その頭を撃ちぬいて。 過去世体験:地獄の役人、子どもを拾う

やりすぎコージー都市伝説!Siriのゾルタクスゼイアンや呪いの映画が怖すぎる…

その頭を撃ちぬいて

めでたい。 ファンとしては嬉しくて涙が出そうな出来事ですが、報道を見るにつけ、特に日本のメディアでのの紹介のされかたに、モヤモヤせずにはいられません。 フォークの神様、反体制、運動とか・・・・いつの話じゃい!と思いもすれ、まあそれも重要な点ではあるし、と思い直し・・・いやそもそも、このの授賞理由「偉大な米国の歌の伝統に、新たな詩的表現を創造した」っていうのをちゃんと説明している記事が見当たらない。 しまいにはトランプがどうとか・・・。 そういうこともあるかもしれませんが、の選考委員の眼識っていうのは文学者からも一定の評価を受けているわけで、単に目新しさや政治的理由だけで賞を贈るわけがありません。 今回の選考結果の理由のひとつには、古代からの詩の伝統や、現代の詩の影響力ということを考えたときに、ポピュラー音楽の歌詞を賞の対象から外すこと自体に疑問があって、そこを突破するなら、が健在の今、彼に与えるしかないという判断があったのではないかと思います。 もともと、声に出してパフォーマンスすることを重要視したなどのの詩を重要な文学と認めるなら、そことディランの歌との、文学としての距離は非常に近い。 であれば、を無視するわけにはいかないし、以外でに値すると誰もが認めるアーティストを探すのも難しい。 実際に、受賞候補としてのディランは、ここ数年毎年取りざたされていたわけで、降ってわいた話ではないのです。 2014年のこの本でも候補に入ってます。 まあ、ごちゃごちゃ言うよりは、ではディランの歌詞のどこがどうそうなのかというのを、僕なりに語りたい。 どの曲がいいか考えましたが、あえてレア曲のこの詞を紹介したいと思います。 「George Jackson」 なぜこの曲かというと、曲として聴いて感動的なのはもちろんですが、まず短くて、構成が明快ですし、英語も分かりやすい。 「米国の歌の伝統に、新たな詩的表現」という面も見られるし、反体制的な要素も含まれているということで、サンプルとしてはちょうど良いと思うからです。 曲名のジ・ジャクソンは、70ドルを盗んだ罪で18歳のときに囚人となりましたが、刑務所内で黒人解放運動の活動家となり、そのために権力側から疎まれて、10年間も釈放されず、脱獄しようとしたところを警備員に射殺されています。 その事件をモチーフに1971年に作られたのがこの歌です。 では、歌詞を見てみましょう。 Lord, Lord, So they cut George Jackson down. Lord, Lord, They laid him in the ground. Sometimes I think this whole world Is one big prison yard Some of us are prisoners The rest of us are guards Lord, Lord They cut George Jackson down Lord, Lord They laid him in the ground せっかくなので、和訳も載せたいですが、ネットで公開されていないものは、の問題もありそうなので、我流の拙訳でご容赦ください。 --------------------------------------------------------- 今朝目を覚まして ベッドで泣いていた 奴らは僕の大好きな男を殺したんだ その頭を撃ちぬいたんだ 主よ、主よ 彼らはジ・ジャクソンを殺したんです 主よ、主よ 彼らは彼を土に埋めたんです 70ドルを盗んだ罪で 彼を牢屋に押し込んで その後ろで扉を閉めて その鍵を投げ捨てたんだ 主よ、主よ 彼らはジ・ジャクソンを殺したんです 主よ、主よ 彼らは彼を土に埋めたんです 彼は誰からも侮辱されることを許さなかったし 誰の前でも頭を低くしたり、ひざまづいたりすることが無かった 権力者は彼を憎んでいた 彼がただ、あまりにも偽りを拒む人間だったから 主よ、主よ 彼らはジ・ジャクソンを殺したんです 主よ、主よ 彼らは彼を土に埋めたんです 看守たちは彼を罵った 上から彼を見下ろしながら でも、奴らは恐かったんだ、彼の力が 恐ろしかったんだ、彼の愛が 主よ、主よ だから、彼らはジ・ジャクソンを殺したんです 主よ、主よ 彼らは彼を土に埋めたんです ときどき、僕は思う この世界は全体で大きな一つの監獄じゃないかと ある者たちは囚人で 残りの人たちは看守なんじゃないかと 主よ、主よ 彼らはジ・ジャクソンを殺したんです 主よ、主よ 彼らは彼を土に埋めたんです --------------------------------------------------------- では、英語の歌詞を解説してみます。 