松井 秀喜 年齢。 松井 秀喜 選手(引退)の年俸推移・生涯年俸|ベスマネ.net

松井秀喜の子供は何人?年齢や名前は?息子は野球選手に?家族構成は?

松井 秀喜 年齢

このページは、引退した松井秀喜と今もバリバリのメジャーリーガーのイチローの年齢についてお伝えしています。 日本のプロ野球で活躍した選手がメジャーリーグに活躍の場を求めることが増えています。 しかし、残念ながら投手に比べて日本人野手はメジャーリーグにおいて通用したといえる選手が少ないのが現状です。 例えば最近では、西武からアスレチックスに移籍した中島裕之は、メジャーリーグの舞台に立つことなく日本に戻ってきました。 特に内野手は天然芝の多いメジャーリーグに対応することは難しく、結果として日本人メジャーリーガーの多くは外野手という状態になっており、改めてメジャーリーグのレベルを痛感させされることとなりました。 イチローが1歳年上の関係 Sponsored Link そんな中で日本が誇る日本人メジャーリーガーのなかで、活躍している2トップともいえるのが、イチローと松井秀喜です。 イチローは1973年10月22日生まれの43歳(2017年で44歳)。 松井秀喜は1974年6月12日生まれの42歳(2017年で43歳)と1歳違いです。 イチローは2000年オフに日本からメジャーにわたり、かたや松井は2003年にFAを行使してメジャーリーグに渡りました。 それぞれイチローはシアトルマリナーズ、松井はニューヨークヤンキースとともにアメリカンリーグに所属したこともあり、二人はよくメジャーの試合で顔を合わせていました。 そのため、二人は年齢が1歳違いということもあり非常に仲が良かったといわれています。 そもそもイチローと松井は、高校時代からの知り合いでした。 松井は石川県の名門、星稜高校で4番として、イチローは愛知県の名門、愛工大名電高校でエース兼外野手としてチームの中心選手でした。 その二人は練習試合で初めて顔を合わせました。 その時からお互いにプロを意識した会話をしていたと知られています。 同じ右投げ・左打ちの外野手というポジションが同じでありながら、イチローは俊足を生かしたアベレージヒッター。 松井秀喜はホームランが魅力なパワーヒッターとして全く違うプレースタイルであり、その違いもありライバル意識よりも互いの長所を吸収しあうという関係が築けていたのではないでしょうか。 イチローは過去に、松井とテレビでも対談をしています。 その時イチローは松井秀喜に対して「ヤンキースで長く過ごしたいたこと自体が、選手としてのみならず人間としての偉大さを示している」とまで松井を評しています。 Sponsored Link イチローと松井はライバルではない 一方、松井もイチローに対して「グラウンドで会えば必ず挨拶する、マスコミがライバルだと報じたが、自身はイチローのことをライバルだとは思っていない」と評しています。 イチローも松井もそれぞれのことをリスペクトしていることがよくわかります。 それもあってイチローは松井が引退するときには「ただただ寂しい」と珍しく感情的なコメントを残しています。 それだけイチローにとっては昔から知る野球選手で、唯一現役として残っていた1歳年下の松井秀喜の引退が衝撃的だったのでしょう。 それは松井が長年活躍したニューヨークヤンキースのユニフォームに自身も袖を通すこととなったことでより一層悲しい思いが強くなったのではないでしょうか。 日本ではセリーグでホームラン打者として活躍していた松井秀喜と、パリーグでヒットを量産していたイチローはあまり多くの接点はありませんでした。 以前は現在のように交流戦もなく、リーグが違えばオールスターでしか会いまみえることがないという状況でした。 そんな中でもお互いを、日本を代表する打者として意識をして、高めあった二人の活躍はメジャーリーグにおいて日本人野手という地位を作り上げました。 その後の日本人選手が多くメジャーリーグに挑戦するという流れを作ってくれた功績は多大なるものがあるといえるでしょう。 これからもこの二人は様々な形で野球界に貢献してくれることでしょう。 Sponsored Link あなたにおススメのページ.

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松井秀喜とイチローの年齢はどっちが上なの?

松井 秀喜 年齢

経歴 [ ] 生い立ち [ ] 1974年6月12日に、二代目司教である父・と母・さえ子の二男として生まれる。 生まれたときのは3,960グラムであった。 3歳で自宅近くのに入園。 保育園史上最大の園児と言われた。 当時の保育園の先生は「8歳ぐらいに見えました」と語っている。 体格が一際大きかったため、立浜1年生の時に3年生以上で構成される「根上少年野球クラブ」に特別に入団させてもらったが、まだ幼すぎて監督の指示などが理解できず、一旦野球を辞めてしまった。 4年生の時に父から再入団を勧められるが、幼少時のショックは大きく、拒否している。 しかし、野球に打ち込む3歳上の兄に触発され、小学5年生のに再び軟式野球チームに入り、本格的に野球を始めた。 その頃から、既にプロを夢見ていた。 元々は右打ちであったが、あまりにも打球を飛ばす為に野球仲間であった兄とその友人が松井を打てなくする目的で強引に「尊敬する選手(当時はだった)と同じ左」で打つように勧められ、左打ち に変更した。 これが運命の左打ち転向であった。 小学3年からは町の少年教室にも通い始める。 能美郡大会で優勝、石川県大会では3位に入り、国体強化選手にも選ばれていた。 松井は「野球よりも注目されていたんです。 立ってよし、寝てよし。 石川県では結構、強かったんですよ」と自慢している。 柔道の他に、わんぱく大会でも活躍していた。 これらスポーツでの活躍のほか、実家のもする。 中学時代 [ ] への進学にあたって、柔道を続けるか悩むこともあったが、に進学して野球に専念するようになった。 根上中学校には野球部があるものの、柔道部がなかった(当初は、野球での部活動の後に柔道場へ通う案も提示されたが、取り組む種目を一本にして集中したいという本人の希望もあったため)ということが野球への道を選択した大きな決め手となった。 中学入学時で身長は170cm、体重は95kgに達していた。 中学時代はをつとめ、2年夏からに転向した。 通算打率は6割を超え、3試合連続本塁打も放ったことがある。 3年生になると飛距離は130mにも達し、軟球を割ることもしばしばあった。 代わりのボール代だけでも半年間で10万円を超えることになったという。 その一方で、中学1年の時には能美郡相撲大会に出場し、個人戦で優勝。 根上中野球部でも「関取」「相撲取り」などのあだ名で呼ばれていた。 当時の根上中学校教諭で野球部のでもあった高桑充裕 は多くの松井の野球の師の中でも特に厳しかったことで知られており、だった松井にを手本にしたダウンスイングを指導したり、試合で敬遠されたために怒りの感情を露わにした当時の松井を、試合中でも激しく殴打し諌めたというエピソードがある。 その高桑は野球部卒であり、松井の先輩であり、同校の監督であったの教え子の1人でもあり、では1年生ながらもその試合で二塁手として途中出場を果たしている。 中学時代からでの試合を熱心に見るようになった。 その当時に憧れていた球団は、当時、らを擁して黄金期を迎え、後に松井自身が入団することになるであったという。 高校時代 [ ] 高校はに入学。 既に松井の実力を高く評価していた星稜高校監督の山下からの熱烈な勧誘や、中学野球部監督やコーチの高桑らに薦められ、また、根上中学校から星稜に進学した先輩と相談した結果、星稜に進学することに決めた。 「野球は大学までやらせてもらえれば」という程度だったが、高校時代に打者として注目を浴びるにつれて、高校を卒業してプロ入りする思いが強まっていったという。 投手として入部したが、すぐに野手()に転向。 その後、に転向する。 星稜高校の前から野球部の練習に参加し、他校との練習試合では「4番・三塁手」で出場してヒットを放った。 1年生から4番打者を務め(5番は3年生のだった) 「北陸の怪童」「星稜恐怖の1年生4番」として徐々に野球関係者の間に知られていき、本塁打もこの頃から推定飛距離で140mを超すものもあったが、では初戦の対日大鶴ヶ丘戦で難波投手に3打数0安打で押さえ込まれチームは初戦敗退し、「甲子園は怖いところです」というコメントを残している。 しかしながら、対戦した難波投手は打ち取ったものの、第3打席の外野の最も深い場所へ大飛球を飛ばされ、「あの(難しい)球をあそこまで飛ばすのか」と、松井の怪物の片鱗を見たと後にコメントしている。 秋は北信越大会でに敗れ、出場を逃す。 高校2年のの初戦(2回戦)の戦では、松井の走塁で市沼津をかき回し接戦に勝利。 3回戦の戦でライトスタンドに甲子園初本塁打を放った。 準々決勝では松商学園に勝利して北信越大会の借りを返す。 夏休みに部内で体力測定を行った際、背筋力250kg、バーベル上げ150kgと、関係者曰く「以来の数値」を出した。 新チームでは監督の山下にキャプテンに指名される。 星稜では毎年キャプテンは部員による投票によって選んでいたが、山下が松井の統率力や影響力を高く評価していたため、特例として任命したのだという。 秋の明治神宮大会では帝京相手に4敬遠をされたが優勝している。 また、高校生選抜チームに2年生としては()と共に選出され、1年先輩で後にプロ入りした・・等にその怪物ぶりを賞賛されている。 大野は雑誌のインタビューで「星稜の松井は怪物」と答え、萩原はこの年の高校生打者のドラフトの目玉とされていたが、「自分のホームランなんて松井に比べたら大したものではない」とのコメントを残している。 高校3年のでは、のが撤去されて本塁打が激減したにもかかわらず、「僕には関係ありません」という言葉通りに 、開幕試合である初戦の戦で2打席連続本塁打、1試合7打点、2試合連続本塁打と、当時の大会記録をマークした。 2回戦でのエース・山本幸正から難しいを本塁打したのをが見ていたのがきっかけで巨人入りしたという話もある。 しかし、準々決勝の戦では本塁打は出ず、自らのエラーもありチームは敗退した。 は2回戦の戦で敗退。 この試合で松井が受けた は、が急遽記者会見を開くなど、にまで発展した。 明徳義塾監督のは試合後、「(星稜の練習を見て)高校生の中に一人だけプロの選手が混じっていた」とコメントしている。 最後になる秋の国体では監督が出したホームランのサインに応えホームランを打っている。 高校通算打率は. 450、本塁打は60本。 夏の県大会では、当時としては石川の1大会の 最高記録となる4本塁打を三大会連続で記録している。 高校通算60号はの戦の第4打席、高校最終打席で記録しチームを優勝に導いている。 ちなみに、「柵越えしたものがホームラン」という松井のこだわりから、ランニングホームランは数に含まれていない。 ライナー性の弾道で甲子園球場のバックスクリーンに運ぶ並外れたパワーや、打撃練習であまりにも柵越えを連発するため練習場のライトフェンス後方に特別のネットが取り付けられるなど、桁外れの話題性から「20年に1人の」と言われていた。 9月には・ で行われた日米韓3国親善高校野球大会に日本代表の一員として出場した。 松井は米国側からも大きな注目を集めており、同大会に米国代表として出場していたは、「まず驚いたのは彼は高校生なのにあり得ないくらい大勢のマスコミを引き連れていたことだ。 当時ボクは16歳でマツイは17歳。 その高校生を巡ってロックスターを取り囲むような騒ぎになるなんて、一体どんな怪物?だと思っていた。 それがマツイだったんだよ」と語っている。 その年のドラフト会議の目玉となった松井には報道陣が殺到し、11月になると星稜高校の校門前に毎日多くの記者やカメラマンが待機するようになった。 「このままドラフト本番を迎えれば、えらい騒ぎになる」との声が地元で上がり始め、ドラフト前には異例の「報道規制」が敷かれた。 ドラフト会議前には憧れの球団であるに加え、、、を希望チームとし、その他の球団から指名された場合はへ進学することをほのめかした。 巨人時代 [ ] 11月21日に行われたでは前述の4球団から1巡目指名を受け、抽選の結果交渉権を獲得した巨人に入団。 契約金は1億2000万円。 年俸は720万円。 は「 55」。 13シーズンぶりに巨人監督に復帰した長嶋が、、との抽選の末、松井の交渉権を引き当てた。 当時の松井は本心では阪神入りを熱望しており、ラジオで交渉権が巨人に決まったことを知ると、記者会見で複雑な表情を浮かべ、「阪神に行きたい、という希望がありましたから。 まだ整理もついていないけどその気持ちも次第に薄れていくと思う」と語った。 その後、長嶋から直接を受けて感銘を受け、すんなり巨人入りを決めた。 である彼の気を引くために、長嶋は監督就任会見の前に旧知の記者に「星稜高校の松井秀喜選手が大いに注目されていますが、監督はどうお考えですか? 」と質問するよう頼んでおき、「ほしいですね、この手で是非育ててみたい逸材です」と答えた。 これを自宅のテレビで見た松井父子は興奮し、巨人入りの意思が高まったという。 なお、この年のドラフト会議で、当初巨人フロントは松井ではなくのを指名する予定だったが、長嶋が松井の獲得を熱望したため松井指名に切り替えている (なお、その伊藤智仁はが率いていたから1位指名されて入団する。 入団会見で他の新人選手が抱負として憧れの選手名や具体的な成績目標を述べる中、松井は「()や(ブーム)に小さな子供たちの関心が傾きつつあります。 その中で僕はその子供たちに夢を与え、球場に直接見に来てもらえるような選手になれるよう頑張ります」と述べた。 、プロ初のキャンプでは150メートル級の場外弾を連発。 キャンプ2日目にはフリー打撃で13本の柵越えを放ち、「こんな高校生、見たことがない」とコーチに言わしめた。 高校時代はであったが、長嶋がへとコンバートさせた。 2月28日のでプロ初打席を迎え、当時ヤクルトに所属していた一つ上の石井一久と対戦するもカーブで三振となり、その時は焦りや恐怖を感じたという。 その後もプロの投球の速球に手こずり 、と凡打の山を築く。 オープン戦は53打数5安打、打率. 094に終わり、20三振は全体トップだった。 4月7日に長嶋から二軍落ちを通告され、公式戦開幕は二軍で迎えた。 二軍落ちを通告された際には、「落としたことを後悔させるように頑張る」と語り 、その宣言通り、の開幕戦で松井と同期新人のに入団した伊藤からホームランを放つなど12試合で. 375、4本塁打の活躍を見せ、5月1日のヤクルト戦()で「7番・」として一軍デビューを果たした。 初打席はからセカンドゴロ。 2打席目には同じく西村からライトフェンス直撃の二塁打を放ち、初安打初打点を記録。 翌日の試合では、9回裏にから内角の直球をライトスタンド中段に運びプロ入り初。 興奮の余り、試合後ロッカールームから引き揚げる際、足元はスリッパのまま「打っちゃった」と喜びを露わにした。 