ノルウェイ の 森 歌詞。 NORWEGIAN WOOD(THIS BIRD HAS FLOWN) THE BEATLES 歌詞情報

ビートルズの曲 ノルウェイの森 の 日本語に訳した歌詞を探してい...

ノルウェイ の 森 歌詞

ちょうどこの時Yumingのアルバム「Delight Slight Light Kiss」が大流行し、両者がセットになって流行していたように思う。 僕はこのアルバムの中に収められている「リフレインが叫んでいる」がこの小説のテーマ曲として頭の中に焼き付いているのである。 自分は小説と音楽を結びつけることはあまりしないのだが、この小説は何故か例外である。 この作品は以前に紹介した短編小説 「螢」(作品番号6、作品解釈は)をほぼ完全な形で含み、その主題が発展的に取り扱われている。 「螢」の中では解釈ができなかったいくつかの謎が『ノルウェイの森』の中では明らかにされており、「螢」と対比させた形での作品解釈をすると興味深い。 作品の構成と特徴 1.作品全体について 物語は語り手「僕」がハンブルグ空港に着陸する直前の飛行機の中でビートルズの「ノルウェイの森」を耳にするところから始まる。 その曲が「僕」を一気に18年前の回想へトリップさせる。 その当時は理解することのできなかった直子の姿を頭の中に描き出し、もう取り返しのつかない18年前の出来事について読者を導いていく。 つまりこの物語は失われた恋人「直子」を現在の「僕」が回想の中に探しに出かける形を取っている。 このような構造を可能としているのは、語り手「僕」が現在の視点から回想を眺めているからである。 この作品は短編「螢」の内容をほぼ完全な形で含んでおり、「螢」の中では解釈できなかったいくつかの謎が『ノルウェイの森』では解釈可能となっている。 しかし『ノルウェイの森』では物語の構造が異なっているため「螢」に該当する部分の解釈が異なってくるので注意を要する(この点については作品解釈のところで言及する)。 2.登場人物 「螢」では僕と彼女、それから彼女の恋人の3人で物語が展開したが、『ノルウェイの森』では「螢」に比べてかなりたくさんの人物が登場する(永沢さん、ハツミさん、緑、レイコさん)。 これら登場人物は過去の回想部分を展開する上でそれぞれ重要な役割を果たしているが、実は 直子と「僕」の関係に本質的に関わってくるのは緑だけである。 緑は不幸な身の上を持った女性であるにも関わらず生へのエネルギーが非常に大きく、直子と対照的であり、この生へのエネルギーが結局は「僕」を救うのである。 緑の登場が「螢」とは大きく異なる点であり、物語の展開に非常に大きな働きをしていると考えられる。 また、ハツミさんの存在とその死については「死」の取り扱いを考える上で重要である。 直子のルームメートであるレイコさんは「僕」と直子をつなぐ存在として位置づけられ、特に直子の状態を的確に把握する上で不可欠の重要なキャラクターである。 物語を読むとレイコさんは直子が持つ「死」の要素の影響は受けていないように見えるが、これは何故なのだろうか。 直子と「僕」をつなぐ役割だけを担っていると解釈することもできるが、レイコさんは直子と同じ世界に住んでいるためであると考えることもできる。 3.登場人物間の人間関係 作品中の登場人物間は「僕」を中心にして展開しており、登場人物間のやりとりは少ない(登場人物間の関係図参照)。 特に重要な位置を占めていると思われる直子と緑の間に直接的な交渉はなく、あくまで「僕」を通しての対比である。 また後日自殺してしまうハツミさんと直子の間にも直接的な交渉はなく、直子はハツミさんの優しさに触れることもできなかった。 つまり人間関係はあくまで「僕」を中心としたもので、 登場人物間をつなぐ糸は存在しない。 登場人物間をつなぐ糸が存在しないということは回想があくまで「僕」の中で閉じていることを意味する。 登場人物の中でキズキ、ハツミさんは死に、突撃隊は突然退寮し、永沢さんはドイツへ去る。 