アフガニスタン 戦争。 「アフガニスタン」最新質問一覧

アフガニスタン紛争 (2001年

アフガニスタン 戦争

は、19世紀に入りがの一環として二度にわたるでイランに進出し、さらにアフガニスタン方面にも勢力を伸ばそうとしたことに対して、インド植民地の権益を防衛する目的で、に侵略し、の制圧を目指した。 それに対してアフガニスタンが抵抗して3次にわたる戦争となった。 イギリスは第1次(1838~42年)・第2次(1878~80年)の二度にわたり出兵したが、いずれもアフガン人の抵抗を受けて敗れた。 しかし、1879年に強引に保護国化した。 第一次世界大戦後の1919年に、アフガン軍がインドに侵攻してイギリス軍を攻撃、この第3次アフガン戦争で独立を回復した。 アジアの民族がイギリス帝国主義に抵抗し、一時は保護国となったものの、自力で独立を回復した例である。 現代のアフガニスタンでの、(1979年)、(一般に1989年~96年)とは違うので注意すること。 また最近では、2001年の以来続いているアメリカ軍とターリバーンの戦いを「」と言うようになっている。 第1次(1838~42年) ロシアの進出を警戒したイギリス(1837年から)がアフガニスタンを侵略し、カーブルを占拠するが、反英闘争が起こりイギリス軍は撤退した戦争。 1837年にイランの軍がロシアの支援(というより命令)を受けてアフガニスタン西部を侵略したことに危機感を持ったイギリスが、にインド総督府軍を送り、カーブルに入る。 これによってイランにアフガニスタンの独立を認めさせた。 イギリス軍の全滅 しかしイギリス兵のアフガン女性への暴行などが続き、、激しい反英活動が起こり、イギリス軍が撤退した。 その途中でインド兵、一般人を含むイギリス軍が、アフガン軍の追撃により全滅するという敗北を喫した。 1842年にはイギリス軍が捕虜奪還のため再出兵し、カーブルを破壊した。 このため、ペシャワールの(イギリス)駐屯地はきわめて念入りに整備され、北西辺境防衛の拠点ともなった。 何世紀も変わらぬ無秩序なバザールと、整然たる英国風の建物がならびたつ町ができたのである。 <中村哲『アフガニスタンの診療所から』ちくま文庫 p. 87> その後、ロシアはのに敗北し、イギリスはのなどインドでの民族抵抗に手こずっため、一時的に両国ともアフガニスタンに余力を割くことができなかった。 イギリス国内ではアフガニスタンへの積極策と消極策が対立していたが、1874年に保守党の内閣が成立し、積極外交が採られることとなった。 一方ロシアのも活発になり、中央アジアのブハラ、ヒヴァ、コーカンド三国に勢力を伸ばし、さらにからオスマン帝国とのを開始した。 第2次(1878~80年) イギリスがした戦争。 にはロシアがアフガン王国に対し軍事同盟の締結を要求したことに対し、イギリスはカーブルへの外交使節の常駐を要求した。 アフガン王国がそれを拒否したことを口実に、イギリス軍は再びインドから軍を進め、アフガニスタンに侵攻した。 1879年、アフガン王国は外交権をイギリスに渡しを受け入れた。 しかし、国王は屈服したものの、アフガン兵の抵抗は続き、反乱部隊によりイギリス使節団が殺される事態となり、イギリスはただちに報復のため軍隊を増派した。 ところが1880年7月のマイワンドの戦いではアフガン軍に敗れる結果となった。 これは 19世紀中のイギリス軍の唯一の敗北であり、本国でも内閣交代の事態となり、代わったグラッドストーン自由党内閣はアフガンからの撤退を命令、イギリスは再び不名誉な敗北となった。 デュランド・ライン アフガニスタンでの妥協を強いられたイギリスとロシアは、1893年、勢力圏分割交渉を行い、イギリスのインド総督デュランドの策定したスレイマン山脈を暫定的な軍事境界線とすることで合意した。 