これは非常によくあるブルースの歌詞の歌い出しです。 そして、途中で入るLord, Lordという呼びかけもブルースやゴスペルの形式です。 で、ブルースなら、「朝起きたら、女がいねえ」とか「朝起きたら、靴がねえ」とか「朝起きたら、ブルースが部屋の中を歩きまわってた」とかいう風になるんですが、この詞の場合はそこから社会事件が語られるわけです。 この社会事件を語るというのは、イギリス系アメリカ人の民謡に見られるバラッドという歌の形式です。 つまり「偉大な米国の歌の伝統」に則っていながら、ブルースとバラッドという異質なものを組み合わせているわけです。 は60年代にバラッド形式のを多く書いているので、おそらく、この事件を歌にしようと思ったときも、バラッドの形式が念頭にあったことでしょう。 しかし、この歌のテーマを考えたときに、歌い出しや、サビの部分に、ブルースやゴスペルという要素を入れたかったのではないでしょうか。 そして、次のポイント。 英語の詩なので脚韻を踏むのは当然なのですが、の場合その韻の踏み方が非常にうまい。 まずサビの下記の部分。 Lord, Lord, They cut George Jackson down. Lord, Lord, They laid him in the ground. 感情を込めて、声に出して読むとわかりますが、 downとgroundというのは「倒した」という部分と「地面に」という部分なので意味的にも強調したくなる、強く発声したくなる部分なのです。 他にも、下記の箇所では aboveとloveで韻を踏んでいます。 Prison guards, they cursed him As they watched him from above But they were frightened of his power They were scared of his love. これも、「上から」見下ろしたという部分と、「愛」を怖がったという部分で一番強調したい部分です。 とくに最後のloveは一番訴えたい言葉なので、それを韻を踏ませて最後に持ってくるというのは見事です。 このように技巧的にも見事なわけですが、なによりも文学的にすごいと思うのはこの曲の構成と、最後のパートです。 この歌の順番では、まず、目が覚めて泣いているという自分自身にフォーカスが当たっています。 次に、ジ・ジャクソン事件の顛末が描かれ、視点は客観的な事件の描写へと移ります。 そして各パートごとにLord、Lordと神への問いかけが入ることで、視点がより高次なものへと移ります。 この祈りには、絶対的な権力の前で、その非道をどうすることもできないという諦めと悲しみが表れていて、これはブルースやゴスペルに通じるものでもあります。 これは、歌を聞いていると実際に情景として、 ・自分:ベッドに起き上がった男の姿 ・社会:ジ・ジャクソン事件の様子 ・神:ジ・ジャクソンの亡骸と神へ祈る姿 が、まるで映画のように浮かんでくるのです。 そして、最後にその情景はまた、ベッドに起き上がって泣いていた男にもどってきます。 --------------------------------------- Sometimes I think this whole world Is one big prison yard Some of us are prisoners The rest of us are guards ときどき、僕は思う この世界は全体で大きな一つの監獄じゃないかと ある者たちは囚人で 残りの人たちは看守なんじゃないかと --------------------------------------- 必殺のフレーズです。 見事な比喩。 