トゥール スレン 博物館。 トゥール・スレン虐殺博物館(S21)とチェンエク大量虐殺センター(キリングフィールド)

静かな恐怖が漂うトゥールスレン虐殺博物館でカンボジアの現代史を学ぼう|海外旅行情報 エイビーロード

トゥール スレン 博物館

Tuol Sleng Genocide Museum, Phnom Penh トゥールスレン虐殺博物館 プノンペン市内にあるトゥールスレン虐殺博物館は、短い訪問のあとで、わたしにとって根源的な場所のひとつとなった。 元は高校であった建物がクメールルージュによって刑務所とされ、S-21 Security Office 21 と呼ばれた。 送りこまれた1万数千人のうち、生きてここを出たのは6名のみだったという。 博物館のパンフレットによると、Tuolは次のような意味を持つと書かれている。 "The ground that is higher in level than that around it. " Slengは、形容詞としては、"Supplying guilt"または"bearing poison"または"enemy of disease"などの意味を持っている。 また名詞としては、カンボジア原産の2種の毒のある木("Sleng Thom"と呼ばれているものと"Sleng Vour"と呼ばれているもの)を表している。 つまりTuol Slengは「毒のある丘」ないしは「罪を課す丘」という意味を持っていることになる。 leaflet click images below to read leaflet. you can get this leaflet at Tuol Sleng Museum in Phnom Penh. page 1-2 page 3-4 page 5-6 page 7-8 Killing Field of Choeung Ek, Phnom Penh チュンエクのキリング・フィールド カンボジア全土に400ヵ所以上も存在する集団虐殺・集団埋葬の地(通称キリングフィールド)のうちで最も有名なCHOEUNG EK村のキリング・フィールド はプノンペンの南方の郊外にある。 なんの変哲もない空き地が、持続的な大量殺戮の舞台となった。 links.

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トゥールスレン虐殺博物館に行く

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一昨日,TVの2時間番組でカンボジアのことをやっていた。 カンボジアと言えば,地雷で有名だ。 また,残虐なポル・ポト政権でも有名である。 首都プノンペンには,もとポル・ポト政権の刑務所であったトゥール・スレン大量虐殺博物館がある。 行かれた方も多いと思う。 じつは,以前にトゥール・スレン虐殺博物館をUPしたのだが,残虐な画像をUPするのはどうかと思い,控えめにした。 しかし,現実に起こった悲劇なのだ。 2度とくり返してはいけないという意味を込めて,そのままを伝えることが大事かと思い,今日は少々残虐な画像も入れて,の増強版として紹介する。 骸骨や死体の画像があるので,こういうのが苦手な方は見ない方がいいかも知れない。 訪れたのは,'06年8月なので,2年半ぐらい前になる。 ここには,'00年12月にも来館している。 2回も訪れる必要があるわけではなかったのだが,また来てしまった。 以前もそうだったが,今回もセントラルマーケット付近から約40分かけて歩いてきた。 前は,乾季なのに帰りに突然大雨が降ったが,今回は雨季だが雨に遭わなかった。 おかしなものだ。 ここは,ポル・ポト政権時代に,政府に反対する人々を「反革命分子」として,ことごとく捕らえ,残忍な拷問をくり返したあげく処刑していったS21刑務所である。 少しでも疑わしい者は全て収容され,家族も子どもを含めて全て収容され拷問・処刑され,カンボジアの人々には,たいへん恐れられていた。 