それらは淡々として語られ、人の出会いや別れに伴うvividな感情の動きはない(ただしハツミさんについては別の回想の中で記述がある。 下巻P. 116)。 これは回想の中で「僕」(=18歳の時の自分)が人間的な生き生きとした感情を喪失していたためであるとも解釈できるが、感情を喪失していたのは「僕」だけではない。 登場人物の誰もが多かれ少なかれ感情を喪失していたのであり、この物語が醸し出す人間関係のドライさはここから来るものと考えられる。 4.「死」と「性」をめぐって 「螢」の時と同様、この作品には「死」が身近に存在している。 直子の「死」の意識は「螢」に描かれているものとほぼ同様であるが『ノルウェイの森』では直子が自殺するところまで描かれる。 ところで、 直子の他にハツミさんの存在と死についても注目すべきである。 永沢さんの態度がどうであれ、ハツミさんは永沢さんのことを好きだと明言する(下巻、P. 124)。 彼女は永沢さんが本気で変わると思っていたのであろうか。 それは物語の中では語られず、彼女は「人生のある段階が来ると、ふと思いついたみたいに自らの生命を絶った」のである。 ここでハツミさんの心境について考察する必要は必ずしもないが、「僕」がハツミさんを特別な女性と(その当時は直感的に)認めていたにも関わらず救済できなかったこと、「そしてそれは僕の多くの知り合いがそうしたように」とあるように、「僕」が自分の周りに死が徘徊していると(恐らく無意識に)考えた点に注意を払う必要がある。 ここから 「僕」もまた「死」に取り囲まれている存在であり、その考えや行動が「死」に侵食される危険性が覗いている。 キズキの死、ハツミさんの死は直子の死と共にこの物語全体のバックボーンを構成していると考えられるが、 『ノルウェイの森』では緑の存在が「僕」を「死」の危険性から救い出すべく拮抗していると考えられる。 それからこの物語では性の描写が露骨である。 登場人物すべてが性交渉について罪悪感のようなものは持ち合わせていないかのように思える。 しかし性的な接触が満足を与えているかというとそれは全く逆で、かえって喪失感のような寂しい雰囲気が漂う。 だからこの物語では生の喜びとしての愛や性的な交渉という解釈は成立しない。 その理由はこの物語の基調が「死」をバックボーンとしているからであると考える。 性の描写が露骨なのは作者のテクニックなのかもしれないが、 この作品を性描写が露骨な道徳倫理に反するイヤラシイ話としてしまうと物語の主題を捕えることができないので注意が必要である。 作品の解釈 <登場人物人間関係> <主題分析の分析> ハンブルグ空港に着陸直前の「僕」がビートルズの「ノルウェイの森」を聴いたことで直子の思い出がよみがえり、18年前へと記憶が遡る。 この物語は過去の回想という形を取っており、それは死んでしまった直子を探しに出る旅であると解釈される(注)。 この物語の面白いところは回想の中の直子と現在の「僕」が理解している直子の2つの人物が描かれていることで、この2つの像が統合されて初めて直子という人物を立体的に理解することができるようになっている点である。 「直子に関する記憶が僕の中で薄らいでいけば行くほど、僕はより深く彼女を理解することができるようになったと思う」とあるように(上巻、P. 18)、現在の「僕」は18年前の直子も、そのときに理解できなかった直子の隠された一面(第一章で語られている回想部分に含まれる)も見渡すことができるが、18年前の「僕」は直子の一面しか理解することができなかったことになっている。 これがこの物語全体を支えている構造であり、ここに直子を含む様々な人物の「死」がバックボーンとして組み込まれることで作品の各プロットを支えている。 (注) 村上春樹の小説はほとんどが、実は死んだり消えたりしたかっての恋人を探しに旅出る物語であるとの指摘は既に田中実氏によりなされている。 