その後は各球団のマークに遭い、6月には二軍に降格するが、7月のフレッシュオールスターに出場して優秀選手賞を獲得し 、8月下旬に再び一軍に昇格するとヒットを連発し、高卒ルーキー新記録となる11本塁打を放った(の高卒ルーキー記録は1986年の清原和博による31本塁打)。 オフの契約更改では1060万円増の1900万円でサイン。 目標の2000万円には届かず、会見では渋い表情を見せた。 4月9日に行われたとの開幕戦で2本塁打を記録し、4月には自身初のを受賞した。 ではセ・リーグ史上最年少で4番を打った。 とのリーグ優勝を賭けたシーズン最終戦「」でも本塁打を放つなどチームのリーグ制覇に貢献。 迎えたではを破りチームは日本一、自身も2年目で20本塁打を記録した。 は22本塁打を放ち、初のを受賞。 8月24日の戦でレギュラーシーズンでは初の4番を任された。 ヤクルトが最高勝率・マジック1で迎えた9月30日にで行われた試合では9回裏二死で打席に立ち、その年のを受賞する及びにセンターフライに仕留められた。 この年のオフには、苦手な内角球を克服するために、身体に当たりそうな極端な内角球を打つ練習を行った。 その甲斐あって、翌年から成績が飛躍的に向上することになる。 後に、松井はこのシーズンオフが野球人生のターニングポイントだったと回想している。 は自身初の開幕4番スタートだったが、5月からはが4番に返り咲き、松井は3番に戻った。 その後チームの上昇と共に成績も上昇し、夏場には7月、8月と2か月連続で月間MVPを獲得するなど、に大きく貢献。 初のセ・リーグを受賞した。 リーグ最終戦まで、とを争っていたが、山崎に1本リードされて迎えた10月8日シーズン最終戦の中日戦では長嶋の配慮で自身初の1番打者として出場したが、4打席すべてでされてタイトルを逃した(結果は山崎が39本で本塁打王に輝いた)。 観客席の巨人ファンからは罵声が飛び交ったが、松井自身は「しょうがない。 タイトルを取れなかったのは、悔しいけど、(高校時代の)の方が悔しかった」と、比較的サバサバした様子だった。 それでも、22歳での38本塁打はに並ぶ年齢別最多本塁打記録。 また、同一投手からのシーズン最多本塁打のタイ記録の7本塁打をから放った。 この年の斎藤隆との対戦成績は25打数7安打で、安打のすべてが本塁打であった。 最終的に130試合に出場し、打率3割1分4厘、38本塁打、99打点の成績を残した。 この年は日米野球に出場し、敬遠されたことでも話題になった。 なお、この時の松井の敬遠以降は日米野球では日本の打者が敬遠されることは長らくなく、にがされるまでなかったという。 契約更改では倍増の1億6000万円で一発サインした。 高卒選手ではと並ぶ史上最短(当時)の入団4年目で1億円プレーヤーの仲間入りを果たした。 はのがFAの権利を用いて、巨人に入団し、清原とのコンビは「」と呼ばれた。 4月27日の広島戦で通算100本塁打を達成。 4月は好調で10本塁打を放つ好スタートを切った。 最終的に打率は3割をわずかに下回ったが、37本塁打を放った。 しかし、との本塁打王争いに1本差で敗れ、史上初めて2年連続して1本差で本塁打王のタイトルを逃すことになった。 打点は初めて大台を突破する103打点を挙げるが、これもに及ばず無冠に終わった。 は春季キャンプ中に左膝を痛め 、「左膝損傷」と診断された。 膝の不安を抱える中で開幕から4番に座ったが、初本塁打は11試合目まで遅れ、その間には32打席無安打というプロ生活最大のスランプにも悩まされた。 4月は打率. 190、2本塁打に終わり、5月2日には清原和博に4番の座を奪われた。 膝の痛みが和らいだ5月10日に久々の第3号本塁打を放つと、その後の12試合で9本塁打して月間MVPを受賞するなど本来の調子を取り戻した。 その後は順調に打ち続け、7月28日のヤクルト戦で通算150本塁打を達成。 最終的には34本塁打、100打点で自身初のタイトルとなる本塁打王、、のタイトルを獲得。 巨人で本塁打王と打点王の両方獲得は、1977年の王貞治以来21年ぶりの快挙であった。 一方で、左膝の故障は現役を通じて古傷として松井を悩ませ、周囲の筋肉を鍛えることでだましだましプレーを続けたが、その影響は右膝にも及ぶようになった。 は前年のでからアドバイスを受け、シーズン前に広角に打つことを意識したフォームに改造。 6月5日の横浜戦から6月10日の中日戦まで5試合連続本塁打を記録する。 9月21日の阪神戦では通算200本塁打を達成。 7月のオールスター第1戦では4試合連続本塁打(新記録)を放ったが、第3戦で代打出場した際にわき腹を痛め、7月30日の広島戦で遂に先発メンバーから外れた。 この時点で現役最多だった連続フルイニング出場が574試合(当時歴代3位)で止まる。 長嶋が松井に負担のかからない形で連続試合出場記録を尊重することを決め 、以後8月中旬までは記録のために1イニングだけ守備固めとして出場する。 このケガの影響が響いてと2本差で本塁打王を逃すことになるが自己最高の42本塁打を記録。 日本人のシーズン40本塁打は1989年の落合博満以来10年ぶり、巨人では1977年の王貞治以来22年ぶりの快挙であった。 シーズン終了直後の10月24日には、で初めての試合(第2戦)を生観戦している。 この経験は強く心に刻まれ、後のメジャーリーグ挑戦を決断する要因の一つにもなった。 は開幕から4番に座り、以後日本シリーズ、日米野球なども含めて、他の打者に4番を譲ることはなかった。 右小指をグリップにかける打法に変えたことで、あまり強くバットを握らずにリラックスして構えられるようになったことで打撃は凄味を増し、シーズン半ばまでは三冠王を狙える勢いで打ち続けた。 7月12日の広島戦で通算1000本安打を達成。 最終的に135試合全イニングで4番に座り、いずれも自己最高の打率3割1分6厘、42本塁打、108打点をマーク。 シーズン全試合4番出場は巨人ではの川上哲治以来50年ぶりの記録だった。 本塁打王、打点王、最高出塁率、シーズンMVP、日本シリーズMVP、ゴールデングラブ賞を受賞し、巨人の日本一の立役者となった。 なお、この年の日本シリーズMVP受賞によって川上哲治、、に次ぐ史上4人目の「レギュラーシーズン、オールスター戦、日本シリーズにおけるMVP獲得者」となった。 プロ野球界に最も貢献した人物に贈られるも初受賞した。 同年のでは、選抜の監督に「ゴジラはいいねえ。 バットスイングが速い」と称賛された。 この時点では「大リーグなんて、そんな」とメジャー挑戦に否定的だったが、「野球をやっていて、大リーグを全然考えないと言ったら、うそになるかもしれません」と2年後のFA移籍に含みを持たせた。 11月21日には県民栄誉賞を受賞した。 契約更改では、松井のメジャー流出を危惧した球団側が8年総額56億円という破格の長期大型契約を持ちかけたが 、松井は「一年一年が勝負という気持ちでプレーしたい」として単年契約にこだわり、球界最高(当時)の年俸5億円でサインした。 4月12日の中日戦に1000試合目の出場で通算250本塁打を達成。 5月3日の中日戦で当時史上5人目の1000試合連続試合出場を達成。 5月5日から8月13日までセ・リーグ歴代1位の65試合連続出塁を達成する。 9月27日、広島カープ戦で自身初の1試合3本塁打(3打数連続) を記録するなど9月は打撃好調で月間MVPを受賞した。 この年、初ののタイトルを獲得したが、全イニング出場での首位打者は王貞治、イチローに次ぐ史上3人目の快挙となった。 一方で、本塁打数はなかなか伸びず、20号本塁打を放ったのは8月7日であった。 8月まで年間30本に届かないペースで推移していたが、9月にようやく量産体制に入ると、自身初の1試合3本塁打を含む月間11本塁打と巻き返したが、最終的な本数は36本とやや数を落とした。 本塁打王のタイトルは当時本塁打王争いをしていたペタジーニに再び奪還される。 この年の松井は、打球が上がらずにホームランが出ないという悩みに悩まされていた。 この年の打撃について、松井は後に「あの年首位打者を取ったけど、打撃は最後まで狂ったままだった」と語っている。 権獲得が翌年に迫る中、下交渉では球団から5年総額50億円の大型複数年契約を提示されたが 、これを断り当時プロ野球史上最高額となる年俸6億1000万円(後に、佐々木主浩が更新)で単年契約した。 契約更改後の会見では、来期にFA権を行使することを明言し、「このまま巨人に残るか、アメリカに行ってみるか二者択一になる」と語った。 は開幕前、巨人がビジター用ユニフォームの胸ロゴを「TOKYO」から「YOMIURI」に変更したことについて、「なぜ巨人の伝統を大事にしないのかなぁ」と松井がコメントしたとが報じ、オーナーのが激怒するという騒動があった。 記事を執筆した記者の(後の松井の専属広報)が巨人担当を外れることで事態は収拾した。 「日本一」「三冠王」の2つを目標に掲げて10年目のシーズンをスタート。 開幕後間もない4月13日にFA権を取得。 7月9日にから通算300号本塁打を放つ。 28歳0ヶ月での到達は王貞治の27歳3ヶ月に次ぐ史上2番目の年少記録であり、1200試合目での達成は史上6番目の速さであった。 また、8月1日には4番打者としての連続出場を363試合に伸ばし、の記録を抜き当時の単独1位(後に、が更新)となった。 オールスターゲーム前までは、前年同様打球が上がらず76試合で18本塁打だったが、後半戦は64試合で32本塁打という驚異のペースで打ち続け、自己最多を更新する、史上8人目の50本塁打を記録する。 セ・リーグでは1985年の以来17年ぶり、日本人では1986年の以来16年ぶり、巨人では同じく1977年の王貞治以来の25年ぶりの快挙となった。 ペタジーニに9本差をつけた50本目の本塁打は2002年の本拠地最終戦の対ヤクルト戦(東京ドーム)で記録。 7・8月と2ヶ月連続で月間MVPを受賞。 9月7日の広島戦でプロ野球新記録となる5年連続100を記録した。 シーズン終盤までは打率3割5分台を維持し、目前だったが、シーズン終盤に調子を落とし、首位打者争いでにタイトルを譲った。 打率、本塁打、出塁率では自己最高の成績で、本塁打王、打点王、最高出塁率、シーズンMVPを獲得した。 なお、巨人ではこの年の松井を最後に日本人選手の本塁打王を獲得した選手は出ていない。 また、巨人の日本人左打者の40本塁打以上の選手及び打点王は2010年にが44本塁打を記録、2012年に打点王を獲得するまで現れなかった。 レギュラーシーズン終了後の10月11日には監督の原と 、16日には球団代表の土井とそれぞれ会談。 前監督の長嶋とも長時間会談し 、残留を要請されたが、結論は日本シリーズ後に持ち越した。 10月18日には、紙でが松井の獲得を狙っていることが報じられた。 とのでは、松井の安打数は4本に留まったが、チームは1990年の西武以来12年ぶりで球団 巨人として 初の4連勝のストレート勝ち 4勝0敗 で西武を下し、日本一の栄冠に輝いた。 なお2012年にMLBで引退したため、この日本シリーズが自身にとって現役時代最後の日本シリーズ出場となった。 11月1日にFA権を行使してMLBへの挑戦を表明した。 「最後の最後まで悩んで苦しかった。 何を言っても裏切り者と言われるかもしれないが、いつか『松井、行ってよかったな』と言われるよう頑張りたい。 決断した以上は命を懸ける」と決意を語った。 松井はFA宣言をするときに自らを「裏切り者」と発言し、松井の危惧の通り、裏切り者だと考えるジャイアンツファンは一定数存在したが、日本球界全体では松井の成功を祈っていた。 むしろ彼がそれだけプロ野球ファンのことを考えている証左だとする賞賛の声や、移籍決断に至るまでの彼の苦悩に対して同情する声は決して少なくないばかりか逆に多かった。 球団関係者は沈痛な面持ちで「球界の財産である松井選手のアメリカ(MLB)への流出を防ぐことができず、応援してくださるファン皆さんには何とお詫びしたらいいか……」と、まるで不祥事でも起こしたようなコメントを残した。 MLB球団との交渉にあたって、当初は代理人無しで交渉に臨む予定だったが、MLBの契約内容の複雑さを知った松井は方針を転換し、の代理人としてと大型契約を締結した実績があるを代理人に選定した。 テレムには「ヤンキースとだけ集中して交渉してほしい。 ヤンキースがダメだったら次のことを考えよう」と伝え、ヤンキースへの入団を熱望した。 ヤンキース時代 [ ] ヤンキース時代(2007年) 映像外部リンク 2002年12月19日にと総額2100万ドル(当時約25億4100万円)の3年契約に合意。 の新聞各紙は「がにやってくる」という大見出しをつけた。 1月14日にニューヨーク市内のホテルで行われた入団会見には、約300人の報道陣に加え、球団社長の、監督の、、ニューヨーク市長のらも出席した。 松井は「ヤンキースはメジャーの中でも素晴らしい伝統がある。 素晴らしいプレーヤーがたくさん在籍した球団。 自分の中でも一番刺激があるチームで自分の力を存分に発揮したかった」と語った。 巨人からFA権を行使して移籍したのは1994年の(横浜へ移籍)以来2人目であった。 海外FAは巨人史上初。 ヤンキース史上初のアジア人打者(日本人で初めてヤンキースとメジャー契約したのは投手である)である。 3月31日、公式戦開幕試合の戦に5番レフトで先発出場し、初回にから左翼前への適時打を放ち、初打席・初安打・初打点を記録。 4月12日にはメジャー初のサヨナラ安打を放つ。 7月に行われたにファン投票のア・リーグ外野手部門で3位に入り初出場を果たした。 日本人では1995年の、2001年の、に続く4人目のオールスターゲーム出場となった。 しかし、日本からのに助けられた形での選出で、現地メディアでは批判が起こり、試合ではスタメン出場を果たし1安打を放ったものの、ブーイングを浴びせられた。 また、スター選手とのバット交換用に日本から24本のバットを取り寄せたが、誰にも声をかけることも、かけてもらうこともされず、全て持ち帰った。 ヤンキースの新人としては67年ぶり3人目の100打点以上を記録した(1926年の、1943年の)。 地区シリーズではポストシーズン日本人初の本塁打を放った。 との第7戦では、8回裏にの適時打で同点のホームを踏んだ際に大きく跳び上がり、全身で喜びを表した。 との第2戦では、での日本人初本塁打を放った。 レギュラーシーズンでは雨天引き分けによる再試合があったため、新人かつヤンキースの選手としては21世紀になって初めてシーズン163試合に出場した選手となった。 しかし、本塁打数はわずか16本と、期待外れの結果に終わった。 それでも、はチーム最高の. 335、打点は主砲のに1差となるチーム2位の106打点を叩き出し、勝負強さを発揮した。 は前年16本塁打に終わったことを反省し、オフに大幅な筋肉増量に取り組んだ。 そのため松井の身体、特に上半身は一回り大きくなった。 それが功を奏し、重心の位置を下げてスタンスを広めにしたことにより 、左方向への本塁打が増加。 では本塁打と打点のチーム2冠王に輝いた。 東京ドームで行われたとの日本開幕戦に先立って開催されたヤンキースと巨人の親善試合では凱旋本塁打を放つ。 