このデュランド・ラインは、現在のアフガニスタン・パキスタンの国境とされるがアフガン人()の居住地を分断することとなり、現地住民の状況を無視した一方的な国境策定は、現在まで禍根を残している。 英露協商 1904年の日露戦争でロシアが日本に敗れたことを機に、ロシアとイギリスの協議が進み、1907年にが成立した。 ロシアとイギリスは、イランでの勢力圏を分割するとともに、アフガニスタンについてはイギリスの勢力圏と認め、ロシア攻撃の拠点としないことで合意した。 第3次(1918~19年) その後、第一次世界大戦中にロシア革命が勃発してロシア帝国が崩壊したため、ロシアのアフガニスタンへの影響力は失われ、アフガニスタンをめぐるイギリスとロシアの対立は終わった。 その機会にアフガン王国は失われた外交権を回復するために、1918年、イギリス領インドに軍を侵攻させた。 こので、ラワルピンジー条約が締結されアフガニスタンの外交権は認められて独いると回復したが、イギリス領インドとの国境は、アフガン側のインダス川までという要求は容れられず、1893年のデュランド・ラインそのままとされた。 <渡辺光一『アフガニスタン-戦乱の現代史』岩波新書 2003 などによる> 第1次(1838~42)、第2次(1878~80)のでイギリスの保護国とされたが、1919年にイギリス軍と戦い、独立を承認させた戦争。 アフガン王国はイギリスが第一次世界大戦後で疲弊し、インドの独立運動で苦況にあることに乗じて、インドに侵攻し、1ヶ月にわたる戦闘の結果、講和を成立させた。 1919年8月にアフガニスタンの外交権回復をイギリスが認め、アフガニスタンが独立国であることが国際的にも認められた。 しかし、アフガン王国の悲願であったインド領内のパシュトゥーン人居住地域(インダス川西岸)の領有は認められず、第二次世界大戦後はパキスタンとの間で対立が起きる。 イギリスが戦闘では敗北したわけではないのにアフガンニスタンの独立を認めたのは、当時インド国内の独立運動が激化しており、財政的にも苦しくなっていたので、インド植民地の維持を優先させる必要があったからである。 Episode 第3次アフガン戦争の真相 引用 第一次世界大戦後が終了した翌年の1919年、・・・・民族主義者の国王(アマヌッラー)は就任まもない同年5月、インドを支配するイギリス軍に攻撃をしかけた。 彼はこの戦いをイギリスに対する「ジハード」つまり「聖戦」であると称し、その目的はアフガン-インドの国境線デュランド=ラインの設定によって失われたパシュトゥーン人の土地を取り返すことにあると宣言した。 そして当時のイギリス軍(その大部分はインド人の傭兵であった)は、世界大戦やインド国内の反乱勢力の鎮圧作戦などで疲れきっているとみなし、戦闘での勝算は十分あると考えたのであった。 ・・・・だが国王の情報収集には限界があった。 そのころのイギリス軍には、軍事用に開発された複葉機がすでに配備されており、アフガンの上空に轟音を立てて飛行する物体から放たれた攻撃に、驚天動地の状態となり、通常の交戦には至らなかった。 こうして三度目の戦争はわずか二ヶ月足らずのうちに終了した。 双方は現在のパキスタンの首都イスラマバードに隣接する古都ラワルピンディーで条約を交わした。 ・・・(イギリス政府は)アフガン政府への補助金を打ち切ることを決め、インドへの対応に集中することになった。 結果としてアフガンは、国境線をデュランド=ラインに最終決定する提案を呑まざるを得なかったが、独立を勝ち取ったのである。 <渡辺光一『アフガニスタン』2003 岩波新書 p. 72-74>.