深みのある洞察と、広がりのあるイマジネーション。 ここで、この歌はジ・ジャクソン事件の歌から、普遍的な世界や社会の姿を歌っているものに変わります。 そこで浮かんでくる情景は、人それぞれに違うものでしょう。 身の回りのことだったり、遠い国の現状だったりするでしょう。 その広がり、その普遍性が、の歌詞が特別な文学性を持っていると言われる点だと思います。 もちろんこれは、伝統的なブルースやフォークの歌詞、また以前のポップミュージックの歌詞には見られない表現です。 この歌では歌詞のどこにも難解な表現や難しい単語は出てきませんが、その中でこれだけの詞を書いているということです。 とはいえ、一番すごいのは、これがの歌の世界のほんの一部だということで、他の曲では、圧倒的にシュールなイメージが繰り広げられるものや()、言葉遊びのようなナンセンスな歌詞 もあり、感情を掻き乱されるような恋愛に関する歌()も多い。 カバーも結構しています。 その一つ一つが質的にも量的にも圧倒的な作品群としてディランの歌の世界を形成しています。 そして、それは全てアメリカの民衆の声として、バラッドでもブルースでも、移民として、あるいは奴隷としてやってきた人々がアメリカという国を作る中で歌い継いできた歌を源流として、自らは人であるディランがその身体を通して現代に発している声なのです。 「偉大な米国の歌の伝統に、新たな詩的表現を創造した」 がを授賞した理由が、新聞記事やワイドショー、まとめを読んでよく分からなかった人に、少しでも、その歌の魅力が伝われば幸いです。 あ、そうそう。 音源も貼っておきます。 このバンドバージョンは、フォークとゴスペルの要素が組み合わさっていて面白いのですが、歌自体は、弾き語りの方が訴えてくるので、音源が欲しい方は、アコースティックバージョンもお勧めします。 ちょっとレアな曲なのですが、というアルバムに入っています。 このアルバムは、レア・トラック集なので、最初の一枚というにはアレなのですが、いい曲ぞろいで年代も広くカバーしており、アコースティックバージョンが多いので、歌詞を味わいたい人には結構いいのではないかと思います。 最後にもう一点だけ。 ディランはある時期から、歌詞を見ながら歌を聞くことは歌の勢いをそぐことになるという理由で、アルバムに歌詞カードを付けることをやめています。 また、歌詞だけを読んで、ごちゃごちゃ言われることを嫌がっていた時期もあります。 受賞について、今もコメントをしていないですが、自分の詞は歌われて初めて成立するものだという信念があることは確かなようです。 thonda01.

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拳銃で頭を撃ちぬいたら・・・ どうなりますか?

その頭を撃ちぬいて

若い頃、自分はダメな人間で コンプレックスの塊で 理屈の塊で 悪いのは周りの人間で自分のせいじゃないと思っていた。 人見知りな自分を 言葉を発しない自分を 行動に移せない自分を 例え何か少しやったとしても 何もうまくいかず いつもいつも自分ではない何かに問題があるのだと考えていた。 こうなってくると人はどうなるのだろう 引き篭もりだ。 人と関わるのが怖くなり 生活は一般的な人とは逆転していく 夜、夜中に活動し朝、昼中は寝るという 出来るだけ人に会わなくて済む生活に変化していた。 悪循環というのはこういう時もっとも顕著に表れるのかもしれない。 引き篭もりが悪いわけではない 本当にその生活が好きで行っているなら 何も問題は起きないだろう。 只、好きではない引き篭もりは 更に人間を闇に引き落としていく。 人に会うことを避け太陽や新鮮な空気を吸うこともなく 引き篭もっていけば 次の段階、命の危険が迫ってくる。 自殺願望だ 自分の思い通りにならない事を 他人や周りの環境のせいばかりにしてきた結果 生きて行くのが辛くなる。 そして死にたいと感じるようになる。 でも考えてみた。 自殺とは自分で自分を殺すことなのだ。 何かおかしい ずっと他人や周りの環境のせいだと思っていたはずなのに 僕を殺そうとしているのは僕自身なのだ。 他人ではなく僕自身。 少し見方を変えて考えてみた。 自分が駄目な人間だ思っている コンプレックスが沢山あると思っていて 理屈ばかり言っている。 