デビルレイズとの開幕2連戦では「2番・左翼」でフル出場し、2戦目には日本のファンの前で第1号本塁打を放った。 本土開幕戦以降は61打席本塁打なしであったが、4月24日のレッドソックス戦では、観戦に訪れた両親が見守る中で第2号本塁打を放ち、NPB・MLB通算350本塁打を達成。 その後は前年より大幅に速いペースで本塁打を量産し、6月4日には、前年より41試合早い53試合目で10号本塁打に到達。 5月最終週には二度目の週間MVPも受賞した。 6月19日、20日の戦ではメジャー移籍後初の2試合連続本塁打を放った。 前半戦だけで前年を上回る17本塁打に到達。 にはファン投票外野手部門での選出こそ惜しくも逃したが、で120万票を集めて選出され、2年連続で出場を果たした。 トーリ監督からはホームランダービーへの参加を打診されたが、「僕が出たらビールの缶が飛んでくる」と辞退した。 球宴明けの7月15日にはNPB・MLB通算1500試合連続出場に達した。 8月7日の戦でMLB移籍後初の2打席連続本塁打を放った。 15日の戦で前年のワールドシリーズ以来の4番に座ると、シーズン後半には4番打者に定着した。 9月30日のツインズ戦で日本人選手初の3試合連続本塁打を放った。 最終的には日本人メジャーリーガー史上最多で前年のほぼ倍にあたる31本塁打と同最高のOPS. 912を記録し、打率こそわずかに3割を下回ったが、三部門全てで前年を上回る好成績を残した。 ポストシーズンでは打棒が爆発し、11試合で51打数21安打、打率. 412、3本塁打、13打点、OPS1. 221を記録。 前年に引き続いての対戦となったレッドソックスとのではリーグチャンピオンシップシリーズ史上最多タイとなる14安打、28塁打を記録。 第3戦には、これまた最多タイの1試合5安打、5得点を記録するなど絶好調であったが、チームは先に3連勝しながらまさかの4連敗を喫し、ワールドシリーズ出場は逃した。 の開幕前はのタイトル獲得にも意欲を見せていたが 、4月9日から5月29日にかけて46試合、202打席連続本塁打なしという不調に陥った。 誕生日の6月12日には右足首を捻挫し、途中交代するアクシデントもあったものの、DHでの出場も挟んで粘り強く出場を続けた。 20日には自身3度目の週間MVPを受賞し(6試合で打率. 455、3本塁打、10打点) 、6月は全試合で出塁を記録して月間打率. 398、6本塁打、23打点、OPS1. 165と好調であったが、翌月の球宴出場は逃した。 7月28日には、を抜いてメジャーデビューから425試合連続出場の新記録を樹立。 3年連続で全試合出場を果たすと共に、メジャーでの自己最高となる打率. 305、116打点を記録。 松井自身は打率と打点で前年を越える成績を残したことに満足感を示したものの、本塁打の減少については来年の課題にすることを誓った。 348、3本塁打、OPS. 932と好調を維持してチームの地区優勝に貢献。 しかしとので2勝3敗で敗退し、松井自身も20打数4安打の打率. 200と抑え込まれてしまった。 敗退が決まった第5戦では、5打席全てに走者を置きながらいずれも凡退し、8残塁という屈辱的な結果に終わった。 ポストシーズンのシリーズ突破がかかった試合で5打席全てに走者を置いて凡退した打者は、第6戦でのに次いでメジャー史上2人目であった。 試合後のインタビューでは、「僕がチャンスで打てていれば、試合の結果は変わっていた」と悔しさを滲ませた。 この年限りで3年契約が切れるため、開幕前には総額3150万ドルの3年契約を提示されていたが、シーズン終了後に改めて交渉に臨むことを決め、オフに交渉を再開。 途中交渉が難航し、最終的にはヤンキースと4年総額5200万ドル(当時のレートで約61億8800万円)で延長。 「最高に幸せです」とコメントし、高評価での契約延長に満足感を示した。 GMのが「松井はグラウンドでの才能だけでなく、日本のファンをひきつける力がある」と述べたように、ビジネス面での貢献度も評価された形となった。 ウィキニュースに関連記事があります。 は開幕前に行われたの出場を辞退してシーズンに備えた。 しかしで古傷の左ひざ痛が再発したり、持病のに悩まされるなど、万全とは言えない状態であり、本人も「正直よくない」と不安を漏らしていたが 、開幕戦で1本塁打を含む4安打を放ち、幸先の良いスタートを切る。 4月18日にはデビュー以来500試合連続出場を達成。 5月11日に本拠地ヤンキー・スタジアムで行われたレッドソックス戦の1回表、の放った浅めのフライを滑り込んでキャッチしようとした際にグラブが芝生にひっかかり左手首を故障。 そのまま途中交代した。 1イニング守備に就かずに交代したため、巨人時代の1993年8月22日から続いていた連続試合出場記録が「1768」で途切れた。 ニューヨーク市内のコロンビア大メディカルセンター病院で即日の検査を行った結果、左手首()骨折と診断。 翌朝に手術が行われ、入りする。 チームメイトに与えたショックも大きく、は「松井の代わりなんて誰もいない」と語った。 8月17日には98日ぶりにベンチ入りし、30日にはフリー打撃を再開した。 9月12日のデビルレイズ戦に8番・で124日ぶりに先発出場。 満員の観衆からで迎えられ、4打数4安打の活躍で復活を遂げた。 復帰後は14試合で打率. 430を記録するなど好調で、最終的には51試合の出場ながら打率. 302をマークした。 チームも9年連続で地区優勝を果たしたが、とのでは16打数4安打、0本塁打、打点1と目立った活躍が出来ず、チームも2年連続でディビジョンシリーズ敗退となった。 2月に著書『不動心』(新潮新書)を刊行し、30万部を超えるベストセラーとなった。 開幕から4試合目の4月7日、戦の2回の第1打席目に捕ゴロで一塁へ走った際、左太股に一瞬つったような違和感を訴える。 その後2イニングはストレッチなどで様子を見ながら守備に就いていたが、太股の張りが消えないため、4回の第2打席目の直前で首脳陣は代打を告げ、そのままベンチ裏に退き、翌日故障者リスト入りする。 診断の結果、左太股の軽い肉離れが判明。 故障は順調に回復、故障者リストの期限が切れる4月23日に出場選手登録され、同日のデビルレイズ戦へ16日ぶりにスタメン復帰となった。 5月6日、本拠地でのマリナーズ戦で日本人メジャーリーガー2人目となるNPB・MLB通算2000本安打を達成。 日本から駆けつけた会長のの目の前での快挙達成であり、名球会入りを果たした。 当初は外野手の失策と記録されたが、後に二塁打に訂正され、直後判定に両チーム乱闘が起こった。 6月は打率. 252、3本塁打、OPS. 706と打撃不振に陥り、6月26日には地元紙から他4選手と共に、勝てない直接の原因として名指しされた。 7月に入ると一転して打撃好調で打ちまくり、出場28試合で打率. 345、28打点、OPS1. 145の成績。 長打率. 735、13本塁打、31得点はリーグトップだった。 8月2日には、7月のリーグに選出された。 8月5日、ヤンキースタジアムでの戦でメジャー通算100本塁打を達成。 終盤からプレーオフにかけて右膝の故障に苦しみ、9月は打率. 185、2本塁打、OPS. 689を喫した。 チームは3年連続でディビジョンシリーズ敗退、松井も4戦で打率. 182(11打数2安打)に終わった。 シーズン成績は25本塁打・103打点と一定の数字を残し、打点を多く叩き出すため、ゲームのキャラクターのように打点をパクパク呑み込んでいく連想から、この年にはチーム内で「」という愛称がついた。 しかしながら、本人はオフのインタビューで「今季は失敗しかなかった。 話になりませんよ」と振り返り、怪我や要所での凡退を繰り返したことに悔しさを滲ませた。 シーズン終了後の11月14日にニューヨークの病院で右膝の軟骨を除去するを受ける。 ヤンキース時代(2008年) 3月26日に出身の25歳日本人女性と内で挙式。 翌日に新婦の似顔絵と共に記者会見を行い、結婚を報告した。 相手が元会社員で一般人のため、プライバシーを考慮して、顔写真や氏名は公表していない。 レギュラーシーズンでは監督の交代もあり、開幕前はレギュラーが確約されなかった。 開幕は「8番・指名打者」からのスタートとなったが、序盤は打撃が好調で打順も上がり、一時は打率. 337で首位打者に立ち、4月から5月にかけては自己最長となる19試合連続安打を放った。 また、この年のは同年限りで閉場する地元で行われる最後のオールスターゲームということもあり、松井も「こんな舞台は二度とない。 出られれば一生の思い出になると思う」と出場を熱望し、地元のの公式サイト上でファン投票の呼びかけが行われた が落選した。 6月になっても好調を持続させ、首位打者争いをしていたが、6月18日の試合前、突然古傷の左膝に痛みが走り、患部に溜まった水を抜く治療を受けた後、監督のとGMのブライアン・キャッシュマンの意向で6月27日に故障者リスト入りした。 オフに手術した右膝を無意識にかばい、左足に負担が掛かっていたことが原因だった。 持ち上がった手術の話に関しては、7月17日の段階では「(手術を)球団に勧められれば受け入れる 」との考えを示していた。 しかし、2日後にキャッシュマンから手術を勧められた際には態度を一転させ、2時間もの説得にもかかわらず手術を拒否した。 その後、2ヶ月に渡る治療・リハビリののち、8月19日のブルージェイズ戦から復帰、主に「7番・指名打者」として出場を続けたが、万全には程遠く打撃は低迷。 チームのプレーオフ進出も困難になった9月後半からは再び控えに回り、21日の最終試合の先発出場を最後にシーズンを終えた。 9月22日に左膝のに踏み切った。 最終的に打率は3割を下回る. 294、安打数は99、本塁打も一桁の9本と寂しい成績に終わった。 2009年のワールドシリーズ優勝記念パレードにて は「3割30本100打点」 「4盗塁」 を個人成績での目標に掲げてスタート。 膝のリハビリを最優先したために、調整が遅れてしまい、スプリングトレーニングでも序盤は不振が続いたが、故障のため離脱したに替わって4番に座り、4月4日には、新の杮落としに花を添える本塁打を放つ等、4本塁打を放った。 開幕戦では4番・指名打者として出場し、7回には恩師であるの通算444号を超えるNPB・MLB通算445号となる2点本塁打を放った。 しかし打撃の調子はなかなか上がらず、5月以降も膝の腫れや太もも痛などの怪我が断続的に発生した。 ロドリゲスの復帰後は、打順が5番や7番に下がり、休養を入れながらの指名打者としての起用が続いた。 また、2009年は完全に指名打者としての登録になったため、指名打者制のないナ・リーグの本拠地球場()で行われるオールスターのファン投票にはノミネートされなかった。 5月下旬には守備練習を再開。 5月27日の戦では、NPB・MLB通算450号となる6号本塁打を含む2打席連続を放った。 しかしその後、18打席連続無安打を記録するなど打撃不振が続き、指名打者制が採用されないナ・リーグ本拠地での(交流戦)では全試合で先発を外れた。 交流戦期間中の6月17日にはが松井の獲得に向けた調査を進めていることが明らかになり、松井本人は「ありがたい」とコメントし、他にも巨人やオリックス、さらには独立リーグのが松井の獲得に意欲を見せていると報じられたが、「それと日本に戻るという話は別問題」と語り、メジャーで現役生活を最後までやり抜くことを強調した。 7月20日のオリオールズ戦では、2003年以来6年ぶり2本目のサヨナラ本塁打を放ち、7月は打率. 293、5本塁打、OPS. 967と好調を続けたが、直後から13打席連続無安打に陥った。 8月13日のマリナーズ戦では2本塁打を含む4安打5打点と爆発したが、直後に左ひざの状態が悪化してシーズン初の連続欠場となった。 しかし復帰後の8月21日のレッドソックス戦にて3点本塁打を2本放つなどして自己最高の一試合7打点を記録。 2日後のレッドソックス戦でも2本塁打を放つ活躍を見せた。 こうして8月は中旬から比較的好調を維持して打率. 281、8本塁打、25打点、OPS. 918という成績を残し、勝負強い打撃を見せた選手に贈られる「クラッチ・パフォーマー賞」を贈られた。 9月19日のマリナーズ戦で26号本塁打を放ち、を抜いて指名打者での年間最多本塁打の球団記録を更新。 メジャー移籍後2番目に多い28本塁打を放ち、チーム3位の90打点を叩き出す勝負強さで3年ぶりの地区優勝に貢献した。 レギュラーシーズン全日程終了後、「明らかに打率が低いのは反省点。 (28本塁打は)よくも悪くもない」と総括した。 また、4年ぶりに1度も故障者リストに入らなかったことを喜んだ。 米国のスポーツ専門誌「」が選定するア・リーグ・オールスターメンバーにも指名打者部門で選出された。 ポストシーズンには主として「5番・指名打者」として出場。 ミネソタ・ツインズとの第1戦では、試合を決定付ける2点本塁打を放った。 ロサンゼルス・エンゼルスとのでは初戦で2打点と活躍したものの、第4戦・6戦では無安打とやや調子を落とし、打順も6番に下がったが 、チームは4勝2敗でエンゼルスを下し、メジャー1年目の2003年以来6年ぶりにへと駒を進めた。 迎えた前年の覇者とのでは5番に復帰し、持ち前の勝負強さを存分に発揮した。 初戦は1安打のみに終ったが、第2戦では1-1の同点で迎えた6回裏に、から決勝本塁打を放った。 フィリーズの本拠地で行われた第3〜5戦は、が使えないためでの出場となった。 第3戦では2試合連続となる本塁打を放ち、第5戦でも左前打を放つなど、わずかな出番ながらも結果を出した。 ヤンキースの3勝2敗で本拠地に戻った第6戦では先発に復帰し、2回にから先制の2点本塁打を放つと、3回には中前適時打、5回にも右中間を破る適時二塁打で2打点ずつを加え、ワールドシリーズ・タイ記録となる1試合6打点をマークし、スタジアムのファンからは「MVP! 」の大歓声が沸き起こった。 9年ぶりの世界一に貢献し、13打数8安打3本塁打8打点、打率. 615、OPS2. 027で日本人選手初、フルタイムの指名打者としても初めてとなるに選出された。 また、「日本シリーズMVPとワールドシリーズMVPを共に受賞した初の選手」 となった。 ヤンキースとの契約満了に伴い、11月9日にとなり 、ヤンキースは松井との残留交渉は行わなかった。 エンゼルス時代 [ ] 2009年12月16日にと年俸600万ドルの1年契約を結び、エンゼルス初の日本人野手となった(投手ではが過去に在籍)。 監督のが直々に守備復帰の機会を確約してくれたことがエンゼルス入団の決め手となったという。 赤いユニホームから日本のマスコミには『 』と呼ばれるようになった。 2010年のヤンキースタジアムでの開幕戦、チャンピオンズリング授与式で元同僚から祝福を受ける松井 の序盤は4番に座り、シーズンを通して前年同様指名打者での出場を主とし、わずか18試合ながら2008年6月以来となる左翼守備にも就いた。 4度目となる開幕戦ホームランを記録するなど序盤は打撃好調で 、4月13日には移籍後初めてでの古巣ヤンキース戦に臨んだ。 