物理主義。 物理主義とは

実証主義とは 簡単に言えば哲学論議をするときに 抽象的な言葉やあ...

物理主義

概説 [編集 ] 物理主義の立場は「すべては物理的である」(Everything is physical)という標語に代表される。 この標語の中に現れる二つの単語「すべて」と「物理的」、この二点についてどういう考え方を取るかによって、物理主義には様々なバリエーションが生まれる。 議論 [編集 ] 心の哲学 [編集 ] 当節では心の哲学の領域における物理主義の主張について概説する。 心の哲学において、20世紀初頭にまずは物理的であるか、という問題が論じられた。 物理主義的な立場から的な考えが批判され、デカルト的な心についての考えが「機械の中の幽霊」といった形で批判を受けた。 20世紀中盤にの問題が論じられた。 志向性を物理主義的に扱うことができるのか、という問題が論じられた。 20世紀末ごろからは、心の哲学の分野の主要な争点が、「意識」に移った。 のやのなど、世界の全てが法則に従う自然的なものであると主張しながら物理主義を攻撃するタイプの二元論が現われてきた。 つまり世界の全てが法則に従う自然的なものであるという点で物理主義と軌を一つにしながら、現在の物理学の枠内ではやの問題は扱えない、という形で、物理主義と対立する二元論が現われてきた。 こうした対立図式の中では、旧来物理主義と呼ばれてきた立場は単に唯物論の意味しか持たない。 そのため日本語圏の訳書ではphysicalismの立場が 物的一元論と表現されることもあるし、ガレン・ストローソンのように現代の物理主義は物理主義というより物理 学主義(physicSalism)と呼んだほうが適切だ、と主張する例も見られる。 物理的(physical)なものとは何か、この定義によって物理主義の立場がどういうものかが決まることになるが、この点がハッキリと定義されることはあまりない。 この定義次第で、物理主義はかなり広い範囲の立場を含むことが可能である。 例えば極端な例として、ガレン・ストローソン(一般にまたはに分類される)のように、を唱えつつ自身の立場を物理主義と形容する事もある。 一般的には現在ののなかに出てくるものの実在だけを認める立場が物理主義なのだと考えておけばおおよそ間違いない。 つまり現代の心の哲学の文脈で言うと、意識の問題()に関して、的に保守的な形で解決を目指す立場が、物理主義である。 物理主義に対する批判はもっぱら、、主観的体験、などと呼ばれる意識の主観的側面について、物理主義の範囲内ではうまく扱いきれないのではないか、という点に集中する。 こうした議論の例として次のようなものがある。 (「マリーの部屋」とも言う)• 知識論法は1982年にによって提唱された論法で、この世界に関しての全ての物理的な知識を得たとしても、まだ知らない事が残ってしまう、だから物理主義は誤りだ、という。 ゾンビ論法は、1996年にによって提唱された論法で、物理的な側面に関して全く同一だが、現象的な意識を欠く世界を想像できる、だから現象的意識は物理的なものに論理的に付随しているわけではない、ゆえに物理主義は間違っている、という論証。 脚注 [編集 ] []• この点はとりわけ論理実証主義者により強調された。 Keith, J. 2010. Createspace. 1452858934. , p. In ed. Fall 2009 ed. Strawson, Galen; et al. 2006. Consciousness and Its Place in Nature: Does physicalism entail panpsychism?. Imprint Academic. 1845400593。 関連文献 [編集 ] 日本語のオープンアクセス文献• 井頭昌彦「・テーゼと存在論的コミットメント-物理主義の的含意の把握に向けて-」『』第42巻第2号、2009年、 pp. 関連項目 [編集 ]• 外部リンク [編集 ]• (英語) - 「物理主義」の項目。 (英語) - 「物理主義」の文献一覧。

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物理主義でクオリアは解決できるか?その1

物理主義

登場人物: 毒ニンジンを飲んだ後のソクラテス 物理主義者の猫「ミタマ」 アテナイ市内の牢獄の中。 毒杯を仰いだソクラテスは、しかし、毒が効かずに数時間後に目を覚ましてしまう。 独房の入り口近くから、なにやら猫の姿をしたものがこちらをぼうっと見ている。 ソクラテスは、急に空腹を覚えた。 可能世界とあの世(輪廻転生) ソクラテス: う~、やけに腹が空いた。 ここはいよいよ、イデアの楽園か、はたまた死者たちの魂が集うという冥府ハデスか? しかし、はて面妖な。 死んで魂だけになったというに、まだ腹が空くとは・・・。 しかもここは、クリトンやケベス、シミアスたちがいたときのままの、あの牢獄ではないか。 それに、わたしの70年来の友にして、敵であるこの手足。 少なくともわたしの魂は、身体という経帷子をまだ脱ぎ捨てていないものと見える。 おや、おまえは? 猫: ソクラテスのおじいさんというか、どうみてもジジに見えないから、オジサンでいいわね、ソクラテスの可能的本人のオジサン、あたしは猫のミタマよ。 ここはオジサンが囚われていたアテナイの牢獄で、オジサンはオジサン本人だけど、世界が違うのね。 ここは、ソクラテスの現実的本人が毒のせいで死んだ現実世界とは違って、毒が効かずにオジサンが生き返った可能世界なのよ。 だから、ここは天上の何とかでもなければ、イデア界でもないし、黄泉の国でもないわ。 オジサンは現実世界では死んだけど、この可能世界では死んでないってわけね。 