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アフガニスタン

アフガニスタン 戦争

調査研究本部主任研究員 永田和男 2001年の同時テロ後から続くアフガニスタン戦争の終結を目指す米トランプ政権は昨年、反政府武装勢力タリバンとの和平協議に乗り出した。 だが、今年9月に交渉代表が「基本合意に達した」と明らかにした途端、トランプ大統領自身が「協議を打ち切る」と宣言した。 紛争と混乱に明け暮れた国を自立、安定させる道筋は見いだせないままであり、日本を含む国際社会が取り組んできた国家再建を中途半端に打ち切り、アフガンを再びテロの温床にするようなことがあってはならない。 幻の「キャンプデービッド合意」 アフガニスタンを巡っては19年9月、数々の注目される動きがあった。 米政府の和平担当特別代表としてタリバンとの和平協議に当たるザルメイ・ハリルザド氏は2日、アフガンのテレビ番組で、昨年10月からカタールの首都ドーハで9回の会合を積み重ねた末に基本合意に達したと語った。 ところがトランプ大統領は7日に自身のツイッターで、アフガニスタンからタリバンの指導者らとガニ大統領を翌8日に招き、ワシントン近郊の米大統領山荘キャンプデービッドで両者と個別に会談する極秘計画があったことを明らかにした。 そのうえで、「(アフガニスタンの首都)カブールで(5日に)テロ攻撃があり、米軍の偉大な兵士1人に加え11人の人々が殺害された。 私は直ちに(キャンプデービッドでの)会合を中止し、和平協議を打ち切った」と発表した。 キャンプデービッドは1978年9月に当時のカーター大統領の仲介でエジプトとイスラエルが画期的な和平合意に達した歴史の舞台だ。 今回の会合が実現していれば、タリバンとアフガン政府のトップを仲介して和平を誓わせるトランプ版「キャンプデービッド合意」を狙っていた可能性もある。 だが、この地はアフガン絡みでは、2001年9月11日の同時テロ後最初の週末にブッシュ(子)政権の高官たちが集結し、国際テロ組織アル・カーイダと当時のタリバン政権打倒を目指す軍事侵攻を話し合った因縁の場所でもある。 そこへ、今も敵対するタリバンの幹部を、しかも「9・11」が今年も巡ってくる時期に招こうとしていたことは極めて唐突で、政権の内外で物議を醸した。 10日には、かねて大統領との対立が目立ち、タリバンとの協議にも懐疑的だったジョン・ボルトン大統領補佐官(国家安全保障担当)の解任が発表された。 トランプ氏による協議打ち切り宣言にタリバン側は反発し、9月23日にノルウェーで行う予定だったアフガン政府との和平協議をやめると発表。 米軍、タリバンの双方とも相手への攻撃強化の方針を打ち出した。 タリバンは9月28日のアフガン大統領選挙妨害を早くから打ち出し、投票日には各地でテロが相次いで死者や負傷者も数多く出た。 治安の悪化を見て投票を見送った有権者も多く、選挙管理委員会によると投票率は14年の前回大統領選の54・9%を大きく下回る20%台にとどまる見通しだ。 和平協議は「死んだ」とまで語ったトランプ氏だが、昨年は北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長との初の首脳会談で、開催の直前にいったん「中止」を表明しながら結局会談を実現している。 今回もタリバンに強気の態度を見せることで妥協を迫りやすい状況を作り、交渉再開の機会を探るのではないか、という見方も出た(注1)。 10月初めにはハリルザド特別代表がパキスタンでタリバン代表団と会談したと報じられており、協議再開の可能性を話し合った模様だ。 タリバンを信用できるか トランプ氏は米兵が犠牲となった9月5日のテロでタリバンが犯行声明を出したことを協議打ち切りの理由に挙げた。 だが、報じられたタリバンとの「基本合意」の評判が良くなかったことも事実だ。 交渉担当のハリルザド特別代表の説明によれば、駐留米軍の規模は8600人とほぼトランプ政権発足時の水準まで縮小されるが、見返りとなるアル・カーイダとタリバンの絶縁がどのように担保されるのかは明確に示されなかった。 