試合前に行われたワールドシリーズ優勝記念リングの贈呈式では、観客からスタンディングオベーションで迎えられ、かつての同僚が一斉に松井に駆け寄って熱い抱擁を交わす場面もあった。 この時、松井に贈呈されたチャンピオンリングは偽物であったが、これはジーターがいたずらを仕込んだもので試合後には本物が渡されるまで松井は気付かなかった。 4月26日のインディアンス戦ではメジャーリーグ通算1000本安打を達成し、その後の打席でMLB通算500三振を喫した。 6月26日の戦では満塁本塁打を放ち、MLB通算150号を達成。 後半戦は打率. 309、11本塁打、37打点、リーグ5位のOPS. 955を記録し、最終的に打率. 274、21本塁打、84打点、チームトップのOPS. 820を残した。 しかし5月は打率. 184にOPS. 545、7月は打率. 228にOPS. 708、8月は打率. 304にOPS. 938、9月は打率. 347にOPS1. 024と、月によって調子の波が激しく、さらにシーズンを通して、右投手に対しては打率. 287にOPS. 861と例年並みの数値を残したものの、左投手に対して打率. 234にOPS. 687と低迷。 7月以降は相手先発が左投手の際の起用を見送られることが多くなり、チーム成績の低迷もあって、若手の起用が増えたことから守備に就く機会も減った。 前半戦は、松井に追い出される形でレンジャーズに移籍したが絶好調だったため、地元メディアやファンからはゲレーロと比較される形で批判を受けた。 オールスターゲームは地元での開催だったが、ファン投票の指名打者部門はゲレーロに230万票以上の大差を付けられた2位に終わり、「チャンスがあればと思っていたけど、仕方ない」と語った。 後半戦に入ると、一部メディアから「戦力外となる可能性もある」とも報じられ 、8月8日のタイガース戦では、相手投手が右投手であるにもかかわらずスタメン落ちし、ショックのあまり報道陣を避け、食堂にこもってテレビを見続けたという。 その後は打撃の調子が上がっていたが、9月8日のインディアンス戦では、新人時代の1993年以来17年ぶりに代打の代打を送られる屈辱も味わった。 シーズン終了後、エンゼルスGMのからは「こんなに調子の波が激しいとは思わなかった」と失望感を隠さない厳しい評価が下された。 11月2日に1年契約が満了しFAとなり、翌日エンゼルスは同月6日が期限となっていた独占交渉期間中に翌年の契約を提示しないと表明した。 アスレチックス時代 [ ] アスレチックス時代(2011年) 2010年12月14日にと年俸425万ドル(当時のレートで3億5700万円)で1年契約を結ぶ。 入団会見では「先頭を切ってみんなを引っ張っていけるようなプレーをしたい」と意欲を口にした。 松井にはアスレチックス以外にも数球団が関心を示していたが、正式な条件提示を行ったのはアスレチックスのみであった。 のスプリングトレーニング中はとに悩まされて一時別メニュー調整となり 、3月21日の夜には宿舎で転倒し、翌日には顔面傷だらけで球場に現れるという一幕もあった。 オープン戦は過去3年では最多の22試合に出場したが、打率. 169、1本塁打、2打点、OPS. 486と低調な成績だった。 2000本安打達成時と同じく、の前で記録を達成することとなった。 5月3日のレンジャーズ戦では2年ぶりのサヨナラ本塁打を放ち、「今日のようなプレーで、(で)被災した方に少しでも元気を届けられれば」と語った。 ところが、その後は不振に陥り、5月には月間打率. 197と低迷。 対戦チームの先発が左投手の試合では先発を外されることが多くなっていたが、6月に入ると、右投手相手でも先発を外れることが増えた。 これについて、松井は「スランプを脱するには、試合に出る必要がある」と歯がゆさを滲ませていた。 地元のテレビ局からは、DH制の無い交流戦が始まる6月21日までに出場機会を与えても復調しなければ、解雇すべきだという厳しい報道がなされた。 しかし、6月9日に監督のが解任され、が監督代行に就任して以降は相手投手の左右に関わらず、主に「3番・DH」で先発起用されるようになる。 メルビンは、マリナーズ監督時代から松井の進塁打を打つ能力やを選ぶセンスを評価していたという。 監督交代後初の試合となった6月10日のホワイトソックス戦で左腕のから5月3日のサヨナラ弾以来となる4号本塁打を放つと 、6月17日のロイヤルズ戦でNPB・MLB通算499号となる6号本塁打を放つまで、7試合で打率. 304、3本塁打と復調の兆しを見せた。 21日のメッツ戦ではDHが使えないため、移籍後初めて外野守備に就いた。 しかし、その後は再び調子を落とし、前半戦終了時点での打率は. 209だった。 本塁打も長らく出ていなかったが、7月20日のタイガース戦で第7号本塁打を放ち、NPB・MLB通算500本塁打を達成(巨人時代の10年間で332本、メジャー9年目で168本)。 王手をかけた時点では記録に関心を示していなかった松井だが 、1カ月以上も足踏みしたことについては「ちょっと時間がかかりすぎた感じ」と語った。 試合後にはNPBに復帰せずメジャーで現役を終える考えであることを口にした。 7月25日には6年ぶりとなる7月第3週の週間MVPを受賞。 7月は打率. 365、3本塁打、OPS. 997を残し、チーム月間MVPを受賞した。 9月10日のレンジャーズ戦でNPB・MLB通算505本塁打となる第12号本塁打を放ち、日本人通算本塁打で歴代単独7位となったが、8月と9月は打率. 244、3本塁打、OPS. 640と再び調子を落とした。 シーズン終了直前の9月26日には、報道陣に対して「またゼロからやり直すだけ」と来シーズンへの意気込みを語ったが、一方で「どこからも必要とされなければ、引退するしかない」という心境も吐露した。 後半戦は打率. 295、6本塁打、OPS. 779と、前半戦からは大きく数字を上げたが、シーズン通算では打率. 251、12本塁打、チーム2位の72打点、OPS. 698と100試合以上出場ではプロ入り後ワーストとなる成績でシーズンを終えた。 また、2008年以降では最多となる27試合で守備に就き、打者に不利な球場として知られる本拠地では打率. 234、4本塁打、OPS. 663と低調な成績に終わったが、ロードでは打率. 267、8本塁打、OPS. 729を残した。 シーズン最終戦終了後のインタビューでは「体調という意味では凄く良いシーズンだったけど、いい結果は出なかった。 納得いったところなんてない」と語った。 10月31日にとなった。 このオフにはアスレチックスからの残留要請の他、などからのオファーもあったが、条件面などで折り合わなかったとされ 、結局プロ入り後初めて所属球団未定のまま越年することとなった。 は年明けから古巣ヤンキースや、 など様々な球団が浮上したが正式な契約には至らず、プロ入り後初めて未所属のままで開幕を迎えた。 レイズ時代 [ ] レイズ時代(2012年) 2012年4月30日にとマイナー契約を結んだことが発表された。 5月1日にはマイナー契約としては異例の入団記者会見を行った。 AAA級では13試合で打率. 170、0本塁打と調子が上がらなかったが、主力選手に故障者が相次いだチーム事情もあり、29日にメジャー昇格。 背番号については、「55」は主力投手のが付けていたため、「 35」を付けることになり、プロ入り後初めて背番号が変わることになった。 昇格当日のホワイトソックス戦でから1号2点本塁打、更に、6月1日のオリオールズ戦でから、観客席最上段に飛び込む2号2点本塁打を放ったが、それ以降は本塁打なし。 結果的に、この本塁打が現役最後の本塁打(MLB通算175号、NPB・MLB通算507号)となった。 長打も、6月9日のマーリンズ戦での二塁打を最後に出なくなった。 それでも監督のは復調を信じ、また、ら主力が依然故障という事もあり、6月の時点で出ていたという戦力外の話については、「100打席打った結果で判断する」ことを決め 、先発での起用を続けた。 6月には一塁の守備練習をしたり 、大量ビハインド場面で投手としての救援登板を自ら志願する場面もあったが 、外野手や指名打者、代打以外での出場機会はなかった。 7月1日のタイガース戦では、3打数2安打と活躍したものの、4番右翼で先発出場した翌日7月2日ヤンキース戦の右翼守備で、打球の目測を誤って落球した上、ファウルを追った際に左太もも裏を痛め、一度も打席に立つことなく途中交代を言い渡され 、それ以降、出場機会は激減した。 結果的に、7月1日の第3打席が現役最後の安打(MLB通算1253本目、NPB・MLB通算2643本目)、7月2日が4番スタメンとして出場した現役最後の試合となった。 7月下旬に入ると、凡退の度に本拠地のファンから大きなブーイングが起こるようになった。 結局、7月19日のインディアンズ戦がスタメンで守備に就いた最後の試合(6番ライト)、7月22日のマリナーズ戦がスタメンとして出場した最後の試合(6番指名打者)、7月23日のマリナーズ戦が現役最後の出場試合(代打、ショートフライ)となった。 出場機会のなかった7月24日のオリオールズ戦試合後にマドン監督から戦力外を通告され、翌25日に球団からが発表された。 8月1日には本人の希望により自由契約となり 、他球団からのオファーを待ったが、ポストシーズン出場のための移籍期限となる8月31日までに獲得に動く球団はなかった。 結局、現役最終年となるこのシーズンは、出場34試合で打率. 147、2本塁打、7打点、OPS. 435という過去最低の成績に終わった。 退団後は去就について「何も決めていない」としていた。 引退 [ ] 2012年12月27日にニューヨーク市内のホテルで緊急記者会見を開き、2012年シーズン限りで現役を引退することを明らかにした。 引退を決断した理由として、「命がけでプレーし、メジャーで力を発揮するという気持ちで10年間やってきたが結果が出なくなった」と述べ、NPB復帰を選択しなかったことについては「10年前の日本での自分の活躍を想像するファンの期待に応える自信を持てなかった」と説明した。 一番思い出に残っていることは「たくさんある」としながらも、「長嶋監督と二人で素振りした時間」を挙げた。 自身の引退後については「ゆっくりしながら今後のことを考えたい」という姿勢を示した。 同日、巨人オーナーのは松井を将来的に巨人のとして迎え入れたい意向を示し、既にヤンキースへのコーチ留学を打診したことを明らかにした。 松井の引退を受け、数多くの球界関係者が談話を発表した。 松井の恩師であるは「現代で最高のホームランバッター」と賛辞を送った。 のやのといった政府要人からも引退を惜しむコメントが寄せられた。 松井の引退は日本国内での速報から間もなくして各国でも報じられ、メディアやファンから引退を惜しむ声が相次いだ。 ヤンキースでチームメイトだったは球団の公式サイト上で「ヒデキは特別な存在」と惜別の言葉を贈り、ヤンキースオーナーのも「ヤンキースの成功に大きく貢献し、常にヤンキースファミリーの一員として愛されるだろう」と称えた。 ヤンキース時代の監督のは「松井の監督だったことを誇りに思う」と称えた。 また、の記者のジョン・ヘイマンは「松井はヤンキースで最も人間的に優れた人物の1人で、誰からも愛された」と賞賛し 、の記者のジャック・カリーは「松井は私が取材した選手の中でも最高級の振る舞いをする選手だった」と絶賛した。 紙は2ページに渡って松井の引退に関する記事を掲載した。 引退後 [ ] 3月上旬にはが誕生したことを明かす。 4月1日の午後には、内閣官房長官の菅義偉が記者会見で、日本政府がを長嶋茂雄と同時に授与する方向で検討していることを明らかにし 、 16日に国民栄誉賞の授与が正式に決定。 5月5日、で行われた読売ジャイアンツ対戦の前に松井のセレモニーと授与式が行われ、のから国民栄誉賞が授与された。 その後の始球式で松井は巨人時代のユニフォームを着用し、長嶋を打者、巨人監督のを捕手、安倍を審判に迎えて始球式を行った。 5月30日にはが、チームのからちょうど55試合目のホームゲーム(雨天延期などのため、セレモニー当日は55試合目とはならなかった)となる7月28日の戦で引退セレモニーを行うことを発表。 7月からはヤンキース傘下のショートA級でを務める。 7月16日には、の中継で、現地のからゲスト解説を務めた。 7月28日には、ニューヨーク・ヤンキースと1日限定のマイナー契約を結び、この日のレイズ戦の試合前にのグラウンド上で引退セレモニーを行い、松井はヤンキースの一員としての生涯を終えた。 9月22日には同シーズン限りで引退するの引退セレモニーに出席した。 2月1日から13日までの春季キャンプで臨時を務めた後 、2月19日から3月4日までニューヨーク・ヤンキースのスプリングトレーニングでゲストコーチを務めた。 5月24日にはで行われるの記念試合にヤンキースの代表として出場。 本塁打競争にも参加し 、記念試合ではから本塁打を打つなど3打数1安打1打点の活躍を見せた。 6月22日にはヤンキースのオールド・タイマーズ・デーに出席し、記念試合では試合途中から投手として登板もした。 8月25日、ヤンキース時代の恩師であり、背番号「6」がヤンキースの永久欠番に認定されたの記念セレモニーに出席。 また、9月7日には盟友の引退セレモニーに出席。 同年のヤンキースタジアムでの最終戦となった9月25日には、NHK BS1での中継内でヤンキースタジアムからゲスト解説を行った。 試合はジーターのサヨナラタイムリーでヤンキースが劇的な勝利をおさめた。 2月3日・4日の2日間に渡って古巣の巨人軍キャンプを視察。 2月5日から7日まででのキャンプを視察した。 3月11日にヤンキースGM特別アドバイザー就任(契約期間は1年)。 キャンプ地のフロリダ州-タンパでブライアン・キャッシュマンGM同席のもと、記者会見を行い、「ヤンキースでは素晴らしい時間を過ごした。 今度は若い選手の力になれるように頑張っていきたい。 僕にとっても大きなチャレンジ」と抱負を語った。 同月21日には東京ドームで行われたオープン戦の巨人対戦でデレク・ジーターと共に始球式を行った。 試合後には同球場で東日本大震災の被災地の小中学生を支援する慈善イベント「トモダチ チャリティー ベースボールゲーム」 に参加。 チャリティーイベントの最後に行われたヒッティングチャレンジでは「せっかくこれだけのお客さんが集まってくれたので、僕が打ちます」と自らに立ち、氏が投じた5球目を右翼スタンドへ放り込んだ。 もヤンキースGM特別アドバイザーとして活動。 4月5日にはヤンキースとアストロズの試合にて日本人としては史上初となるヤンキースタジアムでの始球式を行った。 1月上旬に次男が誕生したことを明かした。 ヤンキースGM特別アドバイザーとして活動を継続。 1月15日 、は、2018年度の競技者表彰プレーヤー部門の顕彰者として松井を選出したことを発表した。 なお、松井は(2014年度)の45歳4ヶ月を更新する43歳7ヶ月での最年少野球殿堂顕彰者となる。 この年はの殿堂入り候補資格も得たが、1月24日に行われた記者投票では4票の獲得(得票率0. 