でもってあたしは、すべての可能世界を股にかけて、のぞき見をする、ちょっと約束違反の猫。 でも、あたしは本当は存在していないんだから、気にすることはないわ。 ソクラテス: なんだって、無茶苦茶な話だ、分けがわからんぞ。 わたしはわたしであって二人ではなく一人なんだから、そのわたしがどこであろうと死んでいて、なおかつ同時に死んでないということがどうしてあるのだ? 猫: それはちょうど、「オジサンがもう少し背が高かったとしたら」とか、「あのクサンティッペのオバサンと結婚していなかったとしたら」といったように、現実とは違うけどありうるかもしれないような状況を考えたとき、現実のオジサンとありうるオジサンと、二人のオジサンがいて、しかも二人ともソクラテス本人だってこと。 だから毒ニンジンで死んじゃったオジサンは現実世界のソクラテスで、死にそこねちゃったオジサンは可能世界のソクラテスってわけね。 可能世界って、ひとまずは、ある人物や出来事が現実世界とは別の性質や関係を持っているような世界だ、って考えていいわ。 そうすると、ある人の性質が現実世界と違う仕方は無数にあるから、可能世界の数は無限にあって、そこから、可能性と必然性を定義できるようになるの。 いいこと、ある事柄が可能的なのは、それが成り立つような可能世界が少なくとも一つはあるということ。 そして、どんな可能世界でも成り立つような事柄があったら、それは雨が降ろうが槍が降ろうが、何がどうあっても成り立つということなんだから、ある事柄が必然的なのは、あらゆる可能世界でそれが成り立つということになるわね。 でも、必然性にも程度があるのよ。 ついでに、この種のお話で大事な同一性の必然性はどうかというと、それは、あるものとあるものがある可能世界で同一なら、その同一性は端的にあらゆる可能世界で成り立つ、という意味で論理的真理と同じ一番強い必然性(形而上学的必然性)だと言われているわね。 ソクラテス: まてまて、よく喋る猫だな、存在もしていないと自分で言っておきながら。 わたしがクサンティッペと一緒にならなかった世界とは、これまた有り難い世界のように聞こえるが、それにしても、可能世界とは聞いたこともない新説だ。 現実世界がこの世で、可能世界がこの世でないなら、可能世界はあの世である他はなかろうに。 この世から立ち去った者がたどり着く先はハデスであり、そこには、この世の神々に劣らぬよき神々が住まわれ、またよき仲間の人々が集っている。 猫よ、いやミタマだったかな、おまえの言う可能世界、つまりハデスにソクラテス本人が存在しているなら、それはソクラテスの肉体から解き放たれたソクラテスの魂であろう。 そして、口やかましくなく言えば、一般に魂は、この世では肉体と感覚によって曇らされているが、あの世では浄化されて魂そのものになり、その魂のこの世での常日頃の習いにしたがって、神霊とともにハデスにとどまるか、あるいはまた、人間や動物に姿を変えてこの世によみがえってくる。 なぜというに、魂は不死だからだ。 物理主義(物的一元論)と魂(心) 猫: それは二元論そのものね、魂が不滅だなんて。 物理主義ではそうは考えないわ。 物理主義では、魂や精神や心や知性(ヌース)や、その他なんて呼んでもいいけど、要するに、物質とはまったく無関係にそれだけで存在するような心的実体(個体)は存在しえないと考えるのよ。 言うなれば物理主義は、少なくとも、実体に関しては物的一元論ね。 それに、可能世界はオジサンいうあの世、つまりハデスなんかじゃないの。 だってオジサンの言ってるあの世は存在するとすればただ一つ、現実世界のあり方から因果応報的に決まっちゃう世界でしょうけど、もし可能世界があの世なら、あの世が無数に存在することになっちゃうものね。 それから、逆にあの世が可能世界の一つだとしても、そんな可能世界は、少なくとも現実世界の近くにはないわね。 だって、オジサンの言うハデスは、魂がそれだけで存在しているような二元論的世界だから、物理主義によれば、さっきの自然法則的な可能世界群の中には存在しないし、存在しても、現実世界から遠く遠く離れた可能世界として存在するにすぎないか、場合によっては、いかなる可能世界としても存在しないと言われたりするわ。 ソクラテス: これはまた、なんと情けない言論であることか。 魂がそれだけで存在することができないとは。 だが、こんな卑しい猫の姿をしているとはいえ、言葉はまともだ。 もっとも、言葉だけだがね。 これ、ミタマよ、おまえの言論を異教の神に捧げられる呪文として聞くのも、少しは時間つぶしにはなるだろう。 どうやら、看守の者が言っていたように、二度目の毒ニンジンを飲むまでのな。 では、おまえの言う物理主義では、魂とはいったい何なのだ? 猫: 魂、もっとふつうに言って心は、肉体の一部である脳の活動に他ならないわ。 とくに機能主義では、その脳の活動は、肉体の生存のために、環境からの情報を取り入れ、適切な思考や意志作用を行い、うまく行動するための一連の情報処理だと考えられているわね。 ソクラテス: おやおや、それはまた何とも奇妙な暗合だ。 先ほどシミアスが語ってくれた魂の調和説を思い出させる。 シミアスは、わたしにこう不安げに語ってくれたものだ。 われわれの肉体には、熱とか冷とか乾とか湿とかの反対的諸性質があるが、それらが「適切な比でお互いに対してほどよく合わされるならば、まさにそのときに生じてくるそれらの諸要素間の和合なり調和というのが、とりもなおさず、われわれの魂というものに他ならない・・・」とな(『パイドン』86c)。 猫: にゃ~。 調和が機能かどうかは知らないけど、肉体の諸要素の何かの組み合わせが「とりもなおさず、魂に他ならない」というのは、当たっているわね。 物理主義は、心をそんな風に考えるのよ。 少なくとも、心的な実体や心的な出来事や心的な現象と考えられているものは、すべて本当は物理的なものに他ならないと。 