基本合意の内容が報じられるとただちに、ジョン・ネグロポンテ元国家情報長官ら01年以降に駐アフガン大使などを務めた9人の元米政府高官が連名で声明を発表し、タリバンの和平への取り組みが明らかでないのに拙速な米軍撤収を進めれば「全面的な内戦に逆戻りする可能性もある」と厳しく警告した(注2)。 9人の声明は、アフガニスタンが89年のソ連軍撤収後に武装勢力の割拠する内戦状態に陥る中からタリバンが台頭した歴史に触れて、「タリバンの支配下で苦杯をなめた記憶を持つ勢力は、死にものぐるいで戦うだろう」とも指摘。 武装勢力やテロ組織ににらみをきかせてきた米軍の撤収で力の真空が生まれれば、タリバンと敵対勢力の激しい衝突は避けられないだろうと警告した。 日本政府筋も「基本合意」の報道があった直後に「(米・タリバン間の)合意があるなら和平への一歩として歓迎したいが、それがタリバンとアフガン政府との対話に結びついて持続的な和平実現になるのか。 そもそもタリバン自体、一枚岩で停戦や和平協議に臨んでいるのか」との疑念を示し、タリバンが合意相手として信用できるのかは慎重に見極める必要があると指摘していた。 アフガニスタンで輸送ヘリに乗り込む米軍部隊(2019年1月15日撮影、ロイター) トランプ氏は大統領選で、米史上最長の戦争となっていたアフガニスタンからの撤収を主張した。 しかし、就任後の17年8月に発表したアフガン新戦略では、タリバンやイスラム過激派組織「イスラム国」によるテロの激化を受け、当時8400人規模まで縮小していた駐留米軍を増派する方針を示した。 その際、「米国民は勝利なき戦争に疲れ切っている」「私の直感では撤退だった」などと語って、増派が不本意なことをにじませていた。 増派後もタリバンの攻勢は収まらず治安が改善しないため、拒み続けてきたタリバンとの直接協議の要求を受け入れることで局面打開を探ることを余儀なくされた形だ。 タリバンとすれば、米国と直接交渉して駐留軍の撤退を勝ち取れば、アフガン政府や他の武装勢力に対しても強い立場を握ることができる。 アフガニスタンには、アル・カーイダ、「イスラム国」などのテロ組織のほかに、20前後の反政府武装勢力が活動しているが、かつてアフガンのほぼ全土を支配し、今またかなりの支配地域を奪取したタリバンが米軍の主要な敵であることは間違いない。 タリバンは01年の米軍侵攻後はパキスタンに逃れて態勢立て直しを図り、現在は4万~6万人の戦闘要員がいるとされる。 対テロ戦争専門の米ニュースサイト「ロングウォージャーナル」の推計では、今年10月初め現在アフガニスタン国内で南部や中部の農村地帯を中心に全人口の12%がタリバンの支配下に置かれ、41%がタリバンと中央政府の影響力が伯仲する地域に住んでいる(注3)。 米国が支援するアフガン政府の支配は、首都カブール以外では全土の半分ほどにしか及んでいないのが実情だ。 タリバンの「大義」 アフガニスタンで最大の民族パシュトゥン人の言葉(パシュトゥー語)で「神学生」を意味するタリバンは、79年に侵攻したソ連軍に抗戦するムジャヒディン(イスラム戦士)に加わったムハンマド・オマル師が94年に結成した武装集団だ。 89年のソ連軍撤退後しばらく持ちこたえていた共産主義政権が92年に崩壊した直後で、各民族の武装勢力による勢力争いで混迷が深まっていた時期だった。 タリバンはまず南部の主要都市カンダハルを制圧すると、アフガン国内やパキスタン北西部のマドラサ出身の学生らが加わって勢力を拡大していった。 内戦激化と軍閥の腐敗ぶりに疲弊した民衆が、聖典コーランと預言者ムハンマドの言葉を法源とするシャリア(イスラム法)の厳格な適用による統治を唱える神学生らの「世直し運動」としてタリバンを支持していった側面もあったとされる。 96年には首都カブールに進撃し、98年にアフガンのほぼ全土を支配下に置いたタリバンは、シャリアに基づく統治体制を敷き、女性の就業や教育を禁止し、映像や音楽、子どもたちのたこ揚げやサッカーまで禁ずるといった極端な施策を次々と打ち出した。 2001年3月には、「偶像崇拝禁止を徹底する」として世界遺産に登録されたバーミヤンの巨大仏像を爆破して国際社会の強い非難を浴びた。 