訪れる観光客は多い。 もとは,高校の校舎らしい。 約2万人の収容者のうち,生還したのはなんとたったの8人だ!当時の残忍な行為を伝えるために,博物館として整備され,公開されている。 当時の独房,雑居房や,尋問室のベッドなどが,そのまま残されている。 入って左側の建物A棟は尋問室だ。 部屋に残されたベッド。 もちろん,手足の自由はない。 部屋は,いくつもある。 実際の写真も飾ってある。 遺体だろう。 この状態で尋問されるのだ。 この刑務所は,クメール・ルージュが撤退したあとに初めて発見されたが,これらの写真は,残されていた遺体と思われる。 B棟には,収容された人々の膨大な量の写真などが展示してある。 処刑は,ここから約12kmのキリング・フィールドでされたが,左側の写真の多くは息も絶え絶えか,拷問のときに既に息絶えているようにも見える。 これは,子どもたちの写真。 家族もろとも捕らえられたので,この子たちは収容された家族なのかと思っていたが,番号札を下げていないので少年看守ということらしいが,どうなんだろう? 人々が着ていた服。 掘り出された遺骨。 最初は,ここで処刑し裏手に埋められていたが,処刑場は,のちにキリング・フィールドに移された。 セットとも言うべきキリング・フィールドへは,なぜかまだ行っていない。 次回行った時はぜひ訪れたい。 キリング・フィールドには,9000体近い遺骨が安置されている C棟には,金網が張り巡らされている。 独房だ。 レンガの壁が倒れないように鉄鋼で支えてある。 これが,工事前の'00年の画像だ。 ほぼ同じ場所だ。 意識したわけでないが,同じ人間が撮ると,6年開いても同じところを撮るようだ。 部屋は,本当に狭い。 排泄は,房内の箱でしていたらしい。 こちらは,木製である。 どちらにしても,かなり狭い。 畳1畳分ぐらいあるかないかだろうか。 拷問の道具だ。 拷問の様子が描かれた絵も飾ってある。 水を使った拷問の道具が多く残されているが,電気ショックを使った拷問も多くされた。 拷問の様子を描いた絵。 右の柱も,敷地内に残されている。 雑居房だ。 こんな感じで収容されていたらしい。 これも,ひどい。 左は,処刑された人々の遺骨である。 以前は,骸骨を使ってカンボジアのどくろ地図がつくってあったが,物議を醸し,現在は棚に置かれてまつられている。 右は,そのときの写真をパネルにして飾ってある。 拡大した。 これが,以前は実際に飾ってあった。 これは,'00年に実際に見て撮った,どくろ地図だ。 触れる状態にあったと思う。 左の棚の拡大だ。 ポル・ポト軍によって,プノンペンの住民は全て農村部に移住させられ,一時はゴーストタウンと化してしまった。 1979年にベトナム軍によって,プノンペンが解放されるまでは,秘密主義により,この収容所の存在が国外には全く知られていなかった。 発見後すぐに,ベトナムによって全世界に公開されている。 最初は政治宣伝用だったようだが,その後すぐに虐殺博物館として公開されている。 現在も公開時とほぼ同じままで展示されている。 この博物館や,ポル・ポト派の残虐行為については,詳しく書かれたサイトが多いので,もっと知りたい方は探されたら,すぐに出てくると思う。 遠い昔のことではない。 まだ30年ほど前のことだ。 当時はプノンペン陥落などの様子がニュースなどでよく報道されていた。 その頃小学生~中学生だった私は,たいへん恐ろしい町だと思っていた。 いまだに,そのときのイメージは残っている。 こういうのが苦手な人には,この博物館は,かなりきついかも知れない。 しかし,現実に行われた残忍な行為の事実は消えない。 実際に行くと,画像で見るよりも遥かにインパクトが強い。 機会があれば,ぜひ行ってほしい。 なお,では,ポル・ポト派が最後まで抵抗したバッタンバンでの痕跡もUPしている。 1位などは狙ってません。 クリックするだけでOKです。 よろしくです。 ぜひぜひお願いします! 海外旅行とアジア旅行にエントリーしています。 クリックで,本サイトへ!.

