名) ホワイトエスニックのマッカーシーは同じくアイリッシュのケネディ家との交流があり、特にJFKの父であるジョーゼフ・パトリックに可愛がれ、選挙資金も融通してもらっていました。 フランケンハイマーの「終身犯」の立役者であるバート・ランカスターもその一人です。 浜辺でデボラ・カーと情熱的なラブシーンを演じてアカデミー助演男優賞にノミネートされたのです。 バート・ランカスターは中々骨のある人物で、1940年代末にはハリウッドの映画作りに疑問を抱き、独立プロを設立し、独自の映画作りに着手しています。 この独立プロは大成功し、このプロダクションの制作した「マーティ」は1955年のアカデミー作品賞・監督賞・脚本賞・主演男優賞を受賞します。 この受賞は「慕情」「ピクニック」といった大傑作を抑えてのものであり、ハリウッドの大作主義に一石を投じました。 ハリウッド時代のバート・ランカスターがしばしば共演した盟友がカーク・ダグラスです。 ダグラスもまたランカスターにならって製作に乗り出します。 ダグラスの製作した映画の中で、もっとも重要な映画は1960年の「スパルタカス」でしょう。 すでに触れたように、この映画はダルトン・トランボのハリウッド復帰作です。 内容も、共和制ローマ末期の剣闘士スパルタカスの反乱をテーマにしており、まさに自由と反抗のドラマとなっています。 ダグラスは、この映画の監督にスタンリー・キューブリックを選びました。 1957年の「突撃」でキューブリックとダグラスは一緒に仕事をしており、ダグラスはこの若き天才に自分の命を賭けた大作を任せることにしたのです(もっともキューブリックの方は、トランボの書いたシナリオに共感せず、自分を殺してシナリオに忠実に映画を作ったと言います)。 「スパルタカス」が公開された頃、ランカスターの独立プロは財政的に行き詰まり、倒産してしまいます。 ランカスターとフランケンハイマーが共に仕事をするようになったのは独立プロ倒産直後のことです。 二人は意気投合し、5本の映画を残しますが、いずれも傑作とされています(その中の1本「5月の7日間」ではダグラスも出演しています)。 1962年の「終身犯」の翌年、ランカスターはシチリアに招かれ、ルキノ・ヴィスコンティの大作「山猫」に出演します。 ランカスターはB級映画にも躊躇なく出演しながら、自分の美的センスにかなう作品には積極的に出資しました(シドニー・ポラックも、ランカスターの出資に助けられた一人です)。 バート・ランカスターというと西部劇というイメージがありますが、彼の出演した西部劇の傑作に1954年の「ベラクルス」があります。 この「ベラクルス」を監督したのがロバート・アルドリッチです。 ロバート・アルドリッチは裕福な家庭に育ち、大学に進みましたがドロップアウトし、ハリウッドで使い走りからスタート、ジャン・ルノワールやチャールズ・チャップリンの元で修行を積みました。 1954年という年は、アルドリッチにとっては監督デビューの年であり、ランカスターやダグラスと同じように自ら独立プロを設立した年でもあります。 アルドリッチは一時期、イタリアで活動しています。 そのきっかけになった映画が「攻撃!」でした。 1955年に公開されたこの作品は、批評家から高い評価を受けましたが、反軍的な内容だということで物議をかもしました。 マッカーシズムは1954年に終結しているのですが、進歩的な人間にとって居心地の悪い状態は続いていたようです。 アルドリッチがアメリカから逃げ出した本当の理由は、アルドリッチが語っていないのでわかりません。 思うに、アメリカを捨てる気持ちだったのではないでしょうか。 しかし、アルドリッチはイタリアで傑作を物にできませんでした。 すでにアルドリッチ作品はイタリアでも高い評価を受けていたので、アルドリッチはそれをあてにしていたのでしょう。 あてが外れたアルドリッチは結局アメリカに戻ります。 1962年のことです。 イタリアから戻ったアルドリッチは「何がジェーンに起こったか?」を制作します。 サイコサスペンス物の傑作ですが、ハリウッドの裏幕を暴露する作品でもあります。 