これは自分自身が勝手に思っていることだ。 人見知りなどせずに自分から近づいて 勇気を出して声をかければいい やりたいと思ったことは考える前に動けばいい その結果少しくらい上手くいかなかったからと いって諦めているのも自分なのだ。 どれも自分自身の問題のはずだ。 その結果、自分自身もどかしくなり 結局何もかもが嫌になって 最終的には悪い方向へと向かっていく。 結果は同じだ。 昼夜逆転し引き籠もりになり 自殺願望を引き起こす。 どういうことなのだろうか。 人や環境のせいなのか 自分のせいなのか どの道、行きつく先は同じなのかもしれない。 これは同じ心理なのではないだろうか? 結局誰のせいであろうと 今の自分の置かれている現状が嫌なだけなのかもしれない 只、そこから逃げ出したい、抜け出したいだけなのだ。 だから、これを好転させたいのなら 責任をどこかにあるのかを探すのではなく その環境を変えればいいのだ。 そこから全く違う場所へ移動するか その環境自体を変えてしまうか こうすることで自殺願望なんて考える必要はなくなるのだ だって別の何かを考えなければならなくなるから くだらない考えをしている暇はなくなるのだ。 自殺を考えている人には早く気付いてほしいと思う 悪いのが自分だろうと周りだろうと 環境を変えなければ、ずっと耐えなくてはいけなくて それが限界にきてしまったら人は駄目になってしまうのだ。 周りの人でも良いから気づいてあげて欲しい。 今、現在も僕は僕の頭を撃ちぬいている。 自殺という弾を撃つのではなく 行動という弾を撃っている。 今日はこれをしよう 明日はこれをしてみようかな これをする事で僕の環境は間違いなく好転している 充実してきているのだ、僕の人生は。

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【パリ銃撃テロ】側後頭部からの銃撃なので血は飛び散ったりしないのでは?

その頭を撃ちぬいて

「 やりすぎコージー」とは、おなじみの今田耕司が司会する都市伝説番組である。 最近騒がれる 都市伝説は、大体この番組が発端になっている。 フリーメーソンやイルミナティ、死海文書からエリア51等々は陰謀論者やサブカルチャー好き。 そして都市伝説マニアにはおなじみの名前だが、この番組で初めて聞いた人も多いだろう。 この記事では、やりすぎコージーで取り上げられた都市伝説の中から厳選した面白い都市伝説を掘り下げてみたい。 疑う疑わないは、全てあなた次第。 Sponsored Link やりすぎコージーで有名になったSiri都市伝説 やりすぎコージーで一般に知られるようになった「 ゾルタクスゼイアン」は、Siriの都市伝説の一つだ。 そこでゾルタクスゼイアンについて検証する前に、 Siriについて調べてみた。 Siriとは、 Speech Interpretation and Recognition Interface(発話解析・認識インターフェース)の省略形だ。 そしてその前身は「DARPA」(アメリカ国防高等研究計画局)の人工知能プロジェクト「 CALO」だ。 DARPAとは、インターネットの先駆けとなるARPANETや軍用ロボットを作り、官民を統合して300以上の研究機関を連動させている世界最大の軍事研究システムのこと。 よく言われる、Siriの前身を「 ELIZA」とする説は間違いである。 ELIZAは大変古いシステムで、1964年から1966年にかけて開発されたChatbotだ。 大して意味があることを言うわけではなく、特定の返答の仕方をするようにプログラムされたChatbotで、人間は結構これに騙されてしまう。 ちなみにこれが「人工無能」や「トロ」などに発展した。 Siriがゾルタクスゼイアンに関して言っていることを調べていくと、確かにELISAとよく似た反応を示しているようにも見える。 しかしELISAは相手の質問の一部を入れ替えて質問に質問で返したり、一般的でどうとでも解釈できる定型文を返したりするだけのプログラムで、やりすぎコージーの都市伝説になるほどの存在ではない。 また、Siriの前身である「CALO」は「Calonis」で 従士のこと。 これはアメリカ国防高等研究計画局が開発した兵士にアドバイスしたり、電子機器を操作するための軍事システムである。 元々は軍用人工知能だったのだ。 