葛飾 北斎。 天才絵師「葛飾北斎」の、やばすぎる「私生活」とは?「やばい」から日本の歴史が見えてくる!

葛飾北斎の墓

葛飾 北斎

日本史のおもしろさは、ずばり「人」にあります。 何か「すごい」ことを成しとげた人は、歴史に名前が残ります。 でも「すごい」だけの人なんて、この世にひとりもいません。 むしろ、ものすごい失敗をしたり、へんな行動をしたりして、まわりから「やばい」と思われているような人が、誰にもできない偉業をやってのけていることもあります。 だって、人生は長いのです。 いい日も悪い日もあるし、年とともに変化だってあります。 いろんなことを考え、行動し、ときに失敗し、そこから学び、たまに成功する。 カッコいい一面もあれば、ダサい弱点もある。 だからこそ、人はおもしろいのです! 「すごい」と「やばい」の二面から、日本史の人物の魅力に迫るから、今回特別に内容を一部お届けします。 すごい葛飾北斎 世界の画家も憧れる天才絵師 葛飾北斎は、日本だけでなく世界でも人気のある浮世絵師です。 最初は浮世絵師の先生に弟子入りした北斎ですが、 あまりの才能にほかの弟子から嫉妬され、追い出されてしまいます。 フリーの絵師になった北斎は、美人画、妖怪絵、小説の挿絵など、いろんなジャンルの絵を描きました。 すると「なんてかっこいい絵なんだ!」と江戸で大人気となり、弟子希望者が殺到。 そこで弟子用に『北斎漫画』というスケッチ集を出版したところ、一般人にもウケてベストセラーになりました。 北斎の作品のなかで、もっとも有名なのは『富嶽三十六景』です。 いろんな場所と角度から、ダイナミックに富士山を描いたこのシリーズは、海外でジャポニスム(19世紀にヨーロッパで流行した日本趣味のこと)ブームを巻き起こし、オランダの画家ゴッホやフランスの画家モネにもまねされました。 ところが江戸時代後期、幕府によってぜいたくが禁じられ、自由に浮世絵が描けなくなります。 しかし、すでに80代だった北斎の情熱は止むことなく、娘とともに長野の田舎に行って大作を描きあげました。 90才まで描きつづけた北斎は、亡くなる直前 「あと5年長く生きられたら、絶対おれは本物の絵師になれるのに……」と、悔しがったんだとか。 天才・北斎は、死ぬまで理想の絵を追いかけていたのですね。

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葛飾北斎の人生とは|画狂の生涯と有名な作品|浮世絵師

葛飾 北斎

Contents• 葛飾北斎のここがすごい! 有名なゴッホやセザンヌも北斎の影響を受けた 葛飾北斎は18世紀から19世紀初頭、江戸時代後期に活躍した日本を代表する浮世絵師です。 「富嶽三十六景」が代表作ですがその作品の数々は、日本のみならずヨーロッパなど海外の絵画や音楽作品に多大な影響を及ぼしました。 北斎の秀逸な点は、その作品のダイナミックさでありユーモラスなところでもあり、写実性に富んだところでもありと、多様な画風の作品を多く残しているところでしょう。 存命中の作品数は、3万点以上にもなると言われています。 北斎は長命でも有名で、88歳で没していますが、その長い絵師としての生活は大変ストイックなもので、号(現在で言うところのペンネームのようなもの)を何十回と変え、絵に没頭し部屋が散らかれば何十回と引っ越しをし、食べ物や着るものにも無頓着で、とにかく絵に夢中になって生き続けた生涯でした。 衣食住に頓着がないわりに長命だったのは、絵への情熱が故だったかもしれません。 19世紀以後ジャポニズムがヨーロッパで広がり始めると、北斎の「富嶽三十六景」からインスピレーションを受けた芸術家の作品が生まれるようになります。 有名なゴッホやセザンヌも北斎の影響を受けた作品が残っています。 大胆な構図と、日本独特の色遣いは、やや柔らかくなりがちなヨーロッパの絵画の色調に、ビビッドな明るさをもたらしたと言ってもよいでしょう。 