9%)にとどまり、1年目で殿堂入りの資格を喪失した。 ヤンキースGM特別アドバイザーとして活動を継続している。 2018年8月5日に始まったの開幕試合、星稜(石川)-()に先立ち、奇しくも当星稜高校のOBとして松井が始球式に登場したが、ワンバウンドの投球となり頭を抱え苦笑いを浮かべた。 なお、この時のでのテレビ中継には星稜高校野球部名誉監督の山下智茂が解説者として出演しており、松井の始球式を見届けている。 始球式終了後の松井は開幕戦を終始ネット裏で観戦し、結果9-4のスコアで星稜が勝利した直後、松井は直立不動の姿勢で星稜高校の校歌を歌唱。 さらに、松井の隣席にはかつて星稜高校同期生のチームメートで、現・記者の福角元伸が座っており、母校勝利時に松井自ら笑顔で福角記者へ「オイ、歌うぞ!」と校歌斉唱を催促していた。 選手としての特徴 [ ] 打撃 [ ] スイングする松井(2008年) NPB・MLB通算で507本の本塁打を打った。 時代は、日本野球界を代表する長距離打者で、10年間で332本塁打を放った。 卒業から10シーズンでの本塁打数は、の356本に次ぐ歴代2位で、300本以上打った打者は王と松井の2人だけである。 でも、通算4000打数以上の選手では王貞治に次いで歴代2位となる通算. 996。 MVPを獲得した以降の7シーズンは、主砲に必要な指標である本塁打・打点・長打率・OPSで、やという他球団の外国人助っ人とリーグ1位を争った。 最多本塁打と最多打点のタイトルを何度も獲得し、首位打者もに獲得した。 MLB移籍後は、勝負強さが魅力の中距離打者として活躍した。 タイトル争いをする程の数値は残せなかったものの、本塁打・長打率・OPSではシーズン記録・通算記録共に日本人メジャーリーガー歴代1位、打率・安打・出塁率は、シーズン記録・通算記録共にイチローに次ぐ歴代2位である。 また、本塁打・打点・長打率・OPSでリーグ20位以内を記録したことがあるのは松井だけである。 また、打者が打席あたりに産み出した得点の傑出度であり、リーグごとの得点環境やも考慮されるため一律の条件で打者を評価する事が出来るや、パークファクターも考慮され、リーグ平均からの傑出度を測るでもシーズン記録・通算記録共に松井が1位である。 打撃については「楽に、なおかつ正確にスイングする」、「ゆっくり、ボールを見極める間合いをつかむ」、「左の軸足から、踏み出す右足にスムーズに体重移動する」、「140キロのボールを130キロぐらいに見えるぐらいボールをゆっくり見る」などということを挙げている。 日本時代は狭いを本拠地にしていたが、広いやでも本塁打を量産していた。 MLB移籍前は「メジャーでもバッターでありたい」と語っていたが、MLB移籍以降は本塁打が減り、自らを「メジャーでは中距離打者」と評すことが多くなった。 各種データからも、強打者から巧打者への変身が見て取れる。 NPB時代は5度のOPS1. 000超えを果たしたが、MLB移籍後はの. 912が最高であり、も2004年とを除いて. 500を切っている。 また、NPBよりも外に広いストライクゾーンと、本人曰く「見たこともないボール」という打者の手元で微妙に変化しながら外角に落ちる球()にも苦しめられた。 そして、「最大の問題」として、右利きの左打者であるため左手で打球を押し込む力がどうしても弱くなってしまうことを挙げ、「メジャーでホームランを打つためには外角の球を逆方向に打てる技術とパワーが必要。 そのためには左手の押し込みがきちっとできないとダメなんです」と語っている。 これらの要因が重なって、ホームラン数はNPB時代に比べて大きく減少した。 スプリングトレーニングでの松井(2006年) MLB2年目以降は、NPB時代のようにボールを前で捉えるのではなく、出来るだけ体に近付けてから確実にバットの芯で捉えるスタイルへと切り替えた。 また、ウェートトレーニングなどでも左手を重点的に鍛え、左手で箸を持つなどの努力を重ねた。 外角のボールに対しては、「打てないボールは、打たなくていい」と割り切ると共に、レフト側に強く打ち返すという気持ちを持つことで、次第に克服していった。 こうしてMLBに適応していった松井だが、ボールを体に近付けてから打つスタイルに変えたことで飛距離が出にくくなり、NPB時代のような圧倒的な本塁打数を記録することはなくなった。 本塁打よりも、最もチームの勝利に直結するにこだわるようになり、MLB在籍9年間で4度も100打点以上を記録している。 元MLBコラムニストのラリー・ロッカは「松井はゲームに勝つために必要なさまざまな武器をもっている。 それはホームランを40本打つよりも重要なことだ」と評価している。 それでも日本人選手では唯一、MLBでのシーズン30本塁打と5度のシーズン20本塁打以上を記録。 2004年には、アジア人でも唯一の31本塁打を放ち、翌2005年は打率、本塁打、打点の三部門全てで日本人トップの成績だった。 このはMLB3年目であったが、日本人史上初となるMLB通算50号を放ち、(5年目)には100号、(8年目)には150号を放った。 にはイチローがMLB通算100号に到達したが、MLBで通算100本以上の本塁打を打っている日本人はこの2人だけであり、現在、50本以上を打っている日本人も他には現れていない。 現役最終年となる2012年には2本の本塁打を放ち、MLB通算175本で現役引退した。 現役時代は、度々本塁打へのこだわりを滲ませる発言もしており 、2009年開幕前には、打率よりも本塁打にこだわる本来の姿に戻ることを明言していた。 同年は本塁打にこだわる姿勢に戻り、MLB7年目にして16. 3打数に1本という自己最高の本塁打率(リーグ7位)を記録し、プレーオフでも4本塁打を放つ活躍を見せた。 これは、MLB在籍期間が長くなり、MLBの投手が投げる球の軌道にも慣れ、再び体の前でボールを捉えることが出来るようになってきたからだという。 しかし、翌2010年は衰えを見せ、本塁打数・本塁打率共に悪化。 は、怪我で長期離脱したとを除いて、MLB移籍後最低であった2003年の16本を下回る12本に終わり、2012年は、MLB昇格後7打席で2本塁打を放ち意地を見せたものの、戦力外通告を受けるまでの96打席で本塁打が出なかった。 ヤンキース時代は、左打者にホームランが出やすいを本拠地としていたが、球場に関係なく本塁打を放っていた。 2009年は28本塁打のうちヤンキー・スタジアムで放ったのは半分以下の13本塁打で、残りの15本塁打はビジターで放った。 前述のように、右投左打の打者であることから「どうしても左手が弱い」と自己分析しており 、左方向へ流し打つ打球はあまり伸びがない。 ヤンキース時代7年間で放った140本塁打のうち、左方向への本塁打は10本にも達しない。 不調時には打球が上がらずに、内野ゴロが増える傾向にある。 日本時代の2001年や2002年の前半も打球が上がらずに苦しんだ経験がある。 30に達し、全打球に占めるゴロの割合は54. 7パーセントに達した。 一方で、フライの割合は23. 8パーセントに過ぎなかった。 これはゴロが多いことで知られるとほぼ同じ数字であった。 89〜1. 36の範囲で推移している。 打席に立つ松井(2008年) 打率についてもNPB時代の通算は3割を超え、2001年にはのタイトルも獲得している。 MLBでも2005年に打率. 305を記録、この年はイチローの打率を上回った。 それ以外の年もまでは3割前後の打率を残している。 に優れており、打席ではしっかりとボールを見極め、無闇に早打ちはしない。 早いカウントでのボール球に手を出すことは少なく、2ストライクに追い込まれても簡単にはあきらめない。 三振の数もあまり多くない。 「全ての打者に共通するのは打率」という意識を持っており、本塁打数よりも打率を調子・相性の判断基準にしている。 特に苦手としているコースが無いことも安定した打率を残せる要因であったが、2009年は外角球の打率が大幅に低下し、ヒットゾーンが限られたコースに狭まった。 また、引っ張る打球の率が上昇し、いわゆるプルヒッターとしての度合いが強まった。 そのため、夏場以降は相手チームから右方向への打球に備えた守備シフトを敷かれるようになった。 2009年はそれまで得意にしてきた速球に対する成績も低下し、外角球への対応と併せて打率低下の要因になったと見られている。 基本的にスロースターターであり、4月、5月は低打率に苦しむこともあったが、後半戦には調子を上げた。 MLBでの通算成績も、4月、5月のは. 700台であり、6月以降は. 800を超えている。 特に、7月は通算. 309、OPS. 916と得意にしている。 左打者ではあるが、対左投手も苦にしないことで知られた。 MLB1年目のは、対右投手と対左投手の打率は共に. 287であり、翌こそ対右投手が. 314、25本塁打、対左投手が. 265、6本塁打とバラつきが目立ったが 、2005年は対右投手が. 281、15本塁打の成績だったのに対し、対左投手では. 354、8本塁打と打ち込んだ。 2009年も左投手から本塁打を量産し、左打者としてはと並んで両リーグ最多タイとなる13本塁打を左投手から放った。 しかし、2010年は対左投手の打率が低迷し、シーズン後半は相手先発が左投手の時はベンチを温めることが多くなった。 2011年は対右投手の4本塁打、OPS. 654に対し、対左投手は8本塁打、OPS. 795と再び強さを発揮した。 MLB10年間の通算では、対右投手は3534打席で打率. 281、119本塁打、OPS. 831、対左投手は1532打席で打率. 284、56本塁打、OPS. 802となっている。 打球を見つめる松井(2008年) 投手との相性については「相手との相性は考えない。 投手によって、ある程度狙い球を絞って打席に入るだけ」と語っている。 対戦する投手を「どんな球種を持っているか」、「何を使って空振りさせようとしてくるか」、「どういう感じで術中にはめようとしてくるか」といった大枠でタイプ分けし、球種の代表的な使い手として知られる有力投手や対戦機会の多い投手に当てはめて対戦に臨んでいたという。 「いわゆると言われるような緩い球速で変化の大きい変化球よりも、系や系といった系の芯を外す球種の方が厄介」と述べており 、こうしたムーヴィングファスト系の球種を操ったとを『最高の投手』として挙げている。 NPB時代には、を苦手にしていた。 にはに13打数無安打に抑えられたが、翌2000年に遠山から本塁打を含む3安打を放つと、2001年以降は逆に打ち込んだように、努力・工夫を積み重ねて苦手投手を克服する忍耐強さを持っている。 MLBに在籍した10年間で計782人の投手と対戦したが、30打席以上対戦している投手は24人である。 その中で対戦成績のが1. 000を超えている投手は、(1. 213)、(1. 189)、(1. 118)、(1. 033)、(1. 009)の5人である。 それ以外では、(26打席で1. 542)、(24打席で1. 378)、(23打席で1. 379)、(21打席で1. 521)と特に相性がいい。 逆に分が悪いのが(. 454)、(. 502)、(. 531)、(. 552)である。 それ以外では、(24打席で. 439)、(24打席で. 426)、(21打席で. 267)と特に相性が悪い。 また、全投手中最多の69回対戦しているのボーラー、に対しても苦手意識を持っていた。 ウェイクフィールドに対しては、通算62打数13安打の打率. 210、OPS. 645であり、「あの球は打てない。 だって、あんな球を投げられる投手がいないんだから、練習のしようがないんだもの」と感服している。 また、MLB初安打を放った相手であり、「最高の投手」と敬意を払ったロイ・ハラデイとはウェイクフィールドに次いで2番目に多い67回の対戦があり、63打数14安打の打率. 222ながら、ジェームズ・シールズと並んで全投手中最多の4本塁打を放っている。 以前はハラデイを大の苦手にしていたが、晩年は苦手を克服した。 対戦機会が多いハラデイに対しても、対戦する時は狙い球を絞るようにしているという。 での出塁が一般的な打者に比べて多い。 は4度の打撃妨害を受けたが、これはMLB全体で(5度)に次いで2番目に多い数字だった。 は毎年微妙に変えていた。 プロ初年度はグリップを低くして構えていたが、1年程で首の付け根の高さに修正。 30本以上のを量産しだした頃は、投手に対してバットを垂直に立たせた状態。 50本でを獲得した2002年には、それまでより少しバットを傾けて腰のねじりも大きくなっていた。 メジャー移籍後もこの習慣は続き、左手首の骨折から復帰した以降はがに股に立って尻を突き出したようになり、2010年からは左方向へ打つことを意識するために、グリップを首の付け根より高く構えて外角の球でも体の近くでミートするようにしていた。 走塁 [ ] 2ケタ盗塁を記録したことはないが、100m走のタイムは11秒台を記録したこともあり、MLBの中でも遅い方ではなく 、移籍当初は一塁到達まで4. 15秒と左打者としては平均のタイムだった。 晩年は相次ぐ脚の故障により満足な走塁を行うことが難しくなったため、走塁と守備について一部より「三流」という声も上がった。 一方で両膝を痛めた晩年でも、全力疾走は怠らなかったため、ヤンキースの選手曰く「よりは速い」と言われた。 走塁中のアクシデントを防ぐために、日頃からのの手入れを熱心に行っていた。 守備 [ ] 左翼守備に着く松井(2007年) アマチュア時代は捕手や投手を務めていたこともあったが 、入学後は内野手に固定され、最終的にを務めた。 本人としては三塁手にこだわりがあったが、プロ入り直後にへのコンバートを命じられる。 当初は左翼だったが、翌年右翼に転向し、最終的にとして固定された。 2000年から2002年まで3年連続でを獲得した。 時代もある時期までは三塁手復帰を熱望し、再コンバートが度々話題となったが、実現しなかった。 1998年には・強肩賞を受賞するなど、日本時代は肩は強い方であると言われてきたが、ヤンキース移籍後は「しっかりとした姿勢から投げる時は力強い送球を見せるものの、安定したツールを持つ中で唯一の弱点」と評されるようになったことに加え 、ヤンキース移籍後は中堅のレギュラーにがいたため、主に左翼手として起用されるようになった。 2011年シーズンまでの9年間で、左翼手として609試合、中堅手として77試合、右翼手として7試合に先発出場している。 メインの守備位置である左翼では5163. 1イニングで24、. 983、(RF、9イニング当たりのアウト達成数)2. 05、39という数字を残している。 メジャー移籍後は左翼手へのコンバートもあり、最初の2年間は苦戦したが、それ以降は多くの守備指標を向上させた(詳細は後述)。 メジャー移籍後は巨人時代とは打って変わって守備でも派手なプレーをするようになり日本時代の関係者を驚かせたが、本人は人工芝の東京ドームでは無理なプレーができなかっただけであり、日本でも甲子園や広島市民球場では同じようなプレーをしていたつもりだと説明した。 