我々だ 短編集。 象 (短編集)

舞台衣装としてマスクを 架空の王国を舞台にした やみ・あがりシアター短編集公演『謁見』が上演決定

我々だ 短編集

傑作だ。 先に読ませてもらった者から言うべきことはまずこの一言に尽きる。 高校を中退し、千春は病院に併設の喫茶店で働いている。 勤務時間が舞台の大半である。 小説でよく見られるようなドラマチックなことがあるわけでない。 千春はそもそも本を最後まで読んだことすらなかったが、それでも困ることはなかった。 でも客が忘れた本がきっかけで読んでみようと思った。 実際に読み、そのお客さんと初めておしゃべりをし、すると単なる「お客さん」ではなくその人の人生が、生きている時間が、感じられてきた。 我々読者が思わず、生きているのはこっちだってば! とムキになってしまうほど登場人物達が生きているこの「サキの忘れ物」から、本書は始まる。 全九作、文芸誌から美術雑誌まで初出もバラバラ、時期もばらつき、内容もバラエティに富んでいる短編集だが全部すごい。 二番目に読む「王国」ではぐっと年齢が下がり、幼稚園児の空想世界がメインである。 大人の我々のような読者がまともに読んでられるか! などと思うのは最初の数秒だけ。 一行目を読み終える頃には絶妙な語り方に読者はあっさり大人目線を放棄するだろう。 カサブタが治るまでに過ぎない他愛もない時間を、まるで世界が誕生し消滅するまでの長い時間のように読者は受け取ってしまう。 次の「ペチュニアフォールを知る二十の名所」では旅行代理店の担当者らしき人物の巧みな語りのために架空の世界を全部鵜呑みにしてしまっていることに我々が気付くのは読み終えた時である。 登場人物達の方が我々よりも一枚上手なのだ。 「喫茶店の周波数」は閉店の二日前の日を、客の会話の断片などと共に一人過ごす客の話だが、会話の断片は現実のサンプリングのようであり、それよりも、店員とのレジ越しの最後の挨拶のしょぼさが我々読者を驚愕させるだろう。 最後っ屁のような人間臭いノイズに満ちたあっけないリアルなやりとりに、生きてるのはこっちだっつーの! と、またしても活字の並びに向かって呟くことになる。 怪しい設定だが、語り手は気にせず真顔である(と思える)。 登場人物達の精神力、忍耐力に圧倒されるこの怪作に、我々読者も少しは生きているところを見せねばと震えつつもただ活字の配列をたどるのみ(何が何だかわからないまま不思議なことに面白く最後まで読めてしまう!)。 「河川敷のガゼル」では河川敷に突如現れたガゼルを人間世界の社会や政治が取り巻き始め、浮き足立つが、だからといって「こうする」という方向が最終的に定まることはなく、ガゼルの名前が公募で決まっただけで登場人物達は読者にバレない程度にできるだけグダグダし続ける。 小説というジャンルは油断するとすぐお行儀よくなってしまって名言さえ吐いてしまう場合があるが、それに逆らってグダグダして見せている(この作品、二十一世紀の現実世界そっくりだ)。 見た目からしておかしな「真夜中をさまようゲームブック」はゲームブック形式の短編であり、選択肢によっては何度も物語の外へ放り出される。 容赦なく殺されることもあり、我々読者は「小説の中で生き抜くにはどうすればいいのか」をトレーニングしていることになるわけだ。 「あるある」が好きな共感系読者には、ないないと敬遠されるタイプの作品だろうが、著者の果敢な遊び心が私は好きだしこういうのアリアリ! と共感する次第だ。 飛び移るのであるが、ゲームブックじゃないぞ! と読者は心の中で叫んでしまうほどである。 無謀に思えるが実は慎重を期している。 窓から見えたぬいぐるみの位置すら計算済みであって、全ての言葉が意味を持ち(伏線などというちゃちなものではなく)、平凡な言葉でありながらフォーメーションによって読者の感情を引き出すスペースをつくる。 ところで新刊の本書の読者も百年経てばみんな死んでいる。 傑作だからこの本は残るが「かつて生きていた読者」がこの本の文字の並びをたどった痕跡は残らない。 我々読者はため息をつくほかないが、登場人物達はどんな未来の読者と出会うだろうというようなことを思うことはできる。 九作品は全て、未来を読者に感じさせて終わるからである。 (ふくなが・しん 作家) 単行本刊行時掲載 1978年大阪市生まれ。 2005年「マンイーター」(のちに『君は永遠にそいつらより若い』に改題)で太宰治賞を受賞してデビュー。 2008年『ミュージック・ブレス・ユー!! 』で野間文芸新人賞、2009年「ポトスライムの舟」で芥川賞、2011年『ワーカーズ・ダイジェスト』で織田作之助賞、2013年「給水塔と亀」で川端康成文学賞、2016年『この世にたやすい仕事はない』で芸術選奨新人賞、2017年『浮遊霊ブラジル』で紫式部文学賞、2019年『ディス・イズ・ザ・デイ』でサッカー本大賞、2020年「給水塔と亀(The Water Tower and the Turtle)」(ポリー・バートン訳)でPEN/ロバート・J・ダウ新人作家短編小説賞を受賞。 他に『とにかくうちに帰ります』『エヴリシング・フロウズ』などの著書がある。 この本へのご意見・ご感想をお待ちしております。