これらの北斎の絵は天保年間に発売されているのもので、このころ幕府の締め付けにより浮世絵師もこれまでのように多くの色を使えなくなっていました。 そこで多くの浮世絵師が生き残るため風景画に転向していったのですが、北斎もその一人です。 彼のすごいのはそういった制約の中でもダイナミックな作品を次々と生み出していく所にあります。 また、絵の構図についても気がつく点があるかと思います。 凱風快晴の線の少なさや尾州不二見原のように大きな丸の中に三角の富士が描かれています。 これは北斎の感性だけではなく、どこにどう配置したらいいかという計算のもとに描かれている、つまり、どのような構図だと美しく見せられるかを理論的に描いているということに驚きます。 北斎の本当の凄さが見えてくる作品です。 『富獄三十六景』 文:お栄 富嶽三十六景「凱風快晴」 葛飾北斎の凄さは、今から200年以上前の浮世絵師ですが、現代のアーティストに多大な影響を与えています。 2014年の東京デザイナーズウィークでは、葛飾北斎をリスペクトしたアーティストによる作品コーナーが展示されていました。 葛飾北斎の代表作品を様々な表現によって現代的にアレンジされた作品の数々は圧巻でした。 中でも富嶽三十六景「凱風快晴」と「神奈川沖浪裏」 は葛飾北斎の作品として有名なものですが、これが現代アート風に表現されていた空間は圧巻のものでした。 このように時代を越えて影響を与え続けている葛飾北斎ですが、人気や認知度は日本国内にとどまらず、世界中のアーティストにも影響を与え続けています。 彼の残した作品はシンプルな中にも力強さがあります。 最近はほとんどのアート作品がコンピュータを通して表現されますが、葛飾北斎の作品を見ていると、改めて筆などアナログなツールで表現することの大切さを実感します。 そして日本人として、日本という文化を表現することがどれだけ重要なのかを考えさせられます。 グローバル化により国境の壁が以前よりも薄くなっていく時代だからこそ、改めて日本文化や、北斎のような優秀な日本人のことを私達は改めて理解すべきなのかもしれません。 文:かっちゃん。 富嶽三十六景「神奈川沖波裏」および「北斎漫画」 — 北斎は時間を止めた! 浮世絵というと何か古くさいものと感じるかも知れませんが、葛飾北斎の作品をよく見てみると、その革新さに驚いてしまいます。 その代表作『富嶽三十六景』は、さまざまな富士山を36枚描いた連作もので、そのなかでも大きな波が描かれている「神奈川沖波裏」は、みなさんどこかで見たことがあるかも知れません。 何気なく描いてるようなこの作品ですが、右から落ちる波と左から落ちる波の落下点が合わさるところに富士山が遠くに見えます。 これは明らかに北斎が意図的に計算したもので、構図の取り方が非常に優れていることが分ります。 それと驚異的なことなのですが、その落下する波の波頭は鉤型になっているのですが、実際の波も現在先端のカメラで何万分の一というシャッタースピードで写してみると、やはり鉤型になっているのです。 江戸時代後期に生きた北斎が、どのようにしてこのことを知ったのか謎なのですが、彼が恐ろしいほどに自然観察をしていたことは他の作品を見ても明らかです。 まさに時間を絵画として切り取ってみせた。 時間を止めてみせた、という意味でも北斎は驚異的な才能の持ち主だったといえます。 しかし江戸時代、浮世絵は芸術観賞の対象というよりも、歌舞伎役者のブロマイドや旅行案内など庶民の娯楽品と考えられていたので、気楽に買えて気楽に捨てられるようなものでした。 ただこのことが海を渡って思わぬ反響を呼びます。 輸出用の陶磁器の梱包材として用いられていた浮世絵は、ヨーロッパなどに思わぬ形で届いたのですが、それを目にした彼の地の画家たちは、そこに描かれている内容に驚嘆したのです。 ヨーロッパの世界観と日本を含めた東洋の世界観は大きく異なっていました。 