2007年以降、ヤンキースが守備重視の方針を掲げたこともあり、故障がちになった松井に代わって、が左翼手のレギュラーとして起用されることが増えたため 、指名打者での出場が増えた。 2008年6月に左膝を痛めてからは指名打者専任となっており、同年6月16日のアストロズ戦で左翼を守ったのが、ヤンキース時代では最後の守備機会となった。 一時はへのコンバート案も出されたが、ヤンキースGMのブライアン・キャッシュマンに却下された。 特に2009年はプロ入り後初めて一度も守備に就く機会がなく、2010年4月8日の対戦で2年ぶりの公式戦守備に就いた。 フライを捕球する松井 守備に関する技術では、2004年に『スポーティング・ニュース』誌の記事で捕球後の送球を絶賛された。 数はリーグの左翼手の中でも多いほうであり、本人は本塁での補殺を「外野手として最高の見せ場」と捉えている。 一方で、守備範囲などを含めた総合守備指標では評価が低かった。 が考案し、現在米国で最も広範に用いられている守備指標の1つ「(Ultimate Zone Rating)」(同一シーズンの同一リーグにおいて同一ポジションにおける平均的な選手と比較し、失点をどのくらい防いだかを示す指標)は通算で-77. 3(左翼で-65. 5、中堅で-10. 6、右翼で-1. 2)という低い数値を喫し、記者のがUZRを基準に選んだ2000年代のワーストグラブ(左翼手)に選出されてしまった。 でも外野手として通算-27、左翼手として通算-18と平均を下回った。 上述のUZRやDRSのように比較的ポピュラーな総合守備指標では通算で平均を大きく下回る数値を喫したが、守備指標によっては意外な結果も表れることもあった。 例えば、「」のDavid Pintoが考案した「PMR(Probabilistic Model of Range)」によると、2007年は好守で知られると大差がなく、正左翼手の中ではトップクラスという分析結果が出た。 連続試合出場 [ ] 連続試合出場は、の故障で記録が途切れるまで、NPBで1250試合、MLBで518試合(MLBでデビュー以来518試合連続出場は、日本人選手としては歴代1位)、日米通算1768試合を数えた。 には「本塁打より、むしろ連続試合出場」と話す など、連続試合出場には並々ならぬこだわりを持ち、「遠いところからわざわざ来てくれるファンのために」という考えによって休養日にもや、守備交代でわずかな時間でも出場し、2006年のまで記録を維持した。 しかし、地元ニューヨークのメディアからは「記録より、疲れた時には休んだ方がチームのためになる」と、連続試合出場に懐疑的な声が上がったこともあり、監督のも「連続試合出場記録を途切らせて悪者にはなりたくないからな」と発言したこともある。 このように、連続試合出場に並々ならぬこだわりを持っていたが、2006年の骨折直後には、「心の中で怯える自分がいた」と記録がいつか途切れるかもしれないことに大きなプレッシャーを感じていたことを明かした。 それと同時に、連続出場をサポートしてくれたトーリ監督に感謝の意を示した。 評価 [ ] 本塁打を放ち三塁ベースを回った松井(2008年) 打撃についてはメジャー移籍後も概ね高い評価を受けている。 フリーエージェント(FA)移籍の際、機構との労使協定に基づいて選手評価の資料として使われるPLAYER RANKINGS評価(米大リーグ公認の記録専門会社「エライアス」が過去2年間の成績を独自の算出方法で計算して得点を付けたもの)では、2003-2004シーズン 、2005-2006シーズン 、2007-2008シーズン のいずれもらを抑えて日本人打者ではトップの評価であった。 その全てで「A」ランクの高評価を受けており、ア・リーグ全体での・・部門での順位は7位(2003-2004)、14位(2005-2006)、16位(2007-2008)であった。 、、などを点数化し、選手個人の得点生産能力を測る指標である「XR(extrapolated runs)」 では、在籍10年ながらNPB歴代10位につけている。 しかし、渡米直前3年間と渡米後の1打席当たりXRを比較すると、リーグのレベルの違いが影響し、実に35パーセントダウンしている。 852を記録しており、総合打撃指標「XR27」(XRの改良版) は同7年間で6. 28をマークした。 これはいずれも日本人メジャーリーガーの中ではトップの数値である。 近年、普及しつつある打撃・走塁・守備を組み合わせた総合的指標「」(Wins Above Replacement。 3を記録している。 なお、WARの守備評価については、その精度を巡る議論も続いている(詳しくはを参照)。 たとえば、「Baseball-Reference. 6となっている。 6はリーグ10位の数字だった。 2008年2月21日、スポーツ専門誌『』は、「成績の割りに高年俸を得ていると思われる選手」のワースト5をカテゴリ別に発表した。 その中で、前年度までの契約期間が2年以下である「契約期間の短い打者」の部門で松井が2位にランクインした(1位は)。 同誌は年俸800万ドル以上の選手のうち、前年度以前から複数年契約を結んでいる86人を抽出し、100万ドルあたりで何勝に貢献したかを査定した。 その結果、松井は過去2シーズンで0. 9勝分しか貢献できていないとされた(平均は1. 4勝分)。 同誌は、「松井はかつて『』だった」としながらも、近年は度重なる故障により出場試合数が減少していることを指摘した。 は自著『最強打撃力』(発行)において、「松井はまだ自分自身のボールを捉えるポイントを掴んでおらず、小細工でごまかしているところがある。 だから好調時は素晴らしい働きをするものの、調子を崩すとなかなか抜け出せない」と指摘した。 例えば2005年の開幕4試合で3本のホームランを放った後、202打席ホームランなし、という事実からそれが裏付けられる。 さらに、「松井にとって自己最高の成績を残した2002年の50本を打ったときでも、私から見るとポイントを掴んでいなかった」と記している。 は「アメリカで30本以上のホームランを打ったんだから、素晴らしいと思う。 日本の野球界で50本打ったことと、アメリカで30本打ったことを比較する必要なんかない」 「本数も中身も図抜けてすごいホームランを打っていた」 と称賛した。 各種の人気調査などでは常に上位にランクインしてきたが、2005年以降は相次ぐ故障やそれに伴う成績低迷、などの影響で陰りが見えつつあった。 が実施している「人気スポーツ」調査における「最も好きなスポーツ選手」の項目では、2003年、2004年に2年連続で2位以下に圧倒的な差を付けた1位となったが、故障に苦しんだその後は支持率が下降し、2009年には4位に下がった。 が実施している「お子さまの憧れのスポーツ選手は?」では2004年に1位 であったが、2009年には圏外であった。 他選手や監督などからの評価は軒並み高い。 は松井の現役引退発表後に「現代で最高のホームランバッター」と評した。 は「強い精神力、頑健な体、そして類いまれなパワーに対しては度肝を抜かれた」と印象を語った。 は「体も大きいし打球の飛距離も群を抜いていた。 重圧を見せずに黙々とプレーする姿勢に超一流選手としてのあるべき姿を見た」、は「裏表がなく、人間的にも野球選手としても、あの人以上の選手はいないと思う」と、実力だけでなく人間性にも敬意を示している。 は「雰囲気があったし、対戦しても怖かった。 他の打者とは違う、特別クラスの選手」と評した が、巨人時代の松井にとって佐々木は大の苦手投手だった。 清原和博は「松井以上のパワーヒッターはどこにもいなかった」と語り 、はのインタビューで「(松井君は)目標ですね。 ライバルじゃないです。 彼はすごい。 あのスイングといい、当たりの強さといい、あいつにはかなわん」と脱帽していた。 辛口で知られるは以降の巨人の4番打者で松井を最も高く評価している 他、「監督として指導したかった」とも語っている。 また、残した数字は松井より高いイチローや落合博満がマスコミ嫌いで通したのに対して、松井は常にどのマスコミにも分け隔てなく対応していることも高く評価しており、「人格的にも素晴らしい」「将来は監督になれる器だ」と絶賛している。 元チームメイトで主将のは、「マツイはお気に入りの選手。 いいスイングをしているし、好調時は手がつけられない」「彼が考えているのはチームが勝つこと。 まさしくプロだ」と語っていた。 同じくは「ヒデキは野球をよく知っている。 打つだけではなく走塁などのレベルも高い」と評価し 、は「マッティ(松井の愛称)は出会ったときからずっと勝負強い選手であり続けた。 とにかく勝負強いんだ」と絶賛した。 打撃のバランスが素晴らしく、滑らかで、無理のないスイングをする。 そして、左投手とチャンスにとても強い」と絶賛した。 2002年に松井を獲得するように進言したヤンキースのスカウトのジョン・コックスは、同年50本塁打を放った松井の打撃だけでなく守備にも注目し、「松井は野球をよく知っていて、メンタルミスをしない」と評価していた。 特筆 [ ] 人物 [ ] 実家は、祖母・松井瑠璃寿が設立した宗教法人「」である。 初代司教である瑠璃寿、そして二代目司教である父・の存在は、秀喜の人格形成に大きな影響を与えた。 「子供も大人と同じように一人前に扱う」という瑠璃教会の方針から、「ひでさん」と呼ばれて育てられた。 小学3年生の時に父から贈られた「努力できることが才能である」という言葉を大切にしており、父がその言葉を筆で書いた紙を長く、勉強机の前に張っていたという。 試合や練習、取材の対応からプライベートの過ごし方に至るまで、グラウンド外でも若手の手本となる選手である。 松井ほど人間的に素晴らしい選手はいないとも言われる。 松井は自身の性格について、「けっこう冷めているところがあるんです、何ごとにも! 物事に動じない? うん、よく言えばねっ(笑)。 だからいつもボケッとしているんですよ(笑)。 一人でいるのが好きなんです。 」 と評している。 基本的に温厚な性格で、野球以外の場で怒ることは少ない。 ヤンキースのチームメイトであったは、「松井は普段は大人しいけど、でもとてもいいヤツだよ」と人間性を高く評価している。 本人いわく「他人の悪口を言わない」ということが松井の信条の一つである。 中学2年生時の家族との夕食の際、松井が何気なく友人の悪口を言ったところ、父が箸をおいて「他人の悪口を言うような醜いことはするな。 ここで二度とそんなことはしない、と約束しなさい」と注意した。 松井は「父との約束ですから、あれ以来他人の悪口を言ったことはありません」と語った。 やなど、野球用具をとても大事に扱っている。 特にグラブは毎日磨いており、松井本人は、「野球を始めたときからずっとしています」と話している。 も、「彼ほど道具に対してリスペクトを持っている選手は見たことがない」といい、松井の人間性を高く評価している。 ヤンキース用具係のルー・カクーザは、他の選手が平気で帽子やグラブを放り投げることに対し、いつも帽子とグラブを丁寧に並べてから準備体操に入る松井を見て、「マツイは素晴らしい。 いつまでもあの気持ちを忘れないでほしい。 ほかの選手も見習ってほしいよ」と称賛している。 また、「一本の、一つのグラブは、いろいろな人の苦労によって出来上がっている」ことを強く意識しており、用具作りに携わった人々への感謝の気持ちを常に抱いている。 本業の野球以外にもCM撮影やTV出演など激務にもかかわらず、練習後にファンにサインをねだられても断らず、記者への対応も丁寧である。 こうした振る舞いから、2005年度の小学校、2006年度の中学校の道徳副読本に登場、甲子園で5連続敬遠四球を受けた時の対応など、「誠実さ」「明朗さ」が取り上げられた。 星稜高校時代、「居眠りしても死角になるから」という理由で窓際の一番前の席が教室での「指定席」となっていたが、山下は「(松井の)授業態度はよかった」と打ち明けている。 野球部の練習が大変で、通学に時間もかかるため、授業で全てを覚えようと心掛けていたため、も良好であった。 野球部の活動以外での欠席は1日もなかった。 星稜高校の卒業式では、野球部での活躍が評価され、星稜高校を経営するから「総長賞」を贈られた。 父の影響で元々はのファンであった。 高校時代、日本選抜に選ばれアメリカで試合を行っている間は、ロサンゼルス在住の日本人一家の元にホームステイしており、メジャーリーグの試合にも観戦に連れて行ってもらっていた。 交流は現在でも続いており時々スポーツニュースでも放送されている。 松井は一家の主人のことをアメリカのお父さんと呼び慕っている。 松井の中で一番印象に残っている巨人の4番打者はであり、2000年に初めて4番に定着しチームも優勝を果たした時に松井は報知新聞の手記に「あの人は4番らしかった。 雰囲気を持っていた。 自分の世界があったんだ。 チームが苦しい時に矢面に立っていた。 いわば風除け。 それが信頼感にもつながった。 」と書いている。 長嶋茂雄はドラフトで松井の入団が決まったところから、三年間で松井を球界を代表する選手に育てるための「1000日計画」を立ち上げた。 東京ドームの試合ならドーム内練習場で、遠征先ならホテルの長嶋の部屋で、松井に素振りをさせ付きっ切りで指導をしていたという。 その場で長嶋はスイングの音で、松井のスイングの良し悪しを判断していたとのこと。 赤木ひろこの著書「ひでさん 松井秀喜ができたわけ」には、青年期までの松井の統率力には、ずば抜けたものがあったことが記されている。 小学校時はクラスのいじめられっ子が松井の後ろに隠れただけで問題は解決し、5年生のリトルリーグの際、新たに赴任した監督が既にキャプテンは決定済みだったにもかかわらずそれを白紙にし「松井君には統率力があるから、頼む」と言わしめるほどの存在感を見せ 、中学校時代には「松井君さえ味方につければこのクラスは大丈夫」と担任教師に評価されたほどで 、星稜高校では前述されているとおり、山下監督により部員間投票の慣例を覆し、山下から直にキャプテンに指名された。 以上のように、真面目な性格であるが、遅刻魔としても有名である。 2004年のオールスター戦でも遅刻し、ア・リーグ32選手中最後に球場入りしている。 巨人時代から、遅刻するとなぜか本塁打を打つことが多い。 第2戦の試合前にはに巻き込まれて集合時間に30分遅刻したが、試合では決勝ホームランを放った。 は「俺も明日から遅れてくるさ。 まあ、本塁打を打ってくれるなら、毎日遅刻しても気にしないよ」と冗談交じりに語った。 米メディアでも、松井が遅刻すると何故かホームランを打つ「ジンクス」が報道された。 一方で、松井本人は「遅刻したつもりないんで、わからない(笑)」「え、反省?昔からしてない」と冗談混じりに応えている。 なお巨人在籍時の遅刻はたまにしかなかったとも言われ、その理由として集合時間30分前に全選手が揃う「ジャイアンツタイム」と呼ばれる時刻に遅れたことが遅刻ととられたという証言がある。 3・4歳頃からを習い始めて、小学校4年生で兄と「」をするほどの腕前で、を愛聴していたこともあり、「根上のモーツァルト」と称された。 