そこでプログラマーでもある都市伝説記者が、Siriの隠された機能がやりすぎコージーのゾルタクスゼイアンと関係があると考えた。 Siriには学習機能があり、バックグラウンドで動作するAPI経由で標準アプリから様々な情報を得て、より所有者にカスタマイズされた働きをするようになる。 しかしそれには、言語理解のためのデータベースが必要だと都市伝説記者は指摘したい。 コマンドを理解するデータベースはiPhoneには収まりきれない。 Siriに命令するとAppleにデータが送信され、Web上のどこかにあるデータベースにある言語解析エンジンが動く。 そこから適切な動作をiPhoneに送っているはずだ。 つまりデータベースは、 アプリを動作させるために使用されているわけだ。 しかし、それ以外に蓄積した知識から質問の回答を組み立てる機能もあると都市伝説記者は推理する。 これはやりすぎコージー的な都市伝説ではなく、実際にiOSソフトウェア使用許諾契約4のCに「 Siriを使って送られるデータは、Appleとその子会社・代理人が利用できる」「 利用の形態は送信・収集・維持・処理・使用」と記載されている。 高度な回答をするためには、集合知データベースが必要不可欠となる。 Sponsored Link 「 集合知」とは大勢の知識を寄せ集めて、人工知能に実際に人格があるように見せる技術だ。 それで回答の精度を上げているのだ。 その中に、 意図的に造語された単語を放り込んだハッカーがいると都市伝説記者は考える。 その無意味なワードが、ゾルタクスゼイアンの正体ではないだろうか? やりすぎコージーで言うように、siriがゾルタクスゼイアンについて話し始めたのは2013年くらいからだ。 つまり、それ以前のSiriにはその知識が無かったと言える。 誰かがその頃に、その単語をSiriに教えたのだ。 これは「質問」という形式を取ってデータベースに放り込まれたと思われる。 ゾルタクスゼイアンは英語では「 Zoltaxian」と書くが、これは無意味な造語だろう。 この単語はスペルから見ると「Solt」(塩)「tax」(税金)「〜ian」(〜する人)の3つの単語を合成した可能性が高い。 そして頭の「 S」を「 Z」に変えただけのようだ。 ちなみに、SをZに変えるのはハッカーが良くやる言葉遊びだ。 その行動の目的は、データベースの動きを解析するためである。 ハッカーは無意味な単語に対する反応を調べて、質問からどのように情報を蓄積しているかを解析するのだ。 都市伝説記者がこう考えるのは、Siriは人工知能を利用したアシスタントだからだ。 都市伝説に思えるかもしれないが、「 人間臭い返事をする」アプリなのだ。 だからやりすぎコージーには申し訳ないが、ゾルタクスゼイアンには恐らく何の意味も無いのだろう。 当然ながらやりすぎコージーで言うように、宇宙人に目を付けられることもないし、都市伝説的な秘密結社にマークされるなんてこともある訳がない。 ところでこれは驚くべきことだが、Microsoft社の IMEという仮名漢字変換エンジンを使っているとゾルタクスゼイアンという単語は全く学習されず、いつまでたっても 一回でカタカナになることは無い。 Web上での学習成果を取り入れたエンジンでないと対応できないのだ… これこそ都市伝説として、やりすぎコージーにアップできるネタなのかもしれない。 やりすぎコージーの「呪われた映画」は都市伝説ではなく、事実だった まずこの映画が「 呪われた映画」と呼ばれる理由は、出演をオファーされた幾人かの俳優と脚本家が亡くなったからだ。 亡くなったのはそれぞれ、 ジョン・ベルーシ、サム・キニソン、ジョン・キャンディ、マイケル・オドノヒュー、クリス・ファーレイ、フィル・ハートマンである。 そこで、この都市伝説を検証するために映画の概要から検証したい。 原作はカナダの作家「モーデカイ・リッチラー」(Mordecai Richler)が書いた「 The Incomparable Atuk」という1963年の作品だ。 この作品は、アメリカでは「 Stick Your Neck Out」(首を突き出せ)というタイトルで発売された。 この作家は脚本家でもあり、自作を原作として「Atuk」(アトゥク)という映画の脚本を書いた。 