でも、用語で混乱しないようにしたいわ。 この種の存在論の基本的な枠組みは、<個体>と<個体がもつ性質>の二つ。 で、「実体」とか「出来事」とかいうのは個体の別名なんだけど、「現象」とか「状態」という言葉は曖昧ね。 ときには、個体を指すつもりで使われることもあるけど、大体は性質の意味だわ。 少ししっくりこないかもしれないだけど、「脳がしかじかの状態である」というのは、「脳という個体(人物という個体の部分となっている個体)が<しかじかである>という性質をいまもっている」ということ。 まあ、存在論って、なんて厄介なんでしょ。 オマケにもう一つ。 存在論ではよく、「これこれの性質が例化される」って言うけど、これは、その性質をもった個体が存在するようになるってことなの。 さしずめ、あたしは、<猫である>っていう性質の例化ね。 それとも、<美しい>って性質の例化かしら? ソクラテス: では、これもまたケベスが心配したように、物理主義とやらによれば、「ひとが死ぬと、同時に、魂は散り散りになり、それが魂にとっては、存在することの終わり」(同、77b)になるのだね。 それは、ちょうど、調律された音の調べ(調和)が視えざるものであり、非物体的なものであるのに、この竪琴が壊されたり、弦が切られたりしてもなお、どうして調律された音の調べの方は、滅びることもなくなおも存在することがありえようか、という異議申し立てなのだな。 猫: ソクラテスのオジサン、その通りのようね。 ソクラテスは脚をさすりながら、さらに興味を引かれたかのように、寝台から身を起こして尋ねた。 ソクラテス: それではミタマよ、もう少し聞くが、物理主義によれば、心的なものはこの世でもおまえの言う可能世界でも、もうまったく何も存在しないのか? それとも、まさかこの舌のしびれや、脚の痛みや、真なる思いなしや、知性の働きまでも、物であるとは言えなかろうに。 還元的物理主義と非還元的物理主義 猫: 確かに、実体としてではなく、性質としての心的なものの存在は難しいわね。 物理主義者の間でも、意見が分かれているわ。 それに、ふつう性質には、カテゴリカルな性質と傾向性的な性質の区別があって、機能主義でいう心的性質は傾向性的性質の一種だっていう主張も、これに微妙に関わってるの。 カテゴリカルな性質とは、「こうです」って素直に言えるような性質だけど、傾向性的性質はそうは言えずに、「もしこれこれなら、こうです」っていう具合に条件つきなのよ。 性質<化け猫である>に対して、<もし人前に出たら、美しい>っていう性質みたいにね。 あら、冗談よ。 ともかく、最も強固な物理主義は還元主義で、それによれば、どんな心的性質も物理的性質に他ならないわ。 その場合、心的性質は物理的性質に還元されるっていうんだけど、その意味は、「ソクラテス」と呼ばれようと、「アテナイ随一の知者」と呼ばれようと、「クサンティッペの夫」と呼ばれようと、オジサンはオジサンという同一人物であるように、心的性質がどんな風に私たちに現れようと、それはすべて何らかの物理的性質と同一だということよ(性質一元論)。 それよりソフトな物理主義は非還元主義と言うわ。 それによれば、心的性質は物理的性質と同一でないという意味で、物理的性質には還元できないの。 すると、これは、少なくとも性質二元論になるわね。 なぜかというと、ソクラテスのオジサン、さっきの可能世界の話を思い出して。 人物や出来事が現実世界と違う性質を持つのが可能世界だったわ。 でもその可能世界でも、ソクラテスはソクラテスであって、ソクラテスがプラトンであるようなことはないのよ。 ソクラテスがプラトンであるなんて、不可能だわ。 つまり、ソクラテスがプラトンであるような可能世界は存在しないってわけ。 たとえ、ソクラテスがプラトンの持つ性質をたくさん持つような可能世界があったとしてもね。 同一でないもの同士は、必然的に同一にあらず。 だから、これを性質のお話にずらして考えると、心的性質と物理的性質が現実世界で同一でないと言うなら、それらはどの可能世界でも同一ではないと言っていることになるの。 つまり二元論ね。 ソクラテスはどの可能世界でもソクラテスであってプラトンではない、ということは、言葉の働きからもそう言えそうね。 ソクラテスがプラトンだったら、というのはよく考えてみると、わけが分からない文法違反の言い方かもしれないわ。 例えば、固定指示詞というのは、「ソクラテス」という固有名詞がどの可能世界でもソクラテス本人を指示するように、同一の指示対象をあらゆる可能世界で指示し続ける、という働きを持つ言葉だといわれているの。 反対に、非固定指示詞は、「アテナイで一番のお金持ち」という確定記述句がその記述を満足させる人物なら誰であれその人物を指示するように、各可能世界ごとに別々の対象を指示することもありうる、という働きを持つ言葉ね。 ソクラテス: ソクラテスはプラトンではありえない・・・うむ。 確かに、ソクラテスの魂はプラトンの魂とも、パイドンの魂とも異なるだろうて。 ところで、おまえの言う異端の教説、物理主義はそもそも物理的な実体一元論なんだから、非還元主義はそのまたひねくれ者ということになるのだろう。 しかし、その非還元主義によれば、ソクラテスの肉体にプラトンの魂が宿り、プラトンの肉体にパイドンの魂が宿っているような可能世界もあるのだろうね。 猫: 可能世界の<遠さ>によるわね。 もっとも、魂は心的性質、肉体は物理的性質という具合に、それぞれ実体としてでなく考えた場合だけど。 もし可能世界を現実世界の<近く>の可能世界、つまり現実世界と自然法則を共有する可能世界に限るなら、そこでは、ソクラテスの肉体にプラトンの魂が宿るような可能世界は存在しないの。 なぜって、どちらのタイプの物理主義者の考えでも、そこではスーパーヴィーニエンス(付随性、併発性)という関係が心的性質と物理的性質の間に成り立っているからよ。 