経験を積んだアルドリッチは直接的な表現を避け、より巧妙に反骨精神を表現するようになります。 1967年の「特攻大作戦」、1972年の「北国の帝王」、1973年の「ロンゲストヤード」はいずれも僕のお気に入りです。 脚本はカール・フォアマンが担当しました。 この映画の制作費ではクーパーの出演料は支払えなかったのですが、クーパーは破格のギャラでこの役を引き受けます。 クーパーは、フォアマンの書いた脚本に惚れ込んでいたのです。 この映画はいろいろ画期的な内容となっており、分析するに足るものがあるのですが、マッカーシズムとは無関係なので割愛します。 ただ、この映画の大成功が「地上より永遠に」の監督にジンネマンが起用される最大の要因となったことを記しておきます。 カール・フォアマンは、カーク・ダグラス主演の「チャンピオン」で1949年のアカデミー脚本賞にノミネートされ、売れっ子脚本家として活躍していました。 1951年、「真昼の決闘」の制作中に告発されます。 このため1952年の公開当時、フォアマンの名前は隠さなければなりませんでした。 また、公式には記されていませんが、「戦場にかける橋」の脚本の執筆者のひとりであるそうです。 赤狩り終結後、フォアマンは名誉を回復し、「ナヴァロンの要塞」「マッケンナの黄金」「戦争と冒険」をものにします。 しかし、遺作の「世界崩壊の序曲」は晩節を汚したという気がします。 たいへん真摯に取り組まれていると思います。 『映画会社の首脳部=ユダヤ系の独裁者の言いなりになりたくない』というのが結成の趣旨で「地上より永遠に」でカムバックしたシナトラやブレイク前のサミー・デイビスJr.もボギーからアドバイスを受けていたそうです。 だから本来No.2になる筈だったサミーは内心マーティンの事を快く思っていなかったそうです。 サミーがシナトラに感謝している事は「オーシャンと十一人の仲間」 1960 でもシナトラの推薦で役を得た上にギャラも当時も新人が受け取るにしては破格の10万ドルだったそうです。 参考までに同年「荒野の七人」のスティーヴ・マックイーンは6万ドルでした。 この撮影中ラスベガスのステージと更にジョン・F・ケネディの選挙応援と掛け持ちだったのですね。 61年シナトラはスペンサー・トレーシー主演の「四時の悪魔」に助演し、62年は「影なき…」と「荒野の三軍曹」で一家再出演。 そして63年に 「テキサスの4人」でディーン・マーティンと主演これはアルドリッチ西部劇としてはあまり評価は高くないのですが「ヴェラクルス」の喜劇版で死体から金品を平気で剥ぎ取る人間のエゴを風刺しています。 またアルドリッチでつなげると「ガン・ファーター」 1961 はカーク・ダグラスのブライナ・プロへ招かれて撮ったダルトン・トランボ脚本による「ヴェラクルス」の悲劇版で敗北者がいるからこそ勝者の笑顔が存在するというやはり風刺ドラマです。 「ヴェラクルス」もまたファーストシーンに登場する無法者たちを自由の国アメリカを追われ人々と読むファンもいるそうです。 まとまりが無くてすみません。 娯楽映画に垣間見えるレッドパージ影響下の風刺についてでした。 私の知らなかった事が多く勉強になりました。 おそれながら一部訂正と補足をさせて下さい。 これには同作のモンゴメリー・クリフトもノミネートされており結局ビリー・ワイルダーの「第17捕虜収容所」でアンチ・ヒーローを演じたウィリアム・ホールデンが受賞しています。 正にマッカーシズムクソ喰らえですね。 尚ランカスターは同作でニューヨーク批評家協会賞を受賞しています。 この会社は1956年の「空中ぶらんこ」までは破竹の大ヒットを連発しますが1957年の社会派ドラマ「成功の甘き香り」以降、興行的失敗作が続き作品のスケールも白黒小品でかつての大ヒットは無く、起死回生を賭けた久々のカラー・シネマスコープのオールスター大作「許されざる者」(ジョン・ヒューストン監督+ベン・マドウ脚本の人種問題を扱った暗い西部劇)も失敗、その後ランカスター単独で製作した「エルマー・ガントリー」のみ成功という状態でした。 