田中実『読みのアナーキーを超えて』、右文書院 1997 物語が回想の形で語られる性質上、18年前の登場人物のその後の様子が所々挿入の形で描かれている。 それはハツミさんの死について最も効果的に使われていると思われる。 「僕の多くの知り合いがそうしたように」ハツミさんは「人生のある段階が来るとふと思いついたみたいに自らの命を絶った」のである。 僕の多くの知り合いとは、もちろんキズキと直子も含まれるであろう。 自殺の理由はそれこそもっともらしい説明をたくさん付けることは可能であろうが、作者は理屈でそれを説明することは敢えて避けているようなふしが認められる。 登場人物が死ぬ、そしてそれが「僕」に少なからぬ影響を与える(親しい間柄の人間が死んだのだから当たり前だが)というモチーフを用いることで 読者は「死」を「生」の対局として置くのではなくて「生」の一部として捕えるように強要される(これは「螢」で表されているモチーフと同一)。 直子の側から見た場合、自分の中に存在する「死」の要素に身を滅ぼされていく物語であるが、「僕」の側から見ると、「僕」が死に捕らわれ、そしてその捕らわれから救済される物語なのである。 「螢」ではよくわからなかった死の理由をこの作品から説明することが可能である。 キズキの死については「螢」では全く説明不可能であったが、この作品では少なくとも直子との恋愛関係で悩んでいたのがその原因の一部である可能性がある(直子との性交渉がうまくいかなかった旨の記述があるため)。 ただし性交渉がうまく行かなかった原因は直子の側にあるが、その理由は明確には語られていない。 ここで直子において肉体的な愛と精神的な愛が乖離してしまっていると単純には片づけられない。 なぜなら「僕」との性交渉は(1回だけだが)成功しているが、それにより直子が幸福になることはなかったからである。 私は直子の中に死に向かって一直線に走る「何か」が存在し、それが直子の意識を捕えていたのだと解釈したい。 つまり、その「何か」がキズキを失望させ、僕との恋愛関係を失敗させ、直子自身を混乱させて死へ追いやったのである。 ここで その「何か」は精神病の素質なのであろうが、この一言で片づけてしまうのをこの作品は許していない。 なるほど直子は施設に入り治療を受けている。 しかしそこに至るまでの過程と治療中について作者は多くのページを割き、直子の気持ちの混乱を詳細に描いている点に注意を払うべきである。 僕 や レイコさんとのやりとりをしながら、 浮き沈みをしながら直子がゆっくりと不可逆的に自殺に向かって進んで行くところがこの物語の中心であり、かつ直子を救いのないものにしている。 そして救いのない点は僕の側でも同じであった。 それは上で述べたように18年前の「僕」は直子の重要な一面にアクセスできなかったばかりでなく、現在の「僕」はそれを見ることができると共に直子が自分のことを愛していなかったと悟るのである。 ここで「現在の僕」は哀しさと同時に深い悔恨を覚えたに違いない。 「螢」では僕の友人の死が彼女に精神的な打撃を与えたと解釈した。 しかしキズキの自殺の原因の一端が直子にあったとすれば『ノルウェイの森』では解釈が変わってくる。 キズキの死の一端が直子の態度にあったとすると直子は深い罪の意識に悩んでいたに違いない。 それは直子を捕えていた「何か」の働きを強化し、結局は彼女をクライシスに追いやっていった。 「螢」では「死」を意識させたのは僕の友人の自殺であり、「彼女」はいわばその犠牲者的な意味合いであった。 しかし『ノルウェイの森』では直子の存在そのものが「死」と直結しており、直子に救いはない。 ところで、直子が「死」に直結した存在であるのと対照的に、緑は生のエネルギーをまき散らす存在である。 緑の家庭は決して幸福ではない(母死亡、父も入院中で後日死亡)がその生活は生に満ちている。 ブラジャーを買うお金を貯めて料理器具を買ったり、火事場を見学しながらビールを飲んだりとおよそ直子とはまるで違うキャラクターである。 