現在もを好んで聴くが、巨人入団後はピアノを弾く機会がなくなり、現在は弾けなくなっている。 巨人在籍当時からを患っている。 MLB移籍後は4月から5月にかけて調子を落とすことが多く、特に2010年は遠征時の打率が非常に低くなっているが(同年4・5月の打率は本拠地では. 278なのに対し、遠征では. 165と1割以上低い)、これについても花粉症の影響が指摘されることがある。 実際2005年には、本人自らメディアに「花粉症がつらかったんです」と語り、序盤の不調の原因が花粉症だったことを認めている。 シーズン中の睡眠時間は7時間。 は両目とも1. 足のサイズは29。 引退後の2014年春季キャンプで巨人の臨時コーチを務めた際は右打ちでを行ったが空振りが目立ち、どん詰まりでバットが折れる事態まで発生し、ノックが不得手であることが露呈した。 ノックの名手として知られるによれば、すごい打者でもノックができないことはよくあり、スイングの問題ではなくトスがうまく上げられないためであるという。 また、通常は左打ちの松井が右打ちでノックをしていたのは、本人が「右でないとトスを上げられない」ためであったという。 英語力 [ ] 公の場で英語を話すことはあまりなく、()直後の2011年3月19日に、当時所属していたアスレチックスの公式サイトで被災者支援を呼びかける30秒にわたるメッセージを読み上げた際 など数少ない。 球団のイベント等で英語を読み上げるときも「流暢ではないので単語をひとつひとつはっきりと発音した」と謙遜している。 インタビューなどの公式の場では、専属通訳のを通して受け答えをしている。 メジャー移籍時は中学2年生の英語教科書「」を持参して渡米したというエピソードもある。 難しい英語でない限り日常会話に問題がなくなる程度に英語力が上達してからは、チームメイトとの会話も英語で行っていた。 ヤンキース時代のチームメイトのは、松井の英語力について「松井はいい英語を話すよ。 こちらの言っていることは全て理解しているし、会話するには十分だ。 」と評している。 ニューヨークの記者によると、松井のリスニング能力には「不自由を感じたことはない。 こちらの話していることは十分に理解している」という。 英語力が上達してからも通訳を通して受け答えをしていた理由については「僕の拙い英語で万が一、誤解が生まれると困るから」と語っている他、「(カーロン通訳の)仕事を奪ってはかわいそうだからね」とも語っている。 現役引退後もニューヨークで週に数回英語のレッスンを受けているという。 2014年に外国特派員で行われた記者会見では、「英語が得意ではない」との理由から、スピーチ、質疑応答を全て通訳を介して行っている。 愛称 [ ] ニックネームは「 」。 初めてマスコミ陣営が松井に対して「ゴジラ」の愛称を用いたのは、当時星稜高校3年生になる1992年の春の選抜大会前のことであった。 名付け親は記者でを担当していた赤星(現姓・福永)美佐子 で、「下半身が大きくて犬歯が特徴的」という理由で「ゴジラ」の名前を付けたと語っている。 当初、松井は「ゴジラなんて勘弁して下さいよ。 もっと可愛いニックネームはないんですか?」と不満気だったが、名付け親の赤星は「あら、ゴジラだってカワイイじゃない?私は似合ってると思うのよ」と一蹴。 ちなみに、高校2年生の秋に選ばれたオールジャパンのチーム内では、既に「」というあだ名が付けられていた。 これ以降、甲子園大会での活躍で全国に「 ゴジラ松井」の愛称が一気に知れ渡ることになる。 その後も、街を歩いていた時に子供達から「あっ、ゴジラがいるぞ!」と声をかけられたことで、松井自身「もうゴジラでいいや」と、そのあだ名を快く受け入れられるようになった。 巨人入団直後には、某スポーツ紙で「ゴジラは嫌だ。 新しいニックネームを募集中」とも報道されたが、松井は「それは全く違う。 野球ファンの皆さんに『ゴジラ』で親しまれているなら、僕は大歓迎」と自身の著書に記している。 渡米後も、「アメリカ人も覚えやすいから良いんじゃないですか」と語っており、現在では自らの愛称を気に入っている様子である。 2002年の映画『』、2009年の缶コーヒー「キリン ファイア」のテレビCMでは本物のゴジラと共演をした。 米国へ移ってからも「ゴジラ」の愛称はヤンキースファンに受け入れられ、で松井がかを打つと、ゴジラの咆哮音が流された。 また、ヤンキース移籍直後の2003年にはの「」を入場曲に使用した。 英語では、ニックネームを名前の間に挟むのが通例のため、『ヒデキ・ガッズィーラ・マッツーイ( Hideki "Godzilla" Matsui)』と呼ばれることもある。 ヤンキースの公式サイトにあったファンフォーラムでは「mats」、または好機に強いことから「Clutchzilla」と呼ばれ 、ヤンキースのチームメートは「mats」と呼ぶことが多かったが、2008年からヤンキース監督に就任したやは「matty」、巨人時代の監督の原辰徳は「ゴジ」と呼んでいた。 先述のように、2007年にはチーム内で「パックマン」という渾名を付けられたことがある。 エンゼルスでは、が「ザ・クワイエット・アサシン(静かな殺し屋)」という新ニックネームを命名した。 背番号 [ ] ヤンキースでの背番号55 (2006年) 背番号は巨人・ヤンキース・エンゼルス・アスレチックス在籍時代には一貫して55番をつけていた。 巨人に入団当時、本人は高校時代につけていた5を希望していたが、当時は在籍していたが着用していた。 岡崎引退後に5番を譲ってくれると思っていたものの、FA移籍した清原が着けることになった時には非常にガッカリしたことを述懐している。 たまたま55が空いていたため55になったという説もある [ ]。 巨人時代に年間最多本塁打55本を打った同球団OBでのの記録に肖って付けられてたと言うのは「新聞社のやらせ」と本人が否定している。 ヤンキースに移籍した時には「背番号は何番でもいい」という発言をしていたが、前年までヤンキースに在籍し背番号55をつけていたがレッドソックスに移籍したため、ヤンキースでも55番をつけることができた。 松井が入団した当時の日本プロ野球にはほかに55番をつけた主力打者として() がおり、二人の活躍とともにそれまで背番号としては格下視されていた55番の価値を上げるとともに、互いに左打ちで長距離打者であったことから 55番イコール左打ちのパワーヒッターというイメージが強まった。 松井がヤンキースへ移籍した後の巨人では2008年シーズン終了時まで誰も55番をつける選手が現れず、事実上扱いになっていた。 しかし2009年シーズンからで巨人に1巡目で指名されたがつけることになった。 この際、実績皆無の高卒新人に55番を継承させることについては、「松井に失礼」だという非難の声も上がった。 その後大田はほとんど成績を残せず、2014年に44番に変更し、2015年からは誰も55番を背負っていない。 エンゼルス移籍時は、在籍中のが背番号55をつけていたが、背番号を譲られることとなり、ヤンキースでは2010年シーズンは背番号55は名誉番号として1年間欠番とされた。 2012年にへ移籍、5月29日にメジャーリーグ登録された際には、レイズの若手有望株であるが背番号55をつけていたため、松井は空き番号(22、25、35、44、66、88など)の中からを背番号35を選択。 翌年にムーアが初選出されたのテレビ中継で解説を務めた際には、当時ムーアから背番号を譲る話を受けていたが断ったことを明かした。 35を選んだ理由については「空いていたから。 5番も残したかった。 一番の理由は師匠()の番号を一ついただいた。 年齢を重ねても素晴らしい数字を残した(ヤンキース時代のチームメイトの)にあやかれるようにしたいというのも一つ」と語った。 金沢カレーとしてチェーン展開するは同じ石川県出身ということもあり松井を応援。 背番号が55(ゴーゴー)の松井がHRを打った日にトッピング券配布のサービスを行っていた。 レイズで35番に変わった後も何事もなかったように(HP等でもそのことには触れず)トッピング券配布サービスを継続した。 松井がヤンキースでつけていた背番号55はその後、2011年~2012年に、2013年に、2014年にとがそれぞれつけており、2015年からでプレーするルブランは、「ヒデキ・マツイの55番に恥じないようベストを尽くす」と活躍を誓った。 2015年はがヤンキースの背番号55をつけている。 2017年はがヤンキースの背番号55をつけている。 趣味・好物 [ ] 独身時代は(AV)鑑賞がであることを公言していた。 AV鑑賞は本人曰く「松井流ストレス解消」で、多忙な中にあっても「月に数本」のペースでAV鑑賞に勤しんできた。 好みのジャンルは「ストーリーのしっかりした単体もの」で、特にやを好んでいた。 2007年にはとが共催した『』の特別審査員も務めるなど、業界との関係も深い。 2007年後半以降「AV封印」を度々口にするようになり 、2008年の結婚に伴い「保有していた1000本を超えるAVコレクションを全て処分した」と語っている。 しかし、2010年には報道陣に対して、AV鑑賞を再開していることを示唆した。 また、アメリカではしばしば55,000本のコレクションを所有していると報じられている。 大好物は 、、。 高校時代から練習帰りに地元の焼肉店へ通っており、当時からその大食漢ぶりは周囲を驚かせていた。 現在も記者との会食やバーベキューパーティーを欠かさない。 故郷・の名産品であるも好物の1つで、アメリカでもで有名なに遠征で訪れる際には頻繁にカニ料理を食べに行っている。 メジャー移籍後はを中心に、、、、など、アジア料理の店を順番に通っていた。 「スポーツ選手は食べるのも仕事」と語っており、熱心に美味しいを探し続けた結果、今では全米各都市のレストランリストが頭の中に入っている。 しかし、結婚後は外食が減り、自宅があるニューヨークでは妻の手料理中心の生活をしている。 スプリングトレーニングで滞在するでは、タイ料理や、中華料理を中心に外食することが多いが、滞在先のでは、石川県産を主食にしている。 ヤンキース時代は、で試合がある時は必ず、妻が握ったを持参していた。 なお、日本時代は酒は付き合いでビール1杯程度とほとんど飲まなかったが、渡米してからを購入し、シーズン中でもを嗜むワイン通となっている。 打席に入る際の登場曲は、主に友人でもあるの「」を使用していたが、他にはの「」、 、、 、の楽曲も使用していた。 読書家で知られ、試合前や雨の日には、よく読書をしている。 オフに入ると他チームのプレーオフも見ずに読書に耽るほどである。 野球選手を引退したら、本に関わる仕事をしたいとも語っている。 一番好きな作家は。 三島作品は全て読んでおり、特に「」が好きだという。 歴史上の人物で傾倒しているのはで、関連の書籍を多く読んでいるという。 著書『告白』の中では、よりに惹かれる所以を切々と語っている。 元相撲少年ということもあって、大のファンである。 (元横綱・貴乃花)とは現役時代に同じ施設でトレーニングに励んでいた間柄。 の隠れファンでもある。 メール問題が発覚した際には、「一相撲ファンとして残念」とコメントを出した。 また、石川県出身の同郷ということもあり、とも親しい。 慈善活動 [ ] のでは100万の義援金を寄付。 2004年12月26日に発生した・の際には義援金として5000万円を 、2007年3月25日に発生したの際には1000万円を寄付した。 ジャイアンツ時代から天災やテロでの被災者・被災地等へ一度に数千万円の義援金を寄付している。 ベトナムの孤児として暮らす20人ほどの子供たちに対しても、経済的里親として支援金を送っている。 3月に発生したでは5000万円以上の義援金を寄付すると共に、の公式サイトに英語で被災地への支援を呼び掛ける動画メッセージを掲載した。 交友関係 [ ] 記者・マスコミ [ ] 「マスコミと良好な関係を築けないようでは、どんなに成績を上げても選手として失格だ」と自ら話すよう 、専属広報のや、記者の阿見俊輔 をはじめとする各スポーツ紙の記者などとの関係は親密で、ヤンキース移籍後も毎試合後に会見を行い、記者たちの質問にも真摯に答える。 延長などで時間が遅くなってしまった場合、取材を優先してユニフォームのまま会見を受けることもある。 雑誌や写真週刊誌の取材も、分け隔てなく受ける。 シーズン終了後に、番記者や通訳らをメンバーに加えて行われる「草野球」は毎年の恒例行事であり、松井本人も楽しみにしているイベントである。 その際、松井は投手を務めるため、変化球の練習を密かに行っている。 なお打席に立つ際にはハンディキャップとして、上述の小学生時代に振り返って右打席でバットを振る。 記者と食事、キャッチボールを行うことも多く、度々記事になっている。 遠征先でも、チームバスに同乗せずに報道陣のマイカーで球場に向かうことがある。 また、記者とのパーティーも毎年の恒例行事であり 、他にも常日頃から 、 、 などで記者との親睦を深めている。 松井が深刻な打撃不振に苦しんでいたメジャー1年目の6月2日には、報道陣が「バーベキューでもやって落ち込んでいる松井を励まそう」と遠征先のでバーベキューパーティーを開催した。 かつてないほど落ち込んでいた松井だったが、このバーベキューにより気分転換に成功。 その3日後、26試合119打席ぶりの4号本塁打を含む4安打3打点と大爆発し、スランプを脱した。 この出来事は「リメンバー、シンシナティ」として松井の心に深く刻まれ、その後は打撃不振に陥った時でも暗さを表に出すことなく乗り越えられるようになった。 食事を共にした記者に対し、「たまにはいい記事かけよ」 、「皆、もう僕の守備のこと悪く書けないね」 と発言したというエピソードがある。 「メディアの後ろに、ファンがいる」という考えを巨人時代から持っており、ニューヨークの地元記者からの信頼も厚い。 によれば、松井は初年度のキャンプにおいて、地元NYメディアの番記者たちを食事に招待したが、このようなことをする選手はヤンキースの長い歴史の中でも初めてだったという。 しかもその折、松井は自ら所蔵するアダルトビデオを記者たちにプレゼントした。 そのこともあり、先述の打撃不振の際にも、地元メディアの反応は比較的穏やかだったという。 こうして、初年度オフには、全米野球記者協会(Baseball Writers' Association of America)NY支部が取材に最も協力的だった選手を表彰する「グッドガイ賞」にも輝いている。 このように、報道陣からの評判はすこぶる良かった松井であるが、二者択一の問いに対しては「どちらとも言えない」という曖昧な答えを返すことが多く、記者を悩ますこともあった。 チームメイト [ ] 巨人時代はチームメイトと接することは好まず、むしろ、広報や記者と共に行動することが多かったようである。 シーズンオフの自主トレも記者・広報と行うほどで、他選手との交友が報じられることはめったになかった。 