ジョン・フランケンハイマーを起用した「明日なき十代」と続く「終身犯」これを最後にヘクト・ヒル・ランカスタープロは倒産又は解散してしまいます。 「五月の七日間」はカーク・ダグラスのブライナ・プロ製作です。 カーク・ダグラス自伝「くず屋の息子」下巻にエピソードが紹介されています。 但しランカスターの創作意欲は相変わらずで今度はノーラン・プロを設立し闇のプロデューサーとして(税金対策か本編やポスターにはノンクレジット)「大列車作戦」「インディアン狩り」「大反撃」等を発表しています。 ランカスターとフランケンハイマーのエピソード不足分はご存知かも知れないが、また別の機会に…• 1951年映画界の話題を独占状態で主人公の目標が「アフリカの女王」だったというのがキーワードです。 レッドパージで告発されたジョン・ヒューストン監督と告発された側を援護したハンフリー・ボガートが進歩的思想のキャサリン・ヘプバーンをヒロインに迎えアフリカへ渡りイギリスの製作者S・P・イーグル(サム・スピーゲル)の協力を得て製作した作品で製作費はボギーが調達しています。 これ以上ボギーを敵に回すと映画界は観客にまで見放される事を危惧したのかも知れません。 それを裏づけするかの如くボギーはその後援護活動から手を引いています。 党員であったとしても又は協力者であってもハリウッド映画人の本文である観客を楽しませるというビジネスさえ行なっていれば問題にはしないというのが本音ではないか?• まとまったら、アップします。 いちおう、活動を止めていないという表明まで... 「ヴェラクルス」では配役序列13番目チャールズ・ブチンスキー名義で助演しています。 ブチンスキーはこれが最後で次作「太鼓の響き」からブロンソンに改名しています。 理由はお察しの通りマッカーシズムの影響でロシア系には人種差別それもスパイ容疑を回避しての対策です。 前後の状況からブロンソンに改名を助言したのはクーパーではないか?と推察出来ます。 それを裏付けるように「太鼓の響き」で役が主役アラン・ラッドと対峙する酋長と非常に大きくなり続いて「去り行く男」ではグレン・フォードの相棒役と格がどんどん上がって行き「荒野の七人」にたどりつきます。 無論マッカーシー上院議員が1957年死んでいる事という背景やブロンソン本人の実力が認められた事は否定出来ませんが果たしてブチンスキーを名乗っていたら失業していたか追放されていたというリスクも同時に否定出来ないでしょう。 赤狩りは1960年頃までいやベトナム参戦直前まで執拗に続いていましたから…。 返信を投稿• 強いアメリカ、自由と正義のアメリカという50年代のイズムに対する異議申し立てが60年代のカウンターカルチャーであったはずです。 映画界では60年代はアメリカン・ニュー・シネマの時代ですが、これもまさにカウンターカルチャーの一表現でした。

次の

SADAHIKOのシネマ道楽

赤狩り ディズニー

映画といえばやはり アメリカ! そしてアメリカといえば…。 人種差別問題。 もちろん、どこの国にも差別問題はつきまといますが、 様々な人種から構成されるアメリカほど差別が深刻化・常態化している国はそう多くはないでしょう。 黒人に対する差別はもちろん、 アジア人に対する差別意識も根強く、時にはそれが映画の中にも現れます。 なお、以下に挙げた作品は特に断りの無いかぎり全てアメリカ映画です。 【スポンサーリンク】 1 スターウォーズ・エピソードI ファントムメナス ジョージ・ルーカス監督が、かなりのブランクを経て1999年に完成させた スターウォーズ4作目。 つい最近、最新作である エピソード7が公開されたのでこの作品をチェックした方も多いでしょう。 そしてこの映画の中にも 差別的な要素はしっかりと含まれています。 鉤鼻で金に汚い ワトーや、鼻のペッタンコな ネモイディアンといった エイリアンは、それぞれユダヤ人や日本人の典型的な悪いイメージを表しているとされています。 公開直後、これらの人種差別的な要素について非難の声が強まり、ルーカス監督はTVに出演して弁明を余儀なくされました。 