「僕」は緑から付き合ってくれと言われるが直子のことがあり態度を保留しているが、緑と直子の間に直接な交渉はない。 この作品構造に私は初めは不満であったが(緑と直子の間に直接の交渉があったほうが作品全体に膨らみが出て面白くなると考えた)、直子ー僕ー緑の関係はそれぞれの女の子から僕自身がどのようなアプローチを受けたがが重要なのだと解釈した(実はこれは僕とハツミさんの関係についても言える)。 ここから考えられるのは、 僕が緑と関係を持つことで直子の持つ「死」の要素に巻き込まれなかったと解釈できるのではなかろうか。 つまり 僕が直子と接触を保ちながら生き延びるためには緑という存在が必要不可欠であったのだと考えられるのである。 直子が自殺した後で「僕」は緑に電話をかけ「どこでもない場所の真ん中から緑を呼び続けていた」のである。 これは直子が自殺したことで僕を襲ったクライシスから逃れるために緑に連絡を取っているのであるが、ここで物語は終わっている。 「僕」は緑に救われたのである。 もっとも大きな変更が直子の精神病に関する点で、「螢」では友人の死が打撃になり引き金になったと考察したが『ノルウェイの森』では初めに直子の要素がキズキに死の少なくとも一因であると考察し、 直子自身が有する「死」の要素(=遅かれ早かれいずれ出てくる、不可逆的に自分自身を破滅させる要素のこと)を中心に物語が展開すると考えた。 この「死」の要素が直子自身を消滅させ、キズキを失望させて自殺させたのである。 そして直子と対局にある女の子「緑」により「僕」は直子を捕えていた「死」から逃れられたと解釈した。 直子がもはや回復の望みがない入院をしたことは「螢」でも暗示されているが、その原因をどこに求めるのかが「螢」と『ノルウェイの森』ではこのように食い違いが出てきたのは面白い。 『ノルウェイの森』では直子のプロットがより鮮明に描かれており、ある意味では解釈は容易であった。 この物語の18年前の回想部分の中心は直子が自殺するまでの不可逆的な混乱を描き、直子は結局外部からの何人の手によっても救済されなかったことである。 そしてハンブルグ空港に到着する直前の「僕」の回想部分の中心は、18年前の直子と現在の直子(=「僕」の記憶の中で薄れていくが故によりいっそう深く理解できるようになった直子)を比較することで彼女が僕を愛してすらいなかったこと、そしてそれはもう取り返しのつかないことに気が付くことであろう。 「螢」と比べ、「僕」の哀しさはより一層大きい。 田中実氏が指摘しているように、村上文学の多くは死んだり消えたりしたかっての恋人や女を探しに出かける旅であると考えるのは面白い。 この視点に沿って村上小説のいくつかを解釈してみるとなかなか面白いと思う。 『ノルウェイの森』の初めの部分に、直子が井戸について言及する場面がある。 その井戸は『ねじまき鳥クロニクル』に登場するし、河合隼雄と村上春樹の対談集(紹介文は)にも登場し、何らかの共通したイメージを示していると思われる。 今後は作品をまたいで共通しているアイテムに着目した解釈を試みるのも面白いかもしれない。 『ノルウェイの森』の2年前に書かれた長編小説、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』では、語り手は現実世界パートの「私」と世界の終わりパートの「僕」に分裂して描かれる。 この、「僕」の意志が発動されるくだりは「僕」の再生をイメージし、『ノルウェイの森』におけるラスト・シーンと同様、クライシスからの脱出だと解釈できる。 お知らせ 『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』の作品解釈完成のご案内 本web siteのコンテンツに『ノルウェイの森』の2年前に書かれた長編小説、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の作品解釈もあります。 よろしければご覧下さい。 をクリック! トップページへ.