ソクラテス: そのスットコドッコイ、じゃなくてスーパーヴィーニエンスとは何かな。 猫: あら、この可能世界のソクラテスは、かなりおちゃめなソクラテスなの? シャイなあたしには話がしやすいわ、自分で言うのも何だけど。 え?、まあ、なんでもいいけど、スーパーヴィーニエンスっていうのは、一言でいえば、一方が他方に連動する二つの性質の間の依存関係のことで、いまの場合、どの二つの個体や出来事についても、その物理的性質(の集まり)が同一なら<必ず>その心的性質(の集まり)も同一だけど、その心的性質が同一だからといって物理的性質が同一とは限らない(つまり、逆は成り立たない)、っていうことなの。 だから、こスーパーヴィーニエンスが成り立っている可能世界では、そこのソクラテスの肉体(もちろん、脳込みだけど)が現実世界のと同一なままである限り、プラトンのであれパイドンのであれ、現実世界のソクラテスとは別の魂がそれに宿るなんてことはないわね。 こう想像してみて、ソクラテスのオジサン。 現実世界のオジサンの肉体がそっくりそのまま一つの可能世界に出現するの。 そしたら、現実世界のオジサンの魂も、そっくりそのままその世界のソクラテスの肉体に再現されるわ。 なぜって物理主義によれば、すべての状態や出来事は物理的な状態や出来事に依存し、それによって決定されるからよ。 スーパーヴィーニエンスは、だから物理主義にとっては、性質に関するその依存/決定関係を述べたものなのね。 ソクラテス: まったくあべこべの話だな、それは。 肉体などというものは魂にとって忌むべき牢獄であり、死がその縛めを断ち切れば、それこそ魂は喜んで、それ自身がそれ自体においてあるものとして存在するようになる。 そうではないか、ミタマよ。 しかし、猫に真珠、ではなしに真実とは虚しい限りだ。 だが、そのス・・・何とかでは何だって、下からは上が決定されても、その逆、上から下が決定されることにはならんのだ?もちろん、肉体の側を「下」と呼び、魂の側を「上」と呼ぶのに同意してくれるとした上でのことだが。 物事の真の原因はイデアなのだから、本来なら上が下を決定しそうなものだが・・・ 猫: さすがはソクラテスのオジサン、目のつけ所が違うわ。 確かにそこが物理主義のポイントね。 上にあるものどもよりも、下にあるものどもの方が存在論的に優先する、というのが物理主義の基本的立場よ。 だから、さっき言ったように魂は脳の機能であって、脳は調和ある肉のかたまりであって、肉のかたまりは原子分子の集まりであるのだから、結局、こう言ってもいいわ。 原子分子がうまく集まりきれずに魂が存在しないような可能世界はいくらでもあるけど、魂が存在するのに原子分子がうまく集まっていないような可能世界は、少なくとも、現実世界の近くには存在しない、って。 もっとも、現実世界の遙か彼方の、何が存在し何がどうなっているのかを言う言葉さえ見つけられないような、人の想像を絶した異様な可能世界ではどうか知らないけど・・・。 これが、スーパーヴィーニエンス関係は下が上を決定するけど、その逆ではない、ということの一つの意味だわ。 多重実現と再び魂の不死(輪廻転生)の話 ソクラテス: やれやれ。 この猫の考えを改めさせるには、しびれエイの一撃では足りぬかもしれぬ。 では、わがソクラテスの魂が存在するところ、わがソクラテスの肉体も存在しなければならね、とおまえは言うのだな。 猫: でもないわね。 もう一つ、スーパーヴィーニエンスには多重実現という要素があるわ。 そしてこれが、非還元主義のポイントね。 例えば、オジサンの好きなテーマ、<勇気ある行い>とか、<美しい調べ>とかに即していうと、そういう行いとか調べが世界にたった一つしか存在しないということはないわね。 そうだとすると、<勇気ある行い>の場合、それらは互いに異なる行いでもすべて<勇気ある>行いなのだから、その行いのどれかであるというだけで、それは<勇気ある>という性質を持つのだけれど、ただ<勇気ある行い>と言うだけでは、それが互いに異なる行いのどれであるかはまだ決定したことにはならないわね。 だから、同じように肉体が魂を決定しても、魂が肉体を決定することにはならないんだわ。 こういうように、多重実現というのは、下の性質が上の性質を互いに異なる複数の仕方で実現するということなんだけど、スーパーヴィーニエンスっていうのは、一対多の多重実現関係を許すのが普通だから、それからしたって、<上>を決めても<下>が決まらないという関係になるわけ。 そうすると、ソクラテスの魂はどうなると思う? このとき、ソクラテスは立ち上がって、牢獄の中を歩き始めた。 一度目に飲んだ毒の効き目は、もうすっかり消えていた。 話はめちゃめちゃだ、とソクラテスは思った。 しかし、それなりにつじつまは合っている。 だが、それにしても、一番大事な問題を忘れているではないか、と言おうとしたとき、またミタマは話し始めた。 猫: 機能主義では、魂は脳の情報処理の働きに他ならないということは言ったわね。 とすれば、その<働き>、その<機能>を適当な環境の中で果たすなら、それは魂そのものじゃないかしら。 魂の多重実現ね。 その場合、人間の脳にこだわることはないわ。 いいえ、そもそも本物の脳にこだわる必要もないのよ。 いいこと、例えば、水を動力とし、水が流れ落ちれば羽根車が回り、その羽根車の回転が別の車を回し、という具合に複雑に組み合わされた巨大な仕掛けが、ちょうどソクラテスの脳の中の歯車の仕掛けと同じようにその大事な<機能>を果たすなら、その人工の仕掛けは、ソクラテス、あなたの魂そのものなんだわ。 こうも言えるの。 その人工の仕掛けはソクラテスの魂を実現する多くのやり方の一つにすぎない、って。 