ヨーロッパではキリスト教的世界観により、世界は唯一の神が創造したものであり、その支配を許された人間を中心に構成されているものであって、その価値感は人物画であれ、宗教画であれ、風景がであれ、色濃く反映されています。 ところが東洋の価値感は山であっても、川であっても、花であっても、動物であっても、人間であっても等しく価値を見いだしえるもので、それは東洋の絵画、例えばそれは日本の場合、日本画や浮世絵になりますが、その価値感は絶えず根底にあるものでした。 西洋の画家たちにとっては、北斎の描いたような自然界の波をテーマにしたような作品は思いがけず衝撃的なものだったのです。 北斎の描いたシリーズものに『北斎漫画』というものがあります。 これは現代のマンガのようなものではなく、よろずのことを描く、つまり森羅万象のあらゆることを描いているものです。 そこでは滑稽におどける人間もいれば、小さな小さな虫もいて、咲く花もあり、神仏の姿や千変万化する水の流れ、風さえも巧みに描かれています。 ヨーロッパでは北斎の作品をはじめとする浮世絵との出会いによりジャポニズムが流行しはじめ、それは多くの画家たちだけでなく工芸品にまで影響を与えていきます。 例えばエミール・ガレは、ランプシェードを芸術品にまで高めた人として知られていますが、そこに装飾デザインされているトンボなどの虫たちは一体どこからきたのでしょうか。 それはまぎれもなく、北斎が小さな命たちに注いだ視点からきているのです。 『北斎漫画』 文:supersugano 葛飾北斎と同様に富士山に魅せられて 「富嶽三十六景」。 日本に生まれ育った方ならば誰でも一度は目にしたことがあるでしょう。 そう、浮世絵の大家、葛飾北斎の作品です。 「富嶽」とは霊峰富士山のこと。 富士山に魅せられた北斎が10年にも及ぶ歳月を費やし完成させた作品です。 日本の各地から見える富士山を、その街並や生活する人々と重ね合わせて描かれているものが多く残されています。 発表当時、北斎はすでに72歳と晩年期の発表であり、浮世絵師としての地位を盤石なものにしました。 その功績は日本だけでなく、かの「ゴッホ」にも影響を与えたと言われています。 「三十六景」と言われていますが実は46枚もの作品が残されています。 実は私が北斎に興味をもったのは「富士山」がきっかけでありました。 無類の富士山好きである私は、各地から見える富士山を写真に収めていたのです。 そんな折、ふと目にしたのが有名な「神奈川沖浪裏」でした。 是非一度ネットで検索してみてください。 必ず「ああ!見たことある」となるはずです。 絵心のない私はその絵のモチーフが富士山であることに気付かずにいました。 あまりにも浪の印象が強すぎたためでしょうか。 しかしその絵のモチーフが富士山だと知った時から北斎との共通点が見え、北斎を求めるようになっていきました。 『武州玉川』 「三十六景」のなかで私が個人的に愛してやまないのは「東海道品川御殿山ノ不二」や「武州玉川」です。 やはりその絵には富士山が大きく描かれていて、とても爽快です。 また浮世絵だけでなく肉筆画などにも卓越した才能を発揮し、私の好きな「富士越龍図」を絶筆として残してくれました。 富士山を共通項として過去の偉人と繋がれたということは私にとって無上の喜びでした。 まだまだ北斎を知ったばかり。 これからも追い続けたいと思っています。 文:あおい 数学的に裏付けられた美しさ 葛飾北斎は今からおよそ200年前の画家です。 彼の代表作である『神奈川沖浪裏』は日本人なら一度は目にしたことがあるだと作品思います。 葛飾北斎はその構図を決めるときにコンパスと定規を使いました。 この作品の構図は3本の直線と19本の円弧で構成されています。 対角線と円弧の交点に富士山の頂上や波頭がくるように描かれています。 北斎の絵の美しさは数学的な裏付けがあるのです。 この作品の大波がせり上がっていく曲線は黄金比を使った螺旋形と一致します。 