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「ノルウェイの森」という訳語が誤訳だった件について

ノルウェイ の 森 歌詞

「ノルウェイの森」という言葉が意味するものと、その結末 燃え殻『ボクたちはみんな大人になれなかった』は、村上春樹『ノルウェイの森』と通底する部分が多く、その系譜の小説として読める。 しかし、結末において両作のベクトルは真逆に触れる。 (ここから先の部分は、『ノルウェイの森』と『ボクたちはみんな大人になれなかった』両方の作品に関するネタバレを含みます。 後者は少しぼかしますが、前者では盛大にネタバレします。 しかしどちらの作品も、ネタバレしたところでほとんどダメージを受けることのないほど優れた小説です) 『ノルウェイの森』ではラストシーンで、長い旅から帰って来た主人公の「僕(ワタナベ)」が、この世界で生きていくために、電話ボックスから緑(ミドリ)に電話をかける。 そして「君とどうしても話がしたいんだ。 話すことがいっぱいある。 話さなくちゃいけないことがいっぱいある。 世界中に君以外に求めるものは何もない。 君と会って話したい。 何もかもを君と二人で最初から始めたい」と伝える。 緑はしばらく黙ったあと、「あなた、今どこにいるの?」と聞く。 その後に続く部分を引用する。 僕は今どこにいるのだ? 僕は受話器を持ったまま顔を上げ、電話ボックスのまわりをぐるりと見まわしてみた。 僕は今どこにいるのだ? でもそこがどこなのか僕にはわからなかった。 見当もつかなかった。 いったい、ここはどこなんだ? 僕の目にうつるのはいずこへともなく歩きすぎていく無数の人々の姿だけだった。 僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた。 (村上春樹『ノルウェイの森(下)』p293、講談社文庫) これが『ノルウェイの森』の結末なのだが、読んですっきりしない人もいるかもしれない。 えっ、これで終わり? 「僕は今どこにいるのだ?」って、いったいどういうこと? 何を意味しているの? 実はこの結末は、「僕」が「どこでもない場所=ノルウェイの森」から抜け出せなくなってしまったことを意味している。 知っている人も多いかもしれないが、『ノルウェイの森』というタイトルは、ビートルズの楽曲『ノルウェーの森』から来ている。 この曲については様々な解釈があるので、これから書くことはそうした多くの解釈のうちのひとつとして読んでもらいたいのだが、この曲、まず原題を『Norwegian Wood This Bird Has Flown 』という。 これを「ノルウェーの森」と訳したわけだ。 (映画『ノルウェイの森』予告。 ここで流れているのがビートルズ『ノルウェーの森』) しかし、これが誤訳だったという話がある。 「ノルウェーの森」ではなく、「ノルウェー産の材木(もしくはそれによってできた家具)」のことだと。 確かに、歌詞を見てみると、この部分を「ノルウェーの森」と訳してしまうと意味がわからなくなる。 該当部分の歌詞をざっくりと説明(やや乱暴だが)するとこうなる。 「かつて、親しくなった女の子がいた。 彼女は部屋を見せてくれた。 ノルウェーの木材でできた素敵な部屋だった(もしくは、ノルウェイ製の素敵な家具があった)」(筆者訳) 小説『ノルウェイの森』は、この歌詞と誤訳のエピソードをうまく取り入れた。 「ノルウェイの森」とは、この世に存在しない架空の森、あるいは形而上的な(目には見えない精神的・理念的な)森のことなのだ。 物語冒頭で、ルフトハンザ機に乗った37歳の「僕」は、ビートルズの『ノルウェイの森』を耳にすると、「いつものように」混乱し、「激しく動揺」する。 そうして18年前の出来事を回想する形で小説が始まる。 物語の終わりでは、「今僕はどこにいるんだ?」と思いながら「どこでもない場所」で女の名前を呼び続ける。 37歳の「僕」は、なぜ18年前の出来事を思い出して「いつものように」混乱し「激しく動揺」するのか? それがこの小説のテーマだ。 一言で言ってしまうとチープに聞こえるが、筆者の考えでは、「失ってしまったものは二度と戻らない。 そして人生には、一度迷い込んでしまうと二度と戻ってくることはできない森のようなものがある」ということだ。 小説『ノルウェイの森』においては、18年前で主人公の時間は止まってしまった。 傷は、癒されることがない。 それでもなお「僕」はその後の人生を生き続けなければならない。 決定的に重要な何かを失い、喪失をある程度受け入れつつ、忘れられない/忘れてはいけないものを抱え、「ノルウェイの森」の中でさまよいながら。 