2 ダンボ 1941年に公開された ディズニー作品で、 空飛ぶゾウが主役の子供向けアニメ。 「 オイオイ、ディズニー映画で差別なんてあるわけないだろ」 と思われるかもしれませんが、これもれっきとした 差別映画です。 この映画に登場する真っ黒な カラスの声は白人男性が演じているのですが、無理に黒人の声を真似て誇張した演技をしている点が極めて差別的とされ、公開されてからの批判の声は相当に大きいものでした。 3 ティファニーで朝食を 1961年に公開された オードリー・ヘップバーン主演の映画で、自分の信念に従って自由に生きる強い女性を描いていました。 この映画の中でミッキー・ルーニーの演じた「 ユニオシ」という名の日本人は、「 黄色い顔に黒縁の丸メガネをかけた出っ歯の男」という、当時のアメリカ人が描く最高度に 侮蔑的な日本人像を体現していました。 映画公開から半世紀経っても 超差別的映画であるという評価に変わりはなく、2011年にニューヨークで公的資金を使ってこの映画の上映会が計画されたとき、アジア系アメリカ人の団体が抗議行動を起こしています。 4 風と共に去りぬ 1939年に公開されたヴィクター・フレミング監督作品で、南北戦争期における 白人貴族社会を描いた名作。 アカデミー作品賞・監督賞などを受賞し、日本では 宝塚歌劇のミュージカル作品としても有名です。 しかし、輝かしい賞を受賞している一方で、奴隷制度を美化した上で南軍のアメリカ人兵士を英雄扱いする映画であると評論家から痛烈に批判されました。 【スポンサーリンク】 5 ザ・トイ 1982に公開されたリチャード・プライヤー主演のコメディ映画。 白人の大金持ちが、幼い息子の世話をさせるために黒人男性を「 買う」というのがストーリーの導入部です。 「買う」と表現しましたが、本当に 巨大な木箱に入った黒人が荷物として家に届けられます。 1619年から1865年にかけて、多くのアフリカ人が裕福なアメリカ人の家庭へ売られていた事実を考えると、このコメディ映画を見て笑えるのは恐らくアメリカの白人くらいでしょう。 これだけ直球の差別映画でありながら、この作品は 4700万ドルもの興行収入を達成しています。 6 インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説 1984年に公開された『 インディ・ジョーンズ』シリーズの2作目。 考古学者のジョーンズ博士がインドへ渡ると、そこには貧困で 絶望的な状況にある現地人や、汚い策略で博士を 毒殺しようとするアジア人に加え、 ブードゥーを行うヒンドゥー人などといった呆れるほど偏見に満ちたキャラクターたちが登場します。 もともとこの映画の撮影は全て インド国内で行われる予定でしたが、 スピルバーグ監督の脚本があまりにインド社会を侮辱していることにインド政府が激怒して 撮影を許可しなかったと言われています。 ちなみに、インドではこの映画の 公開自体が禁止されているそうです。 7 ヤコペッティの残酷大陸 1971年に公開されたイタリア映画で、 アメリカの奴隷制度をドキュメンタリー風に映像化した作品。 奴隷として悲惨な生活を送っていた黒人の姿が生々しく描かれています。 映画の方向性としては、そのような差別を非難する立場をとっているわけですが、しかしこの作品の問題点はその 撮影過程にありました。 出演しているアフリカ人はすべて一般人なのですが、経済的に苦しい彼らは、わずかな出演料のために 屈辱的なシーンへの参加を半ば強制されていたそうです。 8 ミスター・ソウルマン 1986年公開のコメディ映画。 ハーバード大学法科大学院という名門に合格したものの学費のアテが無い主人公が、黒人にのみ適用される奨学金を受けるべく 顔を黒く塗って黒人に扮するところから物語が始まります。 大変わかりやすい形で黒人をバカにしたこの映画が公開されると、ロスアンゼルスでは大規模な 抗議行動が行われたそうです。 しかし、この抗議にも関わらず映画は興行的に成功を収め、 2700万ドルを稼ぎ出しました。 【スポンサーリンク】.

次の