こうして、あなたの魂は、あのハデスではく、この現実世界においてさえ、ソクラテスの肉体の正確な複製を作るたびに、また、それどころか、その肉体の機能を果たす精妙な機械仕掛けを作るたびに、実現するのよ。 これこそ、物理主義者に許された<魂の不死>に他ならないわ。 そして、その機能以外の、ソクラテスの肉体の素材なんて実はなんでもいいんだから、ソクラテスの魂は人間以外の「脳」にも宿ることができるわね。 これが、物理主義者に許された<輪廻転生>なのよ。 もっとも、その<不死>も<輪廻転生>も、魂を支える「脳」の機能を越えることは出来ないけれど。 ソクラテス: ふ~。 わたしが猫のようにため息をついても仕方がないな。 ミタマよ、しかし、その言論はやはり肝心なことを忘れているようだ。 そんな<不死>や<輪廻転生>では、窮屈で仕方あるまい。 いつどこであろうと、肉体のおかげをこうむらざるをえないというのではな。 いっそ、魂は、かつて神話で多く語られたように、石や木や水や川の流れにも宿ることができねばならないはずだろうよ。 しかし、おまえの従う物理主義では、それができない。 なぜできないというに、おまえの説では、魂に、それが魂であるがゆえんの<本質>が拒まれているからだ。 肉体にはなく魂にはあるその本質こそが、おまえのいう可能世界のすべてのソクラテスを他ならぬソクラテスにしているというのに。 誕生から死までの肉体の激しい転変を考えるなら、ソクラテスの本質を肉体に求めるのはいかにも不合理なことではないか。 なぜというに、赤子から老人にいたる相異なる肉体どもはそれらが異なるから同じ一人のソクラテスなのではなく(そうだとしたらおかしなことだろう)、それらが同じ一人のソクラテスだからこそそれらは相異なる誰かの肉体どもとなるのだから。 とすれば、ソクラテスの存在する時空のすべて、可能世界のすべて、この世とハデスを貫いて、同一のソクラテスの根拠が肉体より先に存在しなければならない。 また、どの<勇気ある行い>も<勇気ある>ものであるためには、ミタマよ、おまえの言論にしたがってさえ、それぞれの行いは、まずその行いがそれであるところのものである上に、さらに、<勇気ある>という性質をどこからか獲得してくるのでなければなるまい。 それは、<勇気>それ自体、つまり<勇気>の本質(イデア)が存在し、それをすべての<勇気ある行い>が分有する、という以外に、どのようにしてでありえようか。 もし<ソクラテスの本質>が存在するなら、それはすべてのソクラテスの「肉体」どもの根拠なのだから、「肉体」どもとは切り離されて別に存在していなければならない。 ソクラテスは、数時間前の友人たちとの会話を思い出しながら、少し興奮してきた。 再び、寝台に腰掛け、ミタマをじっと見るソクラテス。 心的因果と物理主義 ソクラテス: おお、ミタマよ、おまえの言論が忘れているというのは、物事の真の原因は、その物事の本質、根拠以外のどこにもないという簡単なこと、これだ。 さっき、わたしがシミアスたちに語って聞かせたように、ソクラテスがこの牢獄でこうして死を待っていることの原因は、ソクラテスの知性である。 というのも、ソクラテスは、その行為のすべてを知性によってなしているからだ。 ところが、かのアナクサゴラスの説と同様に、物理主義によれば、わたしがここでこうして脚を曲げて座っていることの原因は、「骨がそれの結合部において自由な動きをなすときに、腱が伸縮して、わたしがいま四肢を曲げるようなことを可能にする」(『パイドン』98D)ことなのだ。 しかし、真実は、このわたしの行為の原因は、「アテナイの人たちが、わたしに有罪の判決を下す方が<よい>と思ったこと、そしてそれ故に、わたしとしても、ここに座っている方が<よい>と判断したこと、そして彼らの命ずる刑罰なら何であれ、この地に留ってそれを受けることの方が<正しい>と判断したこと」(同、98E)なのである。 骨とか腱とか、そういうバカげたものを原因と称することは、出来事の必要条件の一つにすぎないものを、真の原因そのものと言いふらすことなのだ。 しかるに、ミタマよ、おまえの物理主義にしたがえば、存在論的に優先するのは魂より肉体の方なのだから、すべての行為の原因は行為者がどう考え、判断したかではなく、骨や腱がどう動くのかということにならざるをえないだろう。 つまるところ、物理主義とやらでは、行為の真の説明さえもできないのだ。 猫: ふふふ、そうでもないけど、これはまさに、物理主義にとっての心的因果の問題ね。 確かに難問だけど、物理主義がこれをクリアーできないことはないと思うわ。 この問題には、いくつかの前提があるわね。 一つは、ソクラテスのオジサン、あなたがいま言ってくれた「心身因果」という関係。 もう一つは「物理的領域の因果的閉包性(物理的閉包性)」、それに「過剰決定の回避」だわ。 そして一般に心的因果の問題というのは、この3つの前提をすべて満足させながら、心的性質に因果的効力を与えること、つまりオジサンの言う<どう判断したか>が行為の真の原因となるように議論を組み立てること、もっと言えば、エピフェノメナリズムをうまく遠ざけることね。 ソクラテス: ふうむ、では、それらを猫にでも分かるように、じゃなくて、このソクラテスにも分かるように説明できるかな? 猫: 難しいけどやってみるわ。 まず、心身因果というのは、魂から肉体への因果関係と、その逆の肉体から魂への因果関係のことで、これは、猫も人間もあんまり否定したくないわね。 なぜって、あたしもカツオ節ご飯の方がお肉よりダイエットにいいと考える<から>カツオ節ご飯を食べるのだし、カツオ節ご飯の姿が網膜に移る<から>そこにカツオ節ご飯があると考えるわけね。 この二つの<から>は、どちらも原因と結果を結んでいるわ。 次に、因果的閉包性というのは、どんな物理的な出来事にもそれを引き起こすのに十分な物理的出来事(原因)が存在する、という主張ね。 