『ノルウェイの森』から遠くはなれて 対して、燃え殻『ボクたちはみんな大人になれなかった』は、これとは真逆の着地を迎える。 『ノルウェイの森』が人生のある時期に迷い込んだ森から永遠に戻って来られない男の話であるのに対して、燃え殻『ボクたちはみんな大人になれなかった』は、言ってみれば、ノルウェイの森から卒業するような話なのだ。 小説冒頭、不可抗力でかつての恋人へ友達リクエストを送信してしまった「ボク」。 彼もまた、ノルウェイの森に迷い込んでしまった人間である。 「今でも時おり彼女のことを思い出すことがあった(p12)」と、まるでたまに思い出す昔の女みたいに控えめなトーンではじめは書かれるが、「ボク」にとって「彼女」がどれほど大きな存在だったかは、この小説を読めば明らかだ。 そもそもタイトルからしてそう。 「大人になれなかった」という。 大人になれなかったのは、ある時から「ボク」の人生も部分的に時間が止まってしまったからだ。 ある時とは、1999年の夏。 この時「彼女」がいなくなってしまってから。 語り手の現在の自制はほぼ現実の今と同じだから、『ノルウェイの森』の「僕」が18年前の出来事を思い出すのとほぼ同じく、17年前のことを思い出していることになる(こうした偶然の一致も、『ノルウェイの森』と『ボクたちはみんな大人になれなかった』を並べて語りたくさせる要因なのかもしれない)。 しかし、『ノルウェイの森』の主人公が18年間(そしてこの先もずっと)前に進むことができなかったのに対して、『ボクたちはみんな大人になれなかった』は、ラスト数行できっちりと過去に別れを告げる。 少なくとも、主人公は過去に別れを告げようとする。 もっともシンプルでもっとも美しい五文字と四文字の言葉を発して、まっすぐ前を向く。 20年近い年月を経て本当の「チェックアウト」の時間を告げる電話が鳴り(電話が鳴るラストも『ノルウェイの森』とシンクロしている)、「ボク」はついに自分の手で人生を前に進める。 30年前に書かれた『ノルウェイの森』の「僕」は、すべてにおいて受け身だった。 何もかもが向こうからやって来て、「僕」はその流れに逆らうことができなかった。 村上春樹風に言えば、それは好むと好まざるにかかわらず、そういう種類のものなのだ。 やれやれ。 しかし、『ボクたちはみんな大人になれなかった』の「ボク」は、「僕(ワタナベ)」あるいは村上春樹の主人公たちがどうしても踏み出せなかった一歩を最後に踏んで、物語を終える。 その着地点は『ノルウェイの森』のはるか遠くにある。 よく、村上春樹の作風の変化を説明する際に「デタッチメントからコミットメントへ」という言葉が使われるが、『ノルウェイの森』がデタッチメント恋愛小説だとするならば、『ボクたちはみんな大人になれなかった』は、コミットメント恋愛小説だと言うことができるかもしれない。 こうして「100パーセントの恋愛小説」は30年の時を経て、その最良の部分をいくつか継承しつつ、『ボクたちはみんな大人になれなかった』へと更新される。

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小説家・燃え殻と村上春樹『ノルウェイの森』継承され更新される愛の物語

ノルウェイ の 森 歌詞

あの独特の文体が嫌いで、どうしても読む気にならなかったのだが、英語で読んでみるとそんなことは気にならず、楽しく読むことができた。 非常に面白かった。 村上作品に初めてチャレンジして挫折したのが学生のころだったから、30年にわたって食わず嫌いならぬ読まず嫌いの状態だったわけだ。 この小説のタイトルである「ノルウェイの森」というのは、ビートルズの「 Norwegian Wood」という曲の日本語訳をそのまま使ったものらしい。 それを知ったときに、「 "Norwegian Wood"なら、"ノルウェイの森"ではなく"ノルウェイの木"という意味なんじゃないの? "Woods"と複数形になっていれば"森"と訳してもいいけど」と思った。 どうしてこういう訳語になっているのか不思議に思ったので、調べてみることにした。 後になってわかったのだが、「 wood」という単数形でも「森」という意味になるらしい。 知らなかった。 木がいっぱいあるのが森だから、「 woods」と複数形にしなければならないものと思い込んでいた。 ただ、その思い込みが今回の誤訳の発見につながったわけだから、まあよしとしておこう。 それはともかく、元の歌詞は以下のようになっている。 