黄金比は人が美しさや調和を感じる比率です。 スマホの画面やアップルのロゴマークの他に、ひまわりの種の配置なども黄金比(フィボナッチ数列)によるものです。 北斎の「凱風快晴」という赤富士を描いた作品。 この絵の富士山の左側の稜線がなんと指数曲線とぴったり一致するのです。 サイエンスナビゲーターの桜井進さんが「雪月花の数学」という本の中でこのことに触れています。 この指数曲線というのは自然現象に関係のある関数です。 熱いものがだんだん冷めていく時にもこの関数が関係しています。 微分して元の関数に戻る不思議な関数でもあります。 葛飾北斎は絵を描くときにこのフィボナッチ数列や指数関数を意識して描いたわけではないと思います。 美しい波の形、美しい富士山の稜線を追い求めていった結果それが自然現象に関係のある関数と一致したのだと思うのです。 葛飾北斎の作品の美しさが人を魅了するのには数学的な根拠があるのですね。 文:ビッケ 『千絵の海』 『東海道金谷ノ不二』 『山下白雨』 『蛸と海女』 『女浪』 基本情報 経歴 葛飾北斎は、江戸時代後期の化政文化を代表する浮世絵師で、主に風景を描いた作品で有名です。 浮世絵だけでなく、漫画や挿絵師としても活躍し、大衆的な評価も得ていました。 葛飾北斎の描く浮世絵は、その当時の日本の画家たちだけでなく、西洋の印象派の画家にも多大な影響を与えました。 国境を飛び越えて世界的に活躍した革新的な画家でもありました。 その当時活躍していた西洋の画家の中でも、印象派の画家、ゴッホにとりわけ大きな影響を与え、その模写作品が、今日にも残っています。 浮世絵に関しては、版画での作品が有名ですが、それ以外にも肉筆での浮世絵作品も数多く手掛けました。 葛飾北斎の最も有名な作品、『富嶽三十六景』に代表されるように、風景画家として高い評価を受けています。 芸術的価値の高い浮世絵だけでなく、漫画や挿絵画家として、大衆的な文化にも革新的な作品を数多く生み出した画家でした。 その当時の文化だけでなく、今日の芸術作品や、現代アートにも大きな影響を与え続ける偉大な画家であると同時に、その当時の庶民の生活を温かくも辛辣な目で見つめ、秀逸な娯楽作品、愛すべき大衆的な作品として発表し続けた素晴らしいクリエイターでもあります。 葛飾北斎の関連書籍.

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葛飾北斎(かつしか ほくさい)とは

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葛飾応為『月下砧打美人図』 北斎には二人の息子と、三人の娘(一説に四人)がいた。 三女だった応為は、の・に嫁したが、針仕事を殆どせず、父譲りの画才と性格から、等明の描いた絵の稚拙さを笑ったため、離縁されてしまう。 出戻った応為は、北斎の制作助手も務めたとされている。 が出ていたため、北斎は「アゴ」と呼んでいたという。 80歳後半の北斎自筆の書簡でも応為を「腮の四角ナ女」と評し、自身の横顔と尖った顎の応為の似顔絵が添えられている。 なお、北斎の門人・による『北斎仮宅写生図』にも、北斎と応為のが描かれている(「」 紙本墨画 所蔵)。 初作は文化7年(1810年)を下らない時期と推定される『国尽』のと見られる [ ]。 同じく北斎の娘と言われる画人・は、手や髪の描き方が酷似し、応為の若い時の画号で、同一人物とする説が有力である。 特にに優れ、北斎の美人画の代作をしたともいわれている。 また、北斎の春画においても、彩色を担当したとされる。 北斎は「美人画にかけては応為には敵わない。 彼女は妙々と描き、よく画法に適っている」と語ったと伝えられている。 同時代人で北斎に私淑していたも、自著『旡名翁随筆』(天保4年()刊)の「葛飾為一系図」で、「女子栄女、画を善す、父に従いて今専ら絵師をなす、名手なり」と評している。 