これは二元論者であるオジサンが認めるかどうか知らないけど、物理主義にとっては譲れない一線だわ。 つまり、オジサンが仮にクリトンの勧めにしたがってメガラかボイティアに逃げていたとしても、その脱獄をすべて説明する<骨と腱の話>があるってことね。 もちろん、脱獄の方がいいって思ったオジサンの思いなしと並んでね。 そして最後の過剰決定の回避というのは、ある結果に対してそれを引き起こすの十分な別々の原因が二つ以上ある(過剰決定)なんてことは滅多にあるべきじゃない、という一種の要請みたいなものね。 それに、過剰決定は、スーパーヴィーニエンスの下では因果的排除の問題(排除問題)につながるの。 例えば、あるとき<偶然に>過剰決定を起こした二つの十分な原因の一つが物理的出来事でない(心的原因だ)とすると、二回目にその原因が<単独で>出現した場合、その結果の出来事には一回目の物理的原因はもう連れそっていないんだから、いいこと、因果的閉包性が破られたことになるわね。 そりゃヤバイというので物理主義者は例外なく、そういう過剰決定があるなんて認めないわ。 そんな心的原因は存在しないか、あるいは存在しても、もう一つの物理的原因と性質間のスーパーヴィーニエンス関係で<必然的に>結びつけられていたはずだ、と主張するのよ。 そうなれば、どのみち、結果の物理的出来事には<必ず>物理的原因があることになるから、物理的閉包性は守られるわね。 でもスーパーヴィーニエンスの場合には、今度は排除問題が待ってるの。 というのは、二つの種類の十分な原因が<必ず>そろってお出ましになるのなら、その一方は実は余計な飾り物だってことでしょ。 だったら、その余計な方の原因(心的原因)は原因の地位から追放されても当たり前、というのが排除問題ね。。 こういうのを全部合わせるとどうなるか、オジサンなら分かるわよね? ソクラテス: もちろんだが、ミタマよ、おまえの口から聞いてみよう。 猫: その前に、性質の因果的効力というのは、ある原因がある結果を引き起こすとき、その原因が<その性質のゆえに>その結果を引き起こす際のその性質のことね、ややこしい言い方だけど。 例えば、ある大きな歌声は、その<声の大きさのゆえに>庭のツバメを驚かせたのであって、その<歌詞のもつ意味のゆえに>ではないわね。 そして、この場合のエピフェノメナリズムとは、心的性質にその因果的効力を認めないことだわ。 さてさて、それでどうなるかと言うと、さっきの3つの前提をすべて満足させて、心的性質に因果的力を確保するのは確かに至難の業。 なぜって、因果的閉包性を受け入れたら、すべての行為にはその十分な物理的原因(骨と腱による原因)が存在するのだから、行為の因果的生成に対して過剰決定と排除問題を避けるためには、その物理的原因以外の原因はどれも本物の原因ではない、と言わざるをえないわね。 物理主義は、物理的なものに存在論的な優位性を与えるから、物理的なものが因果的な仕事のすべてを行ってしまった後では、心的なものがなすべき因果的仕事は何も残されていない、というわけ。 だとすると、心身因果を受け入れて、魂としての魂の状態(判断や思いなし)が行為の原因だと主張しても、それは、心的性質を真の原因ではなく、まがいの原因だと言うことに他ならないの。 そしてそれこそは、心的性質に因果的力を認めないこと、エピフェノメナリズムだわね。 あら、これじゃ、オジサンの言うとおり、物理主義じゃ行為の真の説明はできないってことになっちゃいそうね。 ソクラテス: ふうむ(得意げに)、世に言うソクラテスの問答ってやつの見本のようだ。 猫: まだ早いわよ。 物理主義には、まだいくつかの選択肢があるわ。 例えば、心的性質と物理的性質の文字通りの同一性、つまり還元主義を取ればどうかしらね。 これは、心的性質と物理的性質を同一とすることによって、物理的性質の因果的効力を心的性質の因果的効力そのものとする戦略ね。 これにはこれでいくつかのやり方と、厄介な問題がありそうだけど。 それから、非還元主義をとるなら、いくつかの戦略の中でも、いっそ心的性質の因果的効力を諦めちゃうという極端な戦略もあるわ。 これは、一見して苦しい敗北のように見えるかもしれないけれど、因果的効力という概念を含めた、ちょっと大がかりなエピフェノメナリズム再考という話ね。 それにもっと、根本的な戦略の転換として、形而上学としての物理主義の地位(因果関係が因果説明に優先する)を見直すという戦略だってあるわ。 この立場が、正確に存在論としての物理主義の枠内にあるかどうかは問題だけど、その範囲にとどまりながら、心的因果の説明実践の方を形而上学的存在論より優先させるということが可能かもしれないわね。 あるいはそれにね・・・ このとき、何人かの人々の足音が牢獄に近づいてきた。 ソクラテスの遺体を運ぼうとしてやってきた役人たちである。 しかし、もはや夜は白々と明け始め、一番鶏の声が遠くに聞こえる。 二度目の毒ニンジンを飲むのは、また今夜のことになるだろう。 すると、このソクラテスは、これから、二冊目の『パイドン』となる題材を新たに弟子たちに話すのだろうか。 猫: 時間ね。 もう消えるわ。 性質が存在するって、考えてみれば不思議なこと。 もし性質がその担い手から離れてそれだけで存在できたら、多くの問題が容易く解決できたでしょうに。 なぜって、そのときは性質相互の関係を純粋な形で探求しえたでしょうから。 でも、性質は、<笑い>だけのあたしのように、それだけで存在することはできないんだわ。 牢獄内が明るくなるにつれて、ミタマの姿は徐々に消え始めた。 やがて完全に消えてからしばらくの間、ミタマの<笑い>だけが牢獄内の空間に残った。 あのチェシャー猫のように・・・・ 参考文献: 『パイドン』(プラトン全集1)、松永雄二訳、岩波書店、1975。 なお、ここに登場するソクラテスの言動に関しては、金沢大学文学部の同僚、三浦要氏(古代哲学)にも監視の目を光らせて頂いた。 貴重なコメントを寄せて頂いた和洋女子大学の三浦俊彦氏、および本誌本号の二人の執筆者、柏端達也氏と太田雅子氏とともに、ここに記して感謝の意としたい。 もちろんのこと、このソクラテスがへんてこりんなソクラテスであったとしても、そのすべての責任は私にある。