I once had a girl, or should I say, she once had me... She showed me her room, isn't it good, norwegian wood? She asked me to stay and she told me to sit anywhere, So I looked around and I noticed there wasn't a chair. I sat on a rug, biding my time, drinking her wine We talked until two and then she said, "It's time for bed" She told me she worked in the morning and started to laugh. I told her I didn't and crawled off to sleep in the bath And when I awoke, I was alone, this bird had flown So I lit a fire, isn't it good, norwegian wood. 歌詞の内容を簡単にまとめると、やる気満々で女子の部屋に遊びに行った男子が肩透かしをくらい、ガカーリしながら風呂場で寝て、ガカーリしたまま朝起きるというものだ。 まあ、女子の部屋に入って酒まで飲みながら、「明日は仕事で早いから」なんて言われたのでは、ガカーリするのも無理はない。 しかし、この歌詞を読んで、なぜ「ノルウェイの森」になるのかがますますわからなくなった。 「She showed me her room, isn't it good, norwegian wood? 」のところは、部屋に男子を招き入れた女子が、自分の部屋について「どう、素敵でしょ?」と自慢しているわけだ。 これが「ノルウェイの森」を自慢しているとなると、部屋の窓から見える森を自慢しているのだろうか。 そうなると、この女子の家は森の中の一軒家ということになる。 わざわざ「ノルウェイの」と言っているくらいだから、相手の男子はノルウェイ人ではないのだろう。 ビートルズの歌だから、イギリス人と考えるのが妥当だ。 ということは、ノルウェイ人の女子がノルウェイで知り合ったイギリス人の男子を部屋に招き入れたことになる。 なんだかややこしい感じになってきた。 そんなややこしさは、この歌詞からは微塵も感じられないのだが。 これだけでも、「ノルウェイの森」というのは誤訳だということがわかる。 では、 「norwegian wood」とは何を指しているのだろうか。 最初に頭に浮かんだのは、観葉植物みたいなものだ。 観葉植物とはいっても、鉢植えのかわいらしいヤツではなくて、クリスマスツリーみたいな大きなものだ。 部屋に入ってすぐに、「 isn't it good? 」と自慢するくらいだから、かなり目立つものなのだろう。 しかし、クリスマスツリーだったら、「 norwegian wood」ではなくて「 norwegian tree」になるはずだ。 「 wood」というのは材質を表す言葉で、樹木自体を表す言葉ではない。 ということは、ノルウェイ産の木材を使った家具のことを指しているのだろうか。 「この家具はマホガニー製なのよ」と自慢するのと同じように、「これはノルウェイ産の木材を使用しているのよ」みたいな感じだろうか。 ここまではいいとして、最後の行がよくわからない。 「 So I lit a fire」というのは、何に火をつけたのだろう。 最初に浮かんだのは、タバコに火をつけたのかなということだ。 落胆した気持ちでタバコをふかしながら「 norwegian wood」を眺めているという構図だ。 しかし、それならば「 lit a cigarett」になるはずで、「 lit a fire」とはならない。 これは、やっぱりタバコではなくて別の何かに火をつけたと考えるべきだろう。 部屋の中で火をつけるといったら、コンロの火だろうか。 コーヒーでも飲もうと思ってガスコンロの火をつけたのだろうか。 しかし、これもイマイチピンとこない。 あと火をつけるものといったら何があるだろう。 この歌の舞台はきっとイギリスだろうから、部屋の中に暖炉があるのかもしれない。 ここまで考えたときに、ひらめくものがあった。 そうか、女子から肩透かしをくらった腹いせに、ツリーを暖炉で燃やしたのだ。 それならば、最後の「 isn't it good, norwegian wood」というセリフも辻褄があう。 前の晩に女子から「素敵でしょ、ノルウェイの木なのよ」と言われたことを覚えていて、その木を燃やしながら「ああ素敵だね、勢いよく燃えるノルウェイの木は」とつぶやいているわけだ。 