またこの記述から、天保初め頃には応為は出戻っており、北斎晩年の20年近く同居していたと推察できる。 晩年はに帰依し、安政2-3年(1855-1856年)頃、に扶持されて [ ]にて67歳で没したとも、晩年北斎が招かれた小布施で亡くなったともされる。 一方で虚心は、『浮世絵師便覧』(明治26年)で、慶応年間まで生きていた可能性を示唆している。 人物 [ ] 「応為」の画号は、北斎が娘を「オーイ」と呼んだので、それをそのまま号としたとも、逆に北斎を「オーイ、オーイ親父ドノ」と節から取って呼んだからという説 や、或いは北斎の号の一つ「為一」にあやかり、「為一に応ずる」の意を込めて「応為」と号したとする説もある [ ]。 応為の性格は、父の北斎に似る面が多く、衣食の貧しさを苦にすることはなかった。 絵の他にも、占いに凝ってみたり、を飲んで女仙人になることに憧れてみたり、小さな豆人形を作り売りだして小金を儲けるなどしたという。 北斎の弟子、の証言では、応為は北斎に似ていたが、ただと酒を嗜んだという。 ある日、北斎の描いていた絵の上に吸っていたから煙草の火種を落としたことがあり、これを大変後悔して一旦禁煙したもの、しばらくしてまた元に戻ってしまったという。 また応為にも弟子がおり、たいてい商家や武家の娘で、いわば家庭教師として訪問して絵を教えていたようである。 露木が「先生に入門して長く画を書いているが、まだうまく描けない」と嘆いていると、応為が笑って「おやじなんて子供の時から80幾つになるまで毎日描いているけれど、この前なんか腕組みしたかと思うと、猫一匹すら描けねえと、涙ながして嘆いてるんだ。 何事も自分が及ばないといやになる時が上達する時なんだ」と言い、そばで聞いていた北斎も「まったくその通り、まったくその通り」と賛同したという。 作品 [ ] 葛飾応為『吉原格子先之図』 現存する作品は10数点と非常に少ない。 誇張した明暗法と細密描写に優れた肉筆画が残る。 で応為作と認められているのは、4年()刊行の『絵入日用女重宝句』(高井蘭山作)と元年()刊行の『煎茶手引の種』(山本山主人作)所収の図のみである。 70才近くまで生きたとされる彼女の作品数が少なすぎることから、「北斎作」とされる作品の中には実際は応為の作もしくは北斎との共作が相当数あると考えられている。 特に北斎八十歳以降の落款をもつ肉筆画には、彩色が若々しく、精緻に過ぎる作品がしばしば見られ、こうした作品を応為の代筆とする意見もある。 また、北斎筆とされる春画「絵本ついの雛形」を、応為の筆とする説もある。 月夜に砧を打つ図はの詩「聞夜砧」に由来し、夫を思いながら砧を打つ妻の情愛を象徴的に表す。 後述の作品と比べて色彩が抑制的で癖が少ないことから、比較的早期の作品か。 なお、本図の部分は後人が一度削り取ろうとして途中でやめたような痕跡があり、ある時所蔵していた人物が新たに北斎の落款を入れて売ろうと企図していたと想像される。 吉原格子先図( よしわら こうしさきのず) 紙本著色 1幅 26. 3x39. 4 1818-44年(文政-天保年間)頃 無款(画中3つのに「應」「為」「榮」) の妓楼・和泉屋で、往来に面して花魁たちが室内に居並ぶ「張見世」の様子を描く。 店や客が持った複数の提灯から生まれる幻想的な光と影が、観者に強い印象を与える。 紙の寸法や日本人の生活に取材した画題が、の依頼により北斎工房が手がけた(および蔵)と一致することから、本作もオランダ人からの依頼によって描かれたが、何らかの理由により日本に留まった可能性が考えられる。 春夜美人図( しゅんや びじんず) 絹本 著色 1幅 88. 8x34. 5 無款 無款だが、北斎派風の女性描写や、明暗の付け方、灯籠などの細部の描写が他の応為作品と共通することから、応為筆だとほぼ認められている作品。 図柄は殆ど同じで落款がなければ区別できないが、本図の款記の文字はしっかりしているのに対し、双幅の方は書体が雑で、富士山形の印も似せているが別印である。 