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「心」は、物理的な存在か? (2) - 心脳同一説

物理主義

先の報告で取り上げた唯物論(すなわち心脳同一説)や機能主義がうまく処理できていないと少なくとも思われるものが「クオリア」や「現象的性質」である。 ネーゲルによると、物理主義は少なくとも現行のやり方では「経験の主観的性格(subjective character of experience)」をうまく説明できない(260頁)。 本報告ではネーゲルの議論を追いたい。 あらかじめ強調すべき点だが、ネーゲルの最終的な主張は《物理主義は間違いだ》というものではない。 彼はもう少しニュアンスのあることを指摘しており、それは、哲学者が提示している心の物理主義的理論(唯物論や機能主義)が成功しているとは言えない、ということである。 じつに、ネーゲルにとって、より洗練された物理主義が意識やクオリアを説明することはありうる。 かくして現行の自然科学のやり方の改訂を訴えない心脳同一説や機能主義は、その成功を自負するわけにはいかないのである。 本報告の議論の順序は以下である。 はじめにネーゲルの全体的な主張を大まかに掴む(第1節)。 次に、この主張の肉づけとして、有名なコウモリのケース・スタディを追う(第2節)。 最後にネーゲルの議論の結論を確認する(第3節)。 物理主義にとっての障壁としての〈意識の視点性〉 ネーゲルは、物理主義が今のところ「クオリア的な」ものを説明できていない、と考えている。 例えば彼の論考の冒頭は、現状において物理主義が「心理現象を物理現象へ同定したり還元したりする可能性」を模索していると指摘したうえで、従来の物理主義的な理論が「意識の存在にほとんど注意を払わないか、またはそれを明らかに誤って捉えている」と述べる(258頁)。 そのさい鍵概念となるもののひとつが「視点(perspective)」である。 はたしてネーゲルは意識をどのようなものと把握するか。 この哲学者は《或る有機生命体が意識をもつ》という事態を、術語的に、「その有機生命体であるとはそのようなことであるような事柄がある(there is something it is like to be that organism)」と捉える(260頁)。 これは、自分がその有機体であるときに、自分にとって開ける「世界」のようなものがある、ということ。 言い換えれば、その有機体の視点から開ける何かしらの場がある、ということである。 さてネーゲルの考えでは、意識のこうした視点性が、心理現象の物理的説明の障壁になる。 なぜなら物理的説明は事物を、或る意味で「無視点の」境地で説明するものだからである。 曰く、「あらゆる主観的現象は本質的に単一の視点と結びついているのだが、客観的な物理理論がそのような視点を放棄することは避けがたいように思われるからである」(261-262頁)。 じっさい、ガリレオ以来の自然科学は諸事象を、視点に依存しないいわゆる「一次性質」で説明しようとする企てであり続けている。 「意識的体験」と呼ばれうるものがこの世に存在していることは疑いようがない。 となると、ネーゲル曰く、「もし物理主義が擁護されるべきであるならば、体験の現象学的特性そのものが物理的に説明されなければならない」(261頁)。 とはいえ、たったいま指摘したように(そしてこれから説明するように)、現行の「客観主義的な」物理学的な理論が「視点的な」意識のあり方を説明できるとは思われない。 そしてこの哲学者自身は、話の具体化として、いわば「ドラマティックな」ケース・スタディを提示する。 それが有名なコウモリの事例だ。 コウモリは意識をもつ(この点を疑うひともほとんどいないだろう)。 じっさい、コウモリは哺乳類であり、相当に発達した感覚器官をもつと言える。 とはいえ私たちの物理学的な手法は、コウモリの意識の主観的側面の理解を深めるのに役立つだろうか。 よく知られているように、コウモリは「主としてソナーによって、つまり反響的位置決定法によって外界を知覚する」(263頁)。 すなわちコウモリは、自らが発する衝撃派の反響を受けとることによって、対象までの距離やその大きさ・形・動き・触感などを識別する。 簡潔に言えば、人間が「目」で行なっていることをコウモリはおおむね「耳」(と関連器官)で行なっている、ということだ。 ここで問うてみよう。 コウモリであるとはどのようなことか。 コウモリの視点から開かれる世界はどのようなものだろうか。 コウモリの意識的体験が存在することはおそらく疑うことができない。 とはいえ、私たちが現在有している何かしらのやり方で、《コウモリ自身にとってコウモリであるとはどのようなことか》を私たちが理解できるとは思われない。 ネーゲルはさらに踏み込んで以下のように論じている。 自分自身について、次のようなところを想像しようと試みても、それは無理であろう。 腕に水かきがついていて、それを使って夕暮れや明け方にその辺を飛び回り、口で虫をつかまえているところ、あるいは、視力がひじょうに弱く、周囲を高周波の反響音信号システムによって知覚しているようす、そしてまた、日中は屋根裏部屋でさかさまにぶら下がってすごしているありさま、といったことである。 私に可能な範囲では(その範囲もさして広くはないが)、そのような想像によってわかることは、私がコウモリのようなあり方をしたとすれば、それは私にとってどのようなことであるのか、ということにすぎない。 