タリバンは1997年、ソ連侵攻中にムジャヒディンに加わったサウジアラビア出身のウサマ・ビンラーディンらアル・カーイダのメンバーを保護下に置き、2001年の米同時テロ後も彼らの引き渡しを拒んだために米軍の攻撃で政権の座を失った。 ただ、タリバン自体が同時テロ実行に加担したことは確認されていない。 パキスタンに逃れた後、02年に武装活動を再開したタリバンは、05年ごろからはアフガン国内で自爆攻撃を含む爆弾テロを激化させ、米軍やその支援を受けるアフガン政府を主な標的にしてきた。 アフガン情勢に詳しい中東調査会の青木健太研究員は「タリバンが他の国際テロ組織と明確に違うのは、アフガニスタンの土地に強い執着があること。 独立し、イスラム的なアフガニスタンの樹立が彼らの目標だ」と話す。 テロは非難されても、外国勢力追放という「大義」を支持する住民はなお存在するという。 外国勢力の影響を嫌うタリバンは、シリアやイラクから進出してアフガン東部で一方的に「ホラサン州」領有を宣言した「イスラム国」とは敵対関係にある。 だが共にソ連と戦ったビンラーディンらのことは「客人」として遇し、ビンラーディンとオマル師が死亡した今でもアル・カーイダとの一定の協力関係が伝えられる(注4)。 王政から共産主義、テロの温床へ 戦争やテロ、イスラム原理主義による統治といった印象が強いアフガニスタンだが、1970年代前半までは安定した立憲君主国で治安も良く、国民は南アジアでも高い生活水準と自由な社会生活を 謳歌 おうか していた。 71年には、日本から皇太子(現在の上皇)ご夫妻も訪問している。 ご夫妻はこの訪問で感銘を受けたとされ、近年の天皇在位中にも皇居での茶会に招いた欧州のある国の大使の前任地がアフガニスタンだったと知ると、半世紀近く前の平和な同国の思い出をなつかしそうに話しておられたという。 だが73年の無血クーデターでザヒル・シャー国王が追放されて共和制になり、78年にはクーデターで共産主義政権が発足。 79年12月27日にはソ連の侵攻を招いた。 アフガン国民が「(余計な)クリスマスプレゼント」と呼ぶソ連侵攻の後、パキスタンとイランなどに1000万人とも言われる難民も流出したが、ソ連軍はムジャヒディンの抗戦でやがて撤退に追い込まれた。 ムジャヒディンの背後には、ソ連を疲弊させたい米国の武器援助やサウジアラビアの資金提供もあったとされる。 ムジャヒディンが肩に担いでソ連軍のヘリコプターを打ち落とした携帯式地対空ミサイル「スティンガー」が米国の武器援助の象徴だが、米国はソ連軍が撤退し、その2年後にソ連邦自体が崩壊する激動の中、アフガニスタンへの関心を急速に失っていった。 91年には、ブッシュ(父)大統領がアフガン内戦の情勢報告に訪れた中央情報局(CIA)幹部に「あれってまだ続いていたのかい?」と聞き返したという逸話が残されている(注5)。 その10年後、ブッシュ(子)政権になっていた米国はアル・カーイダによる9・11の同時テロを許し、3000人近い死者・行方不明者を出す惨事に見舞われて、アフガンがテロの温床となっていたことを思い知る。 だが米軍の侵攻でタリバン政権があっさり「崩壊」すると、ブッシュ政権の狙いは明らかにイラクのフセイン政権打倒へと移り、アフガンへの関心は再び薄れていった。 米国は一度ならずアフガンを「見捨てた」ことで高い代償を支払っている。 トランプ政権がその苦い教訓に学ばず、中途半端な形で幕引きをはかろうとすることがあってはならない。

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アフガニスタン紛争 (2001年

アフガニスタン 戦争

現在も続いている紛争の国、地域一覧 2019年12月時点で起こっている世界の紛争や地域をまとめました。 