三曲合奏図 さんきょくがっそう ず、題名 " Pictorial evidence for sankyoku gassou") 絹本著色 1幅 46. 「三曲」とは、「琴・三味線・胡弓(または)のこと、またその合奏」の意味だが、浮世絵ではもっぱら尺八ではなく胡弓で描かれ、複数の絵師が同画題を手がけている。 身分が異なる女性が一度に合奏するという現実ではなかったであろう場面だが、これは中国の伝統的な画題である「三酸図 」にならったとも考えられる。 見事な彩色もさることながら、横長の絹本に、3人の女性に楽器を持たせ、破錠無く画面全体を作り上げており、応為の高い画力を見て取ることが出来る。 なお、のにも伝応為の同名作品(英語題名 " Trio of women playing the shaminen,kokyu andkoto")が所蔵されているが、全体に雑で、女性の帯や衣などが異なり、琴の弦の数が1、2本多い(ボストン本は13弦)ことから、本図の模倣品とする説がある。 関羽割臂図 ( かんう かっぴ ず、英語題名 " Operating on Guan Yu's Arm") 絹本著色 1幅 140. 右腕に毒矢を受けたを、名医・が小刀で骨に付いた毒を削り取って治療する場面。 池田東籬亭作、二代目画、天保10年()3月序『通俗絵本三国志』5編8巻の挿絵を典拠としており、制作はそれ以降と見なせる。 応為の落款がなければ女性が描いたとは思えないほど力強く、周囲の男たちの苦悶する表情や滴り落ちる血の描写は生々しさに満ちている。 なお、捺されている「葛しか」白文方印は、北斎が使用していた印である。 「葛しか」印は3種類確認されており、本作品のものは北斎81歳から88歳まで使用した印である。 当時、応為と北斎は同居していたから北斎使用印を用いているのも不自然ではないが、ここでわざわざ用いているのは北斎の指導下で制作されたのを暗示しているとも考えられる。 元々はにあった作品とされるが、昭和初期には東京にもたらされていたようだ。 その後、ら複数人の手を経ての所蔵となるが、同館は閉館し平成10年(1998年)10月でにかけられる。 この時の予想落札価格は4〜6万ドルだったが、実際には16万7500ドルで落札された。 現在はクリーブランド美術館に収まっている。 応為が登場する作品 [ ]• 『』(1973年、)• 『』(1981年、監督) 上記戯曲を原作とする映画。 が応為役。 『』(2019年6月9日 - 2019年7月7日、東京グローブ座)上記戯曲を演出家が手掛ける舞台、が応為役。 『狂人関係』、1977年• 『』 1978年、 が応為役。 『応為坦坦録』河出書房新社、1984年 のち文庫• 『』漫画作品• 『百日紅 〜Miss HOKUSAI〜』上記を原作とするアニメ映画。 が応為の声を担当。 『お栄と鉄蔵 応為・北斎大江戸草子』漫画作品• (Katherine Govier)『北斎と応為』(The Ghost Brush)• 『(くらら)』(2016年3月、新潮社)• 『』(2017年、NHK総合) 上記を原作とするNHKドラマ。 が応為役。 『浮世絵師の遊戯 新説東洲斎写楽』(2016年11月、文芸社)• 高井忍『近江屋 一八六七年 百五十年の真相』(2017年11月、文芸社)• 『燦々』2016年 戯曲(同年「てがみ座」にて舞台化)• 『シーボルトの眼』(2004年5月、集英社)• 『おんな北斎〜天才浮世絵師は、二人いた! 』(2010年、) が応為役。 『』漫画作品(、2017年7月 - )• 『』ソーシャルゲーム(2018年、TYPE-MOON)フォーリナーのサーヴァント葛飾北斎の本体として登場。 『』テレビアニメ(2016年-、、第60話、葛飾北斎の回)お栄の声は。 『』映画(2020年、)が応為役。