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BL短編集の主役は我々だ!【wrwrd】

我々だ 短編集

2020年6月18日(木)~21日(日)スタジオ空洞にて、 やみ・あがりシアターの短編集公演 『謁見』が上演されることが決定した。 オンラインではなく、オフライン(劇場)にて行われる本公演『謁見』は、口元を覆う民族衣装の国の女王陛下と、謁見に来た人びとの連作短編集。 全シーンを通じて、出演者は互いに約たたみ一畳程度の距離をとって演技をし、それに準じて、来場者と出演者、客席同士も同様の距離をとるという。 また、出演者は口元を覆う衣装で、各謁見の前に手指の消毒を行い、来場者にも「女王陛下にまみえるのだという心を高めるための演出上の都合として」各種感染症対策に協力してもらうようにするという。 女王役には 小角まや(アマヤドリ)、謁見者には 加藤睦望(やみ・あがりシアター)をはじめ、 安東信助(日本のラジオ)、 市川歩、 吉成豊、 依乃王里(箱庭円舞曲)らが出演する。 今回の公演に関し、やみ・あがりシアターは「オンライン演劇の道が模索される中、我々はオフライン、劇場で観客と同じ空間の中で上演される場を模索しました。 演出上のこだわりをお客様含めてご協力いただいた結果、人と人の距離を保ち、皆が積極的に口元を覆う劇空間となる、予定です。 (中略)インドでは華やかなウェディングマスクも登場しているそうです。 ファッションとして、舞台衣装としてのマスクも見どころの一つになるのではと思います。 やみ・あがりシアターはこの社会情勢の中、新規に劇場を予約し、今しかできない演劇に挑みます。 」とコメントしている。 あらすじ コクトー王国では、海を挟んだ隣国との長年にわたる戦争が終わり、若き女王は和平の証として、敵国の王子を婿に迎えた。 結婚と天下の泰平を祝して、平民たちにも特別に女王との謁見の機会が与えられることになった。 全国民から毎日一人、厳正なくじで選ばれるという。 「親愛なる女王陛下、来た者の手指は清めてからお連れいたしますがね、それでも互いに手を伸ばして届くような距離には決して近づいてはなりません。 下々の者なんて何をするか分かりませんからね。 陛下はご存じないでしょうが、平民というのは、ときには口布を外して話すようなこともあるとか。 とにかく考えられないほど、陛下とは育ちが違うのです……。 」 SPICER.