開始年 国 地域 累計死亡者数 対立要因 アフガニスタン紛争 1978年 アフガニスタン カーブルより北部 約200万人 アメリカと ターリバーン勢力 シリア内戦 2011年 シリア シリア全土 約50万人 シリア政府軍とシリア反体制派 イラク内戦 2003年 イラク イラク全土 約30万人 アメリカとイラク クルド対トルコ紛争 1984年 トルコ イラク シリア クルド人居住地域など 約5万人 トルコ政府とクルド人 リビア内戦 2011年 リビア トリポリなど 約2万人 トリポリ政府とトブルク政府 イエメン内戦 2015年 イエメン サウジアラビア リヤド他 約2万人 ハーディー大統領とフーシ派とアルカイーダ (出典:「アフガニスタンの現状と問題」) (出典:「シリア・アラブ共和国 基礎データ」,2018) (出典:「IDEスクエア 世界を見る目」,2019) (出典:「地球儀を俯瞰する外交-中東と北アフリカ-」,2019) (出典:「日本と国連-日本の外交政策と国連の重要性」,2019) 紛争が長引いている国、危険な国や地域とは 世界で紛争が激しく行われ危険な国や地域、その原因を紹介します。 アフガニスタン紛争 アフガニスタンでは断続的に紛争が発生していますが、一番初めは1978年に成立した、アフガニスタン人民民主党政権に対する、 ムジャヒディーンの蜂起に、ソビエト連邦が軍事介入したことから始まりました。 その後10年かけて完全撤収にいたるまで、ソ連側は1万4,000人以上、アフガニスタン側は3万人近くの戦死者を出してしまう結果となりました。 直近の争いは、2001年9月11日、アメリカン航空11便をはじめとする4機の航空機がハイジャックされ、世界貿易センタービル、ペンタゴンなどに突っ込む大事件から始まります。 2001年からのアフガニスタン戦争はこの 「9. 11事件」と呼ばれるアメリカ同時多発テロが原因です。 すぐに事件の捜査がされ、オサマ・ビン=ラディンをリーダーとするテロ組織「アルカイーダ」が関与していたことがわかりました。 当時のアメリカのブッシュ大統領は、首謀者のビン=ラディンを引き渡すように要求しましたが、タリバン政権は応じませんでした。 そこでアメリカが開戦に踏み切ったのです。 2009年に発足したオバマ政権は、アフガニスタンからの完全な撤退を決めましたが、今もなお犠牲者は出続けています。 (出典:「アフガニスタンの現状と問題」) (出典:「アフガニスタン・イスラム共和国基礎データ」) (出典:「アフガニスタン紛争のダイナミズム」,2018) シリア内戦 シリア内戦に関しては、様々な勢力が絡み原因や状況が複雑なため簡単に説明します。 まず、2010年から「 アラブの春」と呼ばれるアラブ世界において発生した大規模な反政府デモが起きます。 その反政府勢力の影響がシリアにまで及び、抑えようとした政府軍との間で争いが生まれます。 その後、イスラム国がシリア政府軍を倒すために加勢しさらにそれぞれに支援国が付いたりして、複雑化するのです。 シリア内戦は、大きく分けて シリア政府軍(アサド政権)、反政府軍、イスラム国という3つの勢力が争っています。 2011年3月に起きた騒動から、8年以上たった今も終わらず、恐怖に怯えた人々がいるのです。 (出典:「「アラブの春」と中東・北アフリカ情勢」) クルド対トルコ紛争 主にトルコ国内で見られる、トルコ政府とクルド人による争いが今もなお続いています。 背景は第一次大戦の後、1920年代まで遡ります。 クルド人にとって納得できない形で条約が結ばれてしまい、争いが始まります。 1974年にはクルディスタン労働党という、クルド人の独立を目指す組織が発足。 2004年にはトルコ軍がクルディスタン労働党へ攻勢をかけたため、武力紛争が起きます。 さらに2011年にはクルディスタン労働党の不満が高まり争いは激化。 指導者が介入し、武力闘争の終了を宣言するも休戦が覆るなど、泥沼化しています。 彼らの争いは、いつ繰り返されるかわからないため、周囲の人々は常に注意が必要です。 (出典:「トルコ共和国(Republic of Turkey)基礎データ」,2019), (出典:「IDEスクエア 世界を見る目」,2019) リビア内戦 リビア内戦は、 2011年に起こった大規模な反政府勢力のデモが発端です。 この争いにより、40年以上最高権力者として政権を握っていたカダフィ大佐が命を落とします。 その後、親カダフィ勢力と、イスラム国が台頭し内戦が今もなお続いているのです。 2014年には、さらにイスラム過激派の勢力が強大化し、同年7月には、 空港周辺でロケット砲を打ち合う大規模な戦いが起きました。 その結果、100人前後が死亡し、400人以上が負傷してしまう事態が発生しました。 