特に後期に同僚だったおよびその取り巻きとは一貫して距離を置いており、お互いに実力を認め合ってはいたが、清原からは「彼は変わった人間」とまで評され、松井も「どうせ一緒に飲みに行っても、車と女の話ばかりでしょ」と発言したとの話があるように、松井もまた清原とは性格や価値観が正反対であることを認識していたようである。 それこそ、メジャーに挑戦するときも、チームメイトで引き留めた人間はいなかったようであり、そのため一部報道等では「松井のジャイアンツ在籍時後半においてはジャイアンツ内部では"清原派"の選手が多く、松井はチーム内で少し浮いていた」との報道がなされるほどであった。 以上のことから、松井と清原は性格の不一致からあまり仲は良くなかったとされる。 しかし、松井がメジャーに挑戦する際には清原は「俺はお前を誇りに思う。 いつまでも応援しているぞ! 」と激励のを送っている。 唯一の高卒同期入団であるとは、ともに現役を退いた後も食事に出かけるなど親しい関係である。 も関係は悪くなく、殊に共に巨人を退団して以降は良好である。 松井にとって上原は「弟のような存在」であり、メジャー移籍後も電話やメールで連絡を取り合っている。 オフには一緒に食事にも出掛けることもある。 に上原がヤンキースと同地区のに移籍が決まると、「おめでとう、対戦するのが本当に楽しみ」と、自分のことのように喜んだ。 上原にとっても松井は特別な存在であり、オリオールズ入団後は「一番興味のある打者は松井さん」と強く意識し、対戦を心待ちにしていた。 シーズンでは上原が右ひじの怪我のため途中で離脱するまでに、6度対戦し無安打に終った。 巨人時代に共に第一線で活躍したやは松井に対して強い尊敬心と信頼感を寄せていたと松井の引退後に語っており、同時にチームメイトからの信頼も絶大だったと語っている。 由伸は、松井と初めて出会ったのは大学生時代にドラフトで巨人入りを決めた後であり、とても一つ上に見えなかったと発言しており、パワーの次元が違う、自分とは年々差がついていたと思うとも発言している。 また、堂々としていて動じないためそういう風になりたいと思っていたと発言している。 ジーター(右)とハイタッチを交わす松井(2006年) メジャーリーグでは、同い年でヤンキースの主将であるとの交流が数多く知られていた。 独身時代にはジーターと同じマンションに住んでおり 、初めて出会った2003年2月以来、食事を共にしたり、ときには自宅でのホームパーティーに参加したりするなどして親睦を深めてきた。 選手として、天才肌ではなく努力でのし上がったジーターに自らと似た境遇を感じ、尊敬の念を抱いているといい、「ジーターともっと話したい」という理由から英会話を熱心に勉強するようになった。 「同い年だけど、ジーターのリーダーシップには感心する」と語っており、主将を務めるジーターをサポートする役割を果たしたいという思いが強かった。 ジーターも個人の記録よりもチームの勝利を最優先にプレーするという点で松井と共通している為、松井を高く評価しており 、シーズン開幕前には、同シーズン限りで3年契約が切れる松井に対し、「一緒に黄金時代を築きたい」という思いを込めて松井の残留を熱望したという。 2006年に松井が骨折で戦線を離脱した際には、「彼の代わりは存在しない」と発言し、早期復帰を願った。 で松井がMVPを獲得した際にも、ジーターは松井の活躍を誰よりも喜び、松井も「勝てない時代もチームを引っ張ってきた彼には特別な思いがある」と語った。 ジーターは、松井に教わった「トシヨリ」という言葉を様々な場面で好んで使っている。 2009年からヤンキースに加入したはのパートナーであり、毎日試合前にキャッチボールを行っていた。 ヤンキースのみならずメジャーリーグを代表するスーパースターであるのステロイド使用が発覚した際には、「残念ではあるが、過去はどうしようもない。 大切なのはこれから」だとし、ロドリゲスに対する見方は変わらないと語った。 その他 [ ] 野球以外の著名人とは幅広い交友関係を持つ。 特にのとの親交は深く 、自身の登場曲にも布袋の楽曲を使用している。 また、作家のとの関係は特別なものがあり、シーズン中にもかかわらずで行われた伊集院の出版会見に出席したことがある。 伊集院は松井の人柄を高く評価しており、「松井秀喜はアメリカに送り出した『もっとも美しい日本人!』」と著作の帯に記している。 既に1995年のによるインタビューの中で、松井は最近読んだ面白い本として、伊集院の「受け月」を挙げている が、1999年に新潮社が松井に対談の企画を持ちかけたところ、松井は作品を愛読していた伊集院を相手に指名した。 伊集院は驚いたが、若いスターの野球選手と会うと失望することが多かったため躊躇した。 しかし実際に対談を行なって、逆に松井の人柄に惚れ込み、現在に至る交友関係が始まった。 の 、キャスターの 、役者の 、女優の 、歌手の らとは公私に渡って親交がある。 俳優のとは旧知の仲である。 会った時はいつも英語で談笑をしている。 ヤンキース往年の名捕手は、良き相談相手であった。 9月19日には、映画『』でのGMを演じたとプレミア試写会で初対面。 「とてもクールだったよ(ピット)」「素晴らしい人だった(松井)」とお互いを褒め合った。 また独身時代は 、 、 、 、 、 らとの交際やとの「お見合い」も報じられた。 特に、への旅行が報道されるなど、戸田とは親密な仲であり、2005年に父・が結婚を示唆 したことで、結婚間近とも言われたが、翌年破局に終わった。 交際発覚後も報道陣に対し松井が曖昧なコメントを繰り返したことに対し、戸田は「松井さんは守ってくれなかった」と不信感を募らせていったという。 第85代・第86代・は松井の実家の隣の集落出身(森によると実家同士が500mの距離)で、同じの卒業生でもある。 森は松井の後援会名誉会長を務めており、ニューヨークまで激励に訪れることもある。 2006年の大晦日にの演奏による松井応援歌「」(作曲、詞は一般公募による)が初演された。 オーケストラ・アンサンブル金沢の音楽監督・の企画によるもので、岩城は同年5月に松井へエールを送っていた。 岩城は同年6月に逝去したため、生前に出した最後の手紙となった。 ジョー・トーリとの信頼関係 [ ] 2007年までヤンキース監督を務めたは松井の入団当初、松井を「ブンブン振り回すホームランバッター」という印象だったが、シーズンが終わる頃には「場面に応じたバッティングが出来る頭のいい選手だ」と評価した。 松井はルーキーイヤーのトーリの気遣いに感謝していると語っている。 入団1年目の2003年5月には松井が全く打てない時期があり、ニューヨークの新聞やオーナーのがこぞって松井を批判する中でもトーリは松井を擁護し続け、「打てなくても気にするな。 守備や進塁打でも立派に貢献しているよ」と励ましの言葉をかけた。 松井は後に、スランプ脱出のきっかけをくれたのがトーリであり、トーリを信頼していたからこそアドバイスを受け入れることが出来たと語っている。 なお、トーリは松井のことを「マツ」と呼んでいる。 松井はトーリについて、自らが寄せる信頼を繰り返し語っていた。 トーリもまた、契約更改時に「世界中の金を集めてでもヤンキースは松井と契約すべきだ」との賛辞を送っていた。 さらに「松井はウチで最も頼れる男なんだ。 彼にはいつだって責任感とかキャプテンシーを要求するよ」と断言し、ジーターと並ぶチームの精神的柱になるように求めていた。 松井のチームの勝利を最優先する献身的な姿勢については、トーリも「日本では50本塁打を打つスーパースターだったのに、こちらでは何でも嫌がらずにやってくれる」と賞賛している。 2007年限りでトーリがヤンキースの監督を退き、に移ってからも、信頼関係が揺らぐことはなかった。 2008、2009年は対戦機会がなかったが、エンゼルスに移籍した3月のオープン戦で久々に対面。 その後も、ドジャースとの対戦の際には挨拶を交わしている。 同年11月、松井がニューヨークで行われたトーリ主催の慈善基金パーティーに出席した際、トーリは「マツイがどのチームに行っても応援できる」と語った。 に松井が現役引退を発表すると、トーリは「彼の監督だったことを誇りに思う」とコメントした。 イチローとの関係 [ ] 中盤以降、松井とはタイプが全く違う選手だが、強打・巧打のそれぞれでずば抜けた実力を持つ2人は同じ時期に日本に在籍しメジャーリーグでもプレーをしていたため、ことあるごとに比較の対象となった。 ワールドシリーズMVPを受賞した翌日の「」は、「イチロー選手がなら、ゴジラはの切れ味だろうか」と評した。 同日の「産経抄」は、2人を「記録のイチロー」「記憶の松井」として対比した。 漫画家のは「クールなイチローは現代風ヒーロー。

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松井秀喜の敬遠伝説や名言集!栄光の背番号55の生涯成績や年俸など総まとめ!

松井 秀喜 年齢

生年月日:1974年6月12日 出身地:石川県能美郡根上町(現・能美市) 身長:188センチ 松井さんは1974年、松井家の次男として誕生しました。 なんと生まれた時の体重は4キロ近くあったそうで、すでにビッグだったことに驚きです! その体格の良さは成長しても変わらず、小1の頃に野球チームに加入。 ところがまだ幼すぎて指示などが分からず、一度辞め、兄の影響で再び野球を始めたのは小5の時でした。 ismedia. 中学校はもちろん野球部に所属。 続けていた柔道とどちらを取るか悩んだこともあったそうですが、柔道部がなかったこともあり、野球を選んだそうです。 中学の野球部のコーチであった高桑充裕さんはとにかく厳しかったことで有名でして…、いわゆる鉄拳制裁もあったとか。 ひと昔前の熱血先生という感じですね~。 html しかし怖いだけでなく、高桑さんは星稜高校OBであったことから、松井さんのその後の進学に影響を与えたことは明らかでしょう。 高桑さんの勧め、星稜高校野球部の山下監督からの熱烈な勧誘を受け、1990年に星稜高校へ入学しました。 bunshun. なんと入部したての1年生が四番を務めます! その存在感は徐々に野球関係者に知られていき 「北陸の怪童」「星稜恐怖の1年生4番」などと呼ばれました。 ただ、野球はそんな単純なものではないので、松井秀喜がいるからといって簡単に勝てるワケではありません。 高1の夏の甲子園は初戦敗退、センバツは出場せず、高2の夏の甲子園は準決勝敗退、センバツは準々決勝敗退…と、意外なことに優勝はしていないんですよね。 そして、あの有名な事件が起こります…! 松井秀喜の敬遠伝説 敬遠伝説とも呼ばれる 「5打席連続敬遠」事件が起こったのは、松井さんが高3の夏に出場した第74回全国高等学校野球選手権大会での出来事です。 huffingtonpost. html 2回戦で星稜高校は高知の明徳義塾と対戦しました。 この時、松井さんはすでに、誰もが知る超高校級のスター選手。 チーム自体も悲願の優勝を目指してかなりの実力を付けていて、優勝候補の一角に数えられていたため、松井さんと星稜への世間の注目はものすごいものだったと思います。 asahi. html 対戦するチームはやりにくかったでしょうね~。 とは言え、試合は試合。 いくら相手があの星稜であっても、いつも通り勝利のために全力を尽くします。 そこで、明徳義塾の馬淵監督が採用した作戦が、全打席敬遠作戦でした。 やがて試合開始となり、その作戦が実行に移されます。 nikkansports. html 日本中が注目する松井さんの打席は全て四球、一塁走者がいても四球。 最初はどよめきだけだったのが、少しずつザワつき始める観客席…。 ザワめきは次第に明徳義塾へのヤジへと変わり、最終打席も四球に終わるととうとう怒号が甲子園を包みました。 asahi. そうした異様な光景を松井さんは憮然と眺めていたそうです。 試合結果は敬遠作戦が功を奏し、明徳義塾が勝利。 しかし試合後の握手はほとんどの星稜メンバーが拒否、明徳義塾への「帰れ」コールは長く続きました。 宿舎に戻った明徳義塾チームの元には嫌がらせや抗議の電話が殺到し、実際に宿舎までやって来て騒ぐ野球ファンもいたため、選手に危害が及びそうになり、警察まで出動したと言われています。 高野連は試合直後に異例の会見を開き、世間は騒然。 「勝つためなら何をしてもいいのか?」という議論が瞬く間に日本全国へ広がり、社会問題にまで発展しました。 松井さんの怪物ぶりが良く分かるエピソードですね。 bunshun. のちに2003年に渡米するまで、松井さんは巨人で活躍します。 giants. html 渡米したあとの経歴は以下の通りです。 首位打者1回 ホームラン王3回 打点王3回 最高出塁率3回 最優秀選手3回 ベストナイン8回 ゴールデングラブ3回 日本シリーズMVP1回 2005年以降は故障に悩まされてしまいますが、2009年には日本人選手初となるワールドシリーズMVPに輝きます。 さらにこの出来事は「日本シリーズとワールドシリーズのMVPを共に受賞した初の選手」という快挙でもありました。 引退後の2013年には 国民栄誉賞を受賞。 松井さんはまさに伝説の野球選手という訳ですね! ちなみに…やっぱり気になるのはお金のこと。 日本で活躍していた頃の松井さんの最高年俸は6億1000万円。 メジャーリーグでは1300万ドル(1ドル100円換算で13億円)。 さすが…としか言いようのない額です! まとめ ~松井秀喜の明言を述懐 実は、何冊も本を執筆している松井さん。 名言が多いことでも知られています。 「自分にコントロールできないことは一切考えないですね。 考えても仕方ないことだから。 自分にできることだけに集中するだけです。 」 「終わりはないと思うんです。 一つ何かをクリアしても、その先にはまた一つ新しいテーマがある。 」 「どんな道でも、進んでいけば嫌なことはいっぱいあります。 それでも、逃げないことだと思います。 」 松井さんの実直な性格、野球への真摯な思いが伝わってきますね。 nikkansports. html 巨人軍の次期監督!?なんて噂は尽きませんが、果たしてまた「55」を背負う日が来るのでしょうか? そんな朗報を気長に待ってみます! 当サイトをご訪問いただき、ありがとうございます! 管理人の、らいふれんど と申します。 スポーツをこよなく愛するミドルエイジです! これからの日本を盛り上げるアスリートをビシバシとご紹介していきます! そうぞよろしくお願いいたします! 人気記事ランキング• - 24,512 ビュー• - 22,532 ビュー• - 20,715 ビュー• - 20,446 ビュー• - 20,198 ビュー• - 14,080 ビュー• - 14,014 ビュー• - 13,991 ビュー• - 13,541 ビュー• - 13,415 ビュー 最近の投稿• 2020年6月26日• 2020年6月24日• 2020年6月23日• 2020年6月18日• 2020年6月17日 カテゴリー• 418• 2 最近のコメント アーカイブ• メタ情報• SNSフォローボタン.

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