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 「」は正確にはである「 葛()」が用いられたが、表記システム上の都合により、以降の記述では省略する。 同じく「応」は正字「應」が用いられたが、基本的に省略する。 編集・発行 『 北斎コレクション一〇〇選』 2019年2月8日、第99図。 のもこれを支持している(『江戸の浮世絵』 藝華書院、2009年、p. 362、)。 この本は序一丁・付文二丁を付した大錦横版12図1帖の組物。 このうち、の中で戯れる男女図に描かれた書物の表紙に、『陰陽和合玉門榮(改行)紫色雁高作・女性陰水書』とある。 「紫色雁高」はかつて北斎が名乗った隠号で、この本の作者であるが譲り受けた号。 「女性陰水書」の書は画の誤記あるいは誤刻だと考えられ、画工が女性であることを意味し、「陰陽和合」は作者の男性と画者の女性の合著であり、「玉門榮」はお栄こと応為を指すと解釈できる( 「春画を描いた女浮世絵師 葛飾應為と「陰陽和合玉門榮」」『プリンツ21』1993年10月号)。 ] しほん。 書画を描くための地の素材としてを使っているものを言う。 日本画用語] ちゃくしょく。 「着色」と同義。 現代風に「着色」と記されることも多いが、本来、「着」と「」はとの関係。 東京国立博物館編集・発行 『特別展観「東京国立博物館所蔵 肉筆浮世絵」』 1993年4月27日、p. 122。 『葛飾応為 鑑賞ガイドブック』p. [日本画用語] けんぽん。 書画を描くための地の素材としてを使っているもの。 そのうちの、生糸(きいと)で平織りされている通常のものを言う。 上質で光沢のあるものは「本(こうほん)」。 秋田達也 「応為筆「春夜美人図」をめぐって」『フィロカリア』21号、大学院文学研究科芸術学・芸術史講座、2004年3月、pp. 69-89。 監修 『肉筆 葛飾北斎』 毎日新聞社、1975年11月。 同じ瓶に入った酢を舐め、は酸っぱし、は甘し、は苦しと言った場面を描いた画題。 ・・の言説は異なるが、帰するところは一つという。 出典 [ ]• , pp. 308-309. 309. 313. , pp. 309-310. , p. 312. , p. 311. , pp. 311-312. , pp. 217-218. 参考文献 [ ] 史料• 『葛飾北齏傳』蓬樞閣、1893年9月。 上下巻。 『葛飾北斎伝』岩波書店〈〉、1999年8月。 研究書• 久保田一洋編著『北斎娘・応為栄女集』藝華書院、2015年4月24日。 久保田一洋、1993、「應為栄女の行方」、『季刊プリンツ21』4巻10号、プリンツ21 pp. 44-47• 久保田一洋、1995、「」、『浮世絵芸術』(117号)、国際浮世絵学会 pp. 12-25• 日野原健司、2017、「応為-江戸に生きた画狂父娘の物語」、『芸術新潮-特集:特集:画狂モンスター北斎 漫画と肉筆画』68巻11号、 pp. 73-79• 87-117 概説書・事典• 監修 『浮世絵師列伝』 平凡社、2006年1月• 監修『すぐわかる女性画家の魅力』、2007年、pp. 106-107。 国際浮世絵学会編『浮世絵大事典』、2008年。 展覧会図録・画集• 『 江戸文化シリーズ11回 江戸の閨秀画家』 、1991年• 編 葛飾応為画 「絵入日用女重宝記」『江戸時代女性文庫 58』 大空社、1996年• 『江戸艶本集成 第10巻 溪斎英泉・葛飾応為(お栄)』 河出書房新社、2012年3月29日• 太田記念美術館編 『葛飾応為 鑑賞ガイドブック』 太田記念美術館、2015年5月1日 外部リンク [ ]• 放送(葛飾応為役:) - 閉鎖。 (2010年3月15日時点の)• ウィキメディア・コモンズには、 に関するカテゴリがあります。

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