しかし、そのようなことが問題なのではない。 私は、コウモリにとってコウモリであることがどのようなことなのか、を知りたいのである。 (264頁) ここで指摘されていることは、人間の想像力はいわば「人間的な」型に束縛されており、それをどのように駆使しても《コウモリであるとはどのようなことか》は分からない、ということだ。 ただちに注意せねばならないのは、ネーゲルが問題にしていることが《他人の心は分からない》という私秘性の一事例でないという点である。 この点について彼曰く、 いま問題になっている視点とは、一人の人間にしか近づきえないのようなものではないのだ。 むしろ、それは一つの型なのである。 (268頁) 要するにここでは、意識あるいは経験の型が問題になっているのであり、例えば《コウモリの型の意識あるいは経験は人間にとって理解の範囲を超えているのではないか》ということが問題になっているのである。 じつに、「型」のレベルで考えると、人間の型の経験は複数のひとにとってアクセス可能であり、また複数の主体(すなわちコウモリ)によってアクセスされうるコウモリ型の経験も存在する。 この意味で、曰く、「ある意味では、現象学的事実とはまったく客観的なものである」(268頁)。 そして、こうした現象学的事実のうちに、人間が少なくとも今のところどのような手法でも知ることのできないものがある、ということが問題になっているのである。 いったんまとめよう。 以上の叙述は反物理主義的な議論へどのように関わるだろうか。 じつに、ネーゲルの言うように、「人間の科学者がコウモリの神経生理学を研究することに格別の困難があるとは思えない」(269頁)。 しかし、コウモリの神経生理をどれほど理解しようとも、《コウモリであるとはどのようなことか》の理解には関わらない。 このことは《心的現象も物理現象として説明可能だ》とする現行の物理主義の誤りを示しているかもしれない。 「客観的」現象学が要求される可能性 ネーゲルは以上の議論にもとづいて複数の一般的な指摘を行なう。 それらを確認して本報告の結びとしよう。 第一に、物理現象と意識的体験は、或る意味でかなり「身分の」異なる存在である。 とはいえ意識的体験は特定の視点と密に結びついている。 例えば、《コウモリであるとはどのようなことか》を特定の視点に依存しない仕方で説明せよ、などと言われた場合、どのようにすればよいか分からない。 第二に、たったいま指摘したことは〈意識の物理的還元〉に伴う一般的な困難を示す、と言える。 ネーゲル曰く、意識以外の領域では 還元の過程は、事物の本性をより正確に知ることを求めて、客観性の増大する方向へ移動することである。 それは、探究対象へ向かうに際して、個人的なあるいは種に固有な視点への依存度を減らすことによって実現される。 […](271頁) ここで言われるように、熱などの物理現象については、人間に感覚される「外見」を離れて統計力学を用いることなどによってより深く理解することができる。 とはいえ 体験それ自体は、しかし、このパターンに当てはまるとは思えない。 外見から実在への移行という考えは、ここでは意味を失うように思われる。 (272頁) すなわち、意識は特定の視点から開かれる場のようなものである以上、それが〈客観性の増大する方向への移行〉という手法でいっそう理解できるようになるとは思われない。 なぜなら、繰り返しになるが、意識は本質的に「視点的な」何かだろうからである。 第三に、以上の考察から得られる教訓は、《物理主義は誤謬に違いない》ということではなく、《私たちはまだ物理主義が正しいとは言えない》ということである。 一方で物理主義は、心的現象は客観的な物理的アイテムで説明できる、と主張する。 他方で およそ体験が客観的性格をもつということに何らかの意味がありうるかどうかという根本的な問い[…]に関しては、ほとんどいかなる研究もなされてこなかった。 言い換えれば、私の体験が私にとってどのように現われるかを離れて、実はどのようにあるのか、と問うことに意味があるのかどうか、という問題が論じられていないのである。 (276頁) ネーゲルによれば、例えばルイスのような物理主義者は重要な問題をスキップしている。 その問題は《どのような物理的アイテムによって心理現象説明できるか》を問うに先立って考察されるべき問題であり、それは《そもそも心の体験的側面を客観的な次元で扱うことはナンセンスでないのか》という問いだ。 要するに、私たちは物理現象と意識の「身分の」違いへもっと注意を払うべきなのである。 じつに、現状において《コウモリであるとはどのようなことか》を理解しようとすれば、想像力に頼るしかない。 とはいえ、こうしたやり方では、問題の事象の(何かしらの意味の)「客観的」理解は得られない。 (277頁) このような「現象学」があれば、意識の本性を理解する問題は、何かしらの客観的な解決をもつ問いへ翻案されることになるだろう。 逆に、少なくともこうした境地に至らぬうちに《心の物理主義的理論が正しいのか否か》を問うことは拙速であろう。 要するに、ネーゲルによれば、心の物理主義的還元を試みるより先に、「主観/客観」をめぐるより一般的な問題に取り組む必要があるのである。 ガリレオは、近代の自然科学を作り上げるさい、いわば「視点依存的な」事実や性質を脇に置いた。 すなわち彼は、数学的に記述可能な領域へ焦点を絞って、無視点的な自然観を作り上げていった。 とはいえ、かかる無視点的な物理主義的手法にとってクオリアや意識の存在が障壁になるのではないか、というのがネーゲルの重要な指摘のひとつである。

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