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#7 我々が奇病で満たされたら

我々だ 短編集

(1924-年)の短編集を2冊読んだ。 今となっては映画のほうが有名であろう「」と、「短編集」(訳)である。 は1958年出版、1961年に映画化した。 じつは、数年前に映画を見たことがある。 そのときの感想は「のアイドル映画」。 当時のニューヨークの雰囲気が出ていて良かったけれど、窓辺でギターを弾きながらをうたうオードリーや、のブラッグドレスを着こなすオードリーは素敵で、むしろそれだけの映画だなと思った。 そんなわけで、高評価の原作を読みたいと思いつつ、遠ざかっていたのだ。 それは映画だけの問題ではなく、今主流になっている、訳だからというのも大きい。 の小説嫌いだし(エッセイは好き)どうしても有名な小説家が翻訳したものは小説家の色がついてしまうのではないかと気にしていたのだ。 特に、のような、個性の強い作家ならなおさらだ。 しかし、先週の京都旅行で下鴨デリにも、にも訳が置かれていたのでもう観念した。 恐る恐る読んでみたのだが、映画が微妙だったとか、がどうとかそんな心配を忘れるくらい没頭して読んだ。 映画と違う内容に驚いたし、評判通り小説のほうが面白い。 翻訳もとてもよかった。 は、下のニューヨークが舞台である。 ニューヨークのを若さと美貌で人気者に上り詰めた、ホリー・ゴライトリーという19歳の女の子についての回想録だ。 は元同じアパートの住民であり、作家の卵のフレッド(ホリーが『わたしの兄に似てるからフレッドって呼ぶわね』と勝手につけられたあだ名で、主人公はそう呼ばれている)で、ホリーに憧れつつも、彼女を支えた友人である。 作品はこれでもかと、ホリーの魅力が描かれている。 かわいくて無邪気なのに達観している、二面性のある女の子に、フレッドもの男性もメロメロなのだ。 わたしもその魅力にやられた。 好きな部分をひとつだけあげるとすれば、ホリーがについて語るところだろう。 というブランドの純粋なファンなのではなく、あくまで例えなのだが、そこがとても気持ち良い。 引用すると長くなってしまうし、彼女の悲惨な生い立ちがあってこそひきたつ文章だと思うので、ぜひ読んでみてほしい。 以外でも、ほかにもいろいろおもしろい作品はあるんだけれど、とても長くなってしまうので、ここではわたしが感じた、の魅力について語ろうと思う。 まず、文章の美しさ。 例えるなら冷たい澄んだ水だ。 無駄なことはなに一つなくて、良いことも悪いことも、そのまま映してしまうような冷たさと透明さがある。 実はそういう風に思ったことは以前にもあった。 の「」である。 この二人になにか共通点があるとも思えないけれど、わたしの感覚的なところでは同じなのだ。 この感覚は意外にあっているらしい。 短編集の訳者あとがきで、さんはこう書いている。 の文体を、「アイスティーのグラスがたてる澄んだ音にも似て、心持ち甘く、透き通って冷ややか」とある批判家は表現した(タイム誌一九八七年九月七日号) わたしの印象はあながち外れてはいなかったようで、ちょっと誇らしい。 原文を的確に訳したということもあるだろうけれど、の文体は特徴があって、だれでも共通した感覚があるのだと思う。 そして、もうひとつは「誰にも理解できなくても、はたから見たらおかしくても、自分(主人公)が良ければそれでよいのだ」と思わせる結末だ。 何かを失っても、力強く歩いていく強さがある。 ちょっとエゴイスティックともいえるような、ある種のハッピーエンドという感じで終わるものが多い。 まだ2冊しか読んでないけれど、高校はいかず、23歳という若さで天才小説家として活躍したは、人とは違う経験をたくさん重ねてきたのではないかと思う。 作品に人生観が強く反映されているように見える。 ただ特徴的な文体なだけあって、読みづらいと思う作品もあった。 短編集の「ファンターナ・ヴァッキア」と「無頭の鷹」、の「クリスマスの思い出」である。 の頭の中で書かれているような、(文章はそういうものなんだろうけれど)とても感覚的な文章なのだ。 抽象的な表現が好きな人にはぴったりなのかもしれない。 ここで、わたしが印象に残った文章を紹介する。 孤独が生活にしのび込んできた。 僕の心はなぜか落ち着かなかった。 しかしだからといって、他の友人にも会いたいという気持ちも湧いてこなかった。 彼らは今では、砂糖も塩も入っていない料理みたいにしか感じられなかった。 水曜日が来る頃にはもう、僕の頭はホリーのことや、シンシン刑務所とサリー・トマトのことや、化粧室に行く女性に五十ドルを手渡す男たちのいる世界のことでいっぱいだった。 () 我々は一度大きな仲違いをした。 その台風の目でぐるぐるまわっていたのは、くだんの鳥かごであり、O・J・バーマンであり、僕の書いた短編小説だった。 () 囚人農場からいちばん近くの町まで二十マイルの距離がある。 (中略) 大きなだるまストーブがひとつ据えられているが、このあたりはおそろしく冷える。 松の木が霜のおりた針葉を波立たせ、月が凍てついた光を地表に落とすころ、男たちは鉄製のベッドに横たわり、眠ることもかなわず、その瞳にストーブの炎を映し続けるのだ。 (ダイアモンドのギター) 台所はだんだん暗くなってくる。 夕闇が窓ガラスを鏡に変えてしまう。 暖炉のそばで火に照らされて手仕事をしている僕らの姿が、昇ってきたばかりの月と重なり合う。 (クリスマスの思い出) やれやれ、あの女の舌がやっと静まったとは、何という救いだろう。 そう思うと気が休まり、新しく借りた静かな独身者用のアパートも目の前に浮かんできて、なおのことほっとした気分になったが、その日の朝燃え上がりにわかにかき消された不滅感と、生きる喜びの実感にふたたび火がつかなかった。 (楽園の小道) 今気づいたけれど、ほとんどからの引用だ。 短編集は、個性的で設定も結末も面白い作品が多いので、おすすめである。 じつはは、近所ので購入した。 ページに、持ち主がしおり代わりに挟んでいた、駅中の本屋のレシートが出てきてぞっとした。 知らないひとの形跡って気持ち悪いものである。 売る際は、そういうの捨てておいてください。 お願いします。

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