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ポルポト率いるクメール・ルージュによる拷問_トゥールスレン博物館

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所内の保安規則。 A棟の前に展示されている S21は、(カンボジア共産党)支配下の()において設けられていた収容所のである。 稼働中は存在そのものが秘密であったため公式名称は無い [ — ]。 2年9か月の間に14,000~20,000人が収容されたと言われ、そのうち生還できたのは8人(現在身元が分かっているのは7人)のみであった(これまでは7人とされていたが、、別の刑務所に移送されたため生き残った女性1人が名乗り出た)。 革命に学問は不要と言う方針を打ち出したクメール・ルージュは、4月頃、無人になったプノンペンの中心に位置するこの学校を、反革命分子を尋問しその係累を暴くための施設に転用した。 それ以前にもプノンペン市内にはいくつかの政治犯収容所があった模様で、そこでは厳しい尋問が行われていたようだが、生きては出られぬ収容所ではなかったと言う。 収容所がS21に集約されると共に、一度収容されたものは生きて出ることはない場へと変貌したが、そのどちらが原因でどちらが結果かは今となっては不明である。 また、のの死によってクメール・ルージュ党中央は中国からの援助が止まるのではないかと危機感を募らせ、それと共に反革命分子の詮索も苛烈の度を増していった。 5月の救出作戦で捕えられた員3名もここに送られ、尋問を受けた記録が残されている(その後彼らは処刑されたと思われる)。 革命が成功したのに飢餓が進むのは誰か反革命分子が居るからに違いないという、を始めとする党中央のに、現場の看守は残虐行為で応えた。 囚人達はいわゆるによって看守達が欲している答え(「わたしはアメリカ帝国主義の手先でした」「わたしはベトナムのスパイでした」)を言い、その対価として拷問の責め苦からの解放(=処刑)を得た。 彼らの遺体は裏手のトゥール・スレン小学校跡に埋められたが、じきにそこも満杯になったのと、処刑時の叫び声が響く事から、1977年には処刑・埋葬場がプノンペンの南西15kmのチュンエク村に移された(のちにそこは「」と呼ばれることになる)。 同じ理由からか尋問の場所もリセの正門前の民家に広げられた。 あるいは手狭になったためかも知れない。 S21の指揮官であったは、自分は命令に従っただけだと述べた。 彼はかつてを教える立場にあったである事からの標的になりやすい立場にいた。 そのため、党中央の威光に怯え、なおかつ計算高くその意向(反革命分子をあぶり出すためにあらゆる手段を使う事)に従おうとした事は想像に難くない。 所長でさえこうした姿勢であったため、あまつさえ看守は忠誠を示すために残虐行為を当然の如くに行った。 看守には10代の少年少女がなる事が多かったが、S21の秘密を守るための粛清の危険に常に晒されていた。 実際、多くの看守が後に収容され処刑されている。 一方、、、、ら党中央は後年「拷問しろなどと命令した覚えはない」「トゥール・スレンなど私は知らない(S21と呼んでいたから)」などと強弁した。 S21では、囚人の写真と処刑後の写真、囚人や看守が書かされる「自分史」(自己批判文)、詳細な自白調書など膨大な記録が作られたが、クメール・ルージュ自身がそれを使って本当に反革命分子を捕まえているのかを検証した形跡は無い。 むしろこれらは、これだけの反革命分子を捕まえ、そして反クメール・ルージュ的組織の情報をこれだけ引き出したという実績作りのためだけに作られたようである。 しかしの終わりには、拷問によって得られた自白の信憑性を疑う空気がようやく収容所幹部にも漂ってきたのか、拷問を差し控えるようになる。 だがS21の恐ろしさは十二分にカンボジア国民に植え付けられており、収容者は次から次へと「ベトナムとの関係」「CIAとの関係」を「自白」(創作)し、処刑されていった。 囚人は処刑される前に反革命分子の仲間を出来るだけ多く列挙するよう強要されたが、こうすることでS21は処刑すべき「反革命分子」に事欠くことが無く、むしろその数は指数関数的に増えて行った。 ベトナムのスパイを疑われたクメール・ルージュ幹部 主に東部地区出身者 の多数が内部告発により処刑されている。 のように党中央のメンバーでさえ、逮捕には至らないが疑惑を向けられることはあったという。 中央政府から地方組織や各事業所に至るまで、幹部の多くが粛清された事によってクメール・ルージュは弱体化していく。 その後間もなくベトナム軍によってS21の存在は白日の下に晒される事になる。 1月7日にベトナム軍はプノンペンを制圧したが、クメール・ルージュは全員撤退・逃亡した後だった。 翌日、ベトナム人の従軍記者が異臭に気づき、この施設を発見した。 A棟1階の尋問室でクメール・ルージュが撤退間際に殺害した14人の遺体があり、収容所全体では50人程度の遺体があった。 また膨大な収容・処刑記録の文書があった。 クメール・ルージュは以外の国に対しては一切秘密主義を貫いていたため、そうした政治犯収容所の存在は国外には知られていなかった。 がカンボジアに政権を擁立するにあたり、この収容所跡はベトナム側の政治宣伝(「ポル・ポトからカンボジアを救ったのはベトナムである」)として利用される事になり、わずか数日で外国のプレスに公開された。 その年の内にはクメール・ルージュの残虐行為を展示する博物館が急遽設置された。 現在 [ ] 発見時のままに保存されている拷問室、1,000人ほどの収容者(一部は少年・少女看守)の写真、生還した画家が描いた拷問の様子など、現在のトゥール・スレン博物館の展示内容は開館時と余り変わっていない。 これらの展示物が2003年にのに登録された。 但し、悪評を招いた「骸骨で作ったカンボジア地図」はに撤去された。 クメール・ルージュが遺した膨大な文書をやが分析しているにも関わらず、その結果は展示内容に反映されないままである。 2009年2月、でS21での残虐行為に対する審判が開始され、ドッチが被告として出廷した。 2010年8月、ドッチに禁固35年の刑が言い渡された。 2月3日、上訴審で一審の禁固35年の判決が破棄され最高刑の終身刑判決を受けた。 2018年現在、入場料は5。 各国オーディオガイドは3米ドルの追加で利用できる。 (のオーディオガイドもある)。 映画は10時と15時の1日2回上映される。 尋問中の保安規則 [ ]• 質問された事にそのまま答えよ。 話をそらしてはならない。 何かと口実を作って事実を隠蔽してはならない。 尋問係を試す事は固く禁じる。 革命に亀裂をもたらし頓挫させようとするのは愚か者である。 そのようになってはならない。 質問に対し問い返すなどして時間稼ぎをしてはならない。 自分の不道徳や革命論など語ってはならない。 電流を受けている間は一切叫ばないこと。 何もせず、静かに座って命令を待て。 何も命令がなければ静かにしていろ。 何か命令を受けたら、何も言わずにすぐにやれ。 自分の本当の素性を隠すためにベトナム系移民を口実に使うな。 これらの規則が守れなければ何度でも何度でも電線による鞭打ちを与える。 これらの規則を破った場合には10回の鞭打ちか5回の電気ショックを与える。 参考文献 [ ]• デイヴィッド・チャンドラー 『ポル・ポト 死の監獄S-21 クメール・ルージュと大量虐殺』 山田寛訳、白揚社、2002年 出典 [ ].

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