もしかして、おれって天才? しかし、いきなり生木を燃やすというのも少し無理がある。 生木なんてそう簡単に燃えるものではない。 目に染みる煙がもうもうと上がるだけで、一向に燃えないのが生木だ。 でも、襟裳岬では春になると悲しみを暖炉で燃やし始めるらしいから、生木だって燃えるかもしれない。 悲しみを燃やすことができる暖炉があるなら自分もほしい。 でもやっぱり、ツリーを「 wood」と表現するところに無理を感じる。 だとしたら、「 norwegian wood」というのはノルウェイ産の木材を使った家具のことだろうか。 そうなると、家具を破壊して暖炉で燃やしてしまったことになるが、いくらなんでもそこまではしないだろう。 エッチできなかったくらいで家具を燃やすなんて、そんなヤツがいたら怖すぎる。 それに、「 there wasn't a chair」となっているから、部屋の中にはテーブルはないのだろう。 椅子もテーブルもない部屋で、ほかに自慢できるような家具には何があるだろうか。 普通は、部屋の中で一番目立つ家具はテーブルだと思うけれど、そのテーブルがないとするとタンスあたりだろうか。 でも、テーブルさえない部屋で、人に自慢できるような立派なタンスなんて置いたりするだろうか。 そんなこんなで、自分の思考はここで停止した。 自分でも納得できないけれど、とりあえず「 norwegian wood」というのはクリスマスツリーみたいなある程度大きな木、ということにしておこう。 この男子は風呂場で寝たわけだから、おそらくこの歌の季節は冬ではないだろう。 冬に風呂場で寝たら、寒さで凍えてしまう。 ということは、クリスマスツリーの可能性は低い。 答え合わせをする前に、日本語の歌詞がどのようになっているかを見てみよう。 昔僕には女がいた、それとも僕が女にくっついていたと言うべきか 彼女は僕に部屋を見せてくれた、素敵じゃないか、ノルウェーの森 泊まっていってよと彼女は言い、どこでも好きなところに座ってよと続けた それで周りを見回すと、椅子なんてひとつもなかった 僕は敷物の上に座り、彼女のワインを飲みながら時間を潰した 僕らは2時までおしゃべりし、彼女が「寝る時間だわ」と言った 朝から仕事なのよと、彼女は言って、笑い始めた 僕は仕事はないからと答え、浴室まで這って行って寝た そして目を覚ますと僕は一人で、この小鳥は飛び去っていた だから僕は火をつけた、素敵じゃないか、ノルウェーの森 このほかにもいくつかあるようだけれど、いずれの翻訳も 「norwegian wood」は「ノルウェイの森」になっているらしい。 最初の翻訳につられて、後から翻訳した人たちも「ノルウェイの森」という訳語を拝借したのだろう。 女子のセリフを男子のモノローグと勘違いしたことによる誤訳というわけだけれど、プロの翻訳家としては少しばかりお粗末な解釈だ。 では、本当のところはどうなのかというと、がある。 この人は大学で英語を教えているらしく、英語力という点では自分よりも数段上だろう。 この人の説では、 「norwegian wood」というのは部屋の内装全体にノルウェイ産の木材が使われているという意味で、男子はこの部屋に火をつけたという解釈をしている。 マジで? それはちょっとすごくないですか? 女子にフラれたくらいで、いきなり放火なんてするだろうか。 あまりにも解釈が過激すぎて、自分としてはちょっと納得できない。 実際に聴いてみればわかるけれど、どこといって特徴のない、聴いていると眠くなるような退屈な曲なのだ。 こんな退屈な曲で、いきなり放火魔が出現するようなドラマチックな展開になるというのも少し考えにくい。 もう一つ、を見つけた。 面倒なので詳しい説明は省くけれど、要は、 「norwegian wood」というのは「 knowing she would」(彼女がエッチさせてくれそうだ)の語呂合わせではないかという解釈だ。 なるほど、これはまったく考えもしなかったけれど、いかにもありそうだという気はする。 少なくとも、異常な放火魔説よりはずっと説得力がある。 おそらくは、これが正解だろう。 ということで、ずいぶんと長くなってしまったが、「ノルウェイの森」という訳語は明らかに誤訳だということだけはわかった。 しかし、字面だけ眺めていたのでは絶対に正しい訳にはならないから、この誤訳を責めるのはちょっと酷かもしれない。 こういういい加減な歌詞を作ったビートルズにも、いくらかの責任はありそうだ。 いずれにしても、翻訳者泣かせの歌詞であることは間違いない。

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