直近では2019年の4月にリビア国民軍が、トリポリへの進軍を宣言しました。 さらに政府側の拠点を空爆します。 そのため、トリポリからは8,000人以上の市民が戦乱を避けるために避難を続けている状態です。 (出典:「地球儀を俯瞰する外交-中東と北アフリカ-」,2019) イエメン内戦 2015年から開戦したイエメン内戦は、当時起こっていた アラブの春と呼ばれる大規模な反政府運動に端を発します。 また、一般的にイエメン内戦は イランとサウジアラビアの「代理戦争」と呼ばれています。 イランの後押しを受けるイスラム教シーア派の武装組織「フーシ」と、イスラム教スンニ派が主導するサウジアラビアが中心の、「アラブ連合軍」が支えるイエメンの暫定政権の部隊が対立しているのです。 彼らの争いは 多くの一般市民を巻き込み、死傷する市民が増えています。 多くのテロ組織や過激派が拠点をおくイエメンでは、無政府状態の地域が広がり、戦闘員が野放しとなっており、大変危険な状態となっています。 (出典:「日本と国連-日本の外交政策と国連の重要性」,2019) 2019年現在行われている世界の主な内戦・紛争は以下の通り• アフガニスタン紛争• シリア内戦• クルド対トルコ紛争• リビア内戦• イエメン内戦 紛争地域で苦しむ人々に私たちができる支援 ここまで紹介してきた紛争地帯では、殺傷だけではなく様々な問題が起こっています。 食糧問題や、病気や感染症の問、衛生問題などがあります。 それぞれ私たちが国際機関やNPO・NGOを通じてどんな支援ができるのか紹介します。 食糧問題 生きていくうえで何より必須なのは水と食事ではないでしょうか。 食料に関する支援は、緊急度により異なります。 例えば生死をさ迷うレベルで栄養が足りていない人々には 栄養補助食を支給し、困窮してしまっている世帯には 穀物や塩などの現物を提供します。 また学校の運営が困難に陥りそうなところには学校給食を届けたりもしています。 紛争地帯に関わらず、気候などの影響で、ほとんど食料が取れない地域では食料の値段なども高騰し、一般市民が満足にご飯を食べることは難しくなります。 そのため、食料を継続的に支援するのは非常に大切な活動です。 病気や感染症の問題 紛争が起きている場所では、 栄養や衛生面などが要因で病気や感染症が蔓延してしまいます。 コレラ、ジフテリア、はしかなど、命に関わる病気も多いため患者への処置と 予防接種やワクチンの支給などが急務です。 また、イエメンの紛争地帯では、2015年時点で急性呼吸器性疾患にかかる危険が高い子どもは約130万人いました。 ほとんどの病院や保健センターは機能せず治療ができない状況です。 私たちの支援を通じて、 診療と治療、病気の予防接種、心理・社会面でのサポートなどができます。 (出典:「イエメン紛争」,2015) 衛生問題 病気や感染症を減らすためには、衛生面を整えることも大事です。 私たちの支援を通じて、安全に飲める・生活に利用できる水の提供や以下のような支援が行えます。 避難先の衛生用品を購入するための引換券や少額の現金の支給• 難民キャンプでのトイレやシャワー、洗濯場などの設置• 病気の流行を防ぐための衛生指導• 飲料水用のフィルターの提供 特に水回りが清潔でないと、蚊を媒介とした感染症も発症しやすくなります。 水や衛生環境は命に関わる重要な問題なため、積極的に支援を届ける必要があります。 寄付・募金は少額から可能 今もなお苦しんでいる人々のために直接現地に行って助けることは、危険を伴うためなかなか実現しづらいのが現状です。 しかし、インターネットが発達している現代では、私たちも 気軽に寄付や募金により支援することが可能です。 しかも 少額から定額寄付をすることができ、初めに設定してしまえば継続的に支援できるシステムも整っています。 また、自分の好きなタイミングで任意の金額を寄付できるため、 無理なく支援できる方法もあります。 世界のどこかで紛争による被害で苦しむ人のために、まずは少しだけ行動してみてはいかがでしょうか。

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