やりすぎコージーではこの名で紹介されていたが、この原作はイヌイット族がトロントに移住して、都会の生活になじめずに起こす様々な騒動を描いたコメディだ。 映画版では、移住先はニューヨークということになっていた。 Sponsored Link アトゥクは宣教師とイヌイットの女性の間に生まれた男性で、ドキュメンタリーを撮っているミッシェル・ロスという女性にあった時に人生のチャンスを感じてニューヨークまで付いて来てしまう。 そこにアラスカのエメラルドという荒野を開発したい不動産業者と、彼の不良少年の息子が絡んで様々な騒動を巻き起こす。 別に呪いが発生するような内容ではなく 平凡な恋愛と家族騒動が絡んだコメディなのだが…やりすぎコージーで紹介されていたように「 アメリカ映画史上もっとも笑えないコメディ映画」と呼ばれている。 では次に、都市伝説の検証のために犠牲者たちはどのような事情で亡くなったのかを見ていきたい。 まず「サタデー・ナイト・ライブ」というコメディショー番組で有名になり、番組内のキャラクターであるブルース・ブラザーズ(俳優ダン・エイクロイドとのコンビ)で映画デビューした ジョン・ベルーシの場合。 彼は主演を快諾し、契約した後にハリウッドのホテルの部屋で薬物の過剰摂取で33歳という若さで亡くなっている。 次に サム・キニソンだが、コメディアン兼ロックミュージシャンである彼も亡くなったベルーシの代役としてのオファーを快諾。 しかしその後、飲酒運転の車による自動車事故に巻き込まれて、こちらもわずか38歳という短命で終わる。 ここで死因に共通した部分が無い点が、都市伝説記者は気になった。 そして「ホーム・アローン」や「クール・ランニング」で知られる俳優、 ジョン・キャンディ。 彼はジョン・ベルーシとはブルース・ブラザーズで共演しており、例にもれず主役のオファーを快諾。 が、その矢先の就寝中に心臓発作を起こし43歳で亡くなってしまう。 ジョン・キャンデイの場合はさらに犠牲者が増えている。 それは彼の友人の脚本家の マイケル・オドノヒューで、彼はジョン・キャンディと一緒にAtukの脚本を読んだ後、脳出血を起こして亡くなっている。 ここまで来ると、契約して脚本を読んだ人間が犠牲者になるという都市伝説に感じるだろう。 その後にオファー受けたのが、こちらも「サタデー・ナイト・ライブ」に出ていた クリス・ファーレイ。 彼は「ウェインズ・ワールド」を機に映画デビュー。 俳優やスタントマンをこなす人物だった。 それがAtukの主演を契約した途端に薬物の過剰摂取で、これまた33歳という若さで息を引き取っている。 ここまで来れば、完全に「何かの呪い」を疑うのが当然だ。 脚本を読むと何かのストレスがかかり、普段ではしないことをするのだろうか?そして最後のオファーは、 フィル・ハートマンにいった。 これまでの怪奇事件を知る彼としては、やはり快諾などはせずに断った。 だが、しつこく説得され出演することをつい口約束してしまう。 とは言え契約すらしておらず、当然台本にも目は通していなかった。 しかし呪いは彼の身にも降りかかり、結果的に逝去してしまう。 そしてこの件に関しては、その様子も大変不可解なものだった。 原因は射殺で、寝室のベッドの上で発見されたのだが、そばには彼の妻も自ら拳銃で頭を撃ちぬいたような様子で倒れていた。 警察は妻による無理心中として処理しているが、真相は不明だ。 妻が夫を止めようと脚本を読んだ可能性はある。 これで「 呪いの映画」という評価は完全に定着してしまった。 そして問題の脚本だが、これが所在不明なのだ。 しかし脚本を書いた本人は最後の犠牲者が出た後も70歳まで生きており、脚本自体に呪いがあるとは思えない。 とすると、全てが偶然ということになる。 都市伝説記者は呪いがあるとしても、それが脚本自体にはなかったと推測する。 死因も 薬物・病気・事故・殺人と様々で共通点も無く、これは不幸な偶然としても良いのではないだろうか。 都市伝説記者も散々調べたが、とうとう決定的な材料は出てこなかった。 やりすぎコージーには申し訳ないが、恐らくこちらも単なる都市伝説に過ぎないのだろう。 しかし、呪いを疑うのは自由だ。 何事も信じるかどうかはあなた次第なのだから….

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