妻木 煕子。 お妻木~明智光秀の妹(義妹の説あり)~明智光秀と織田信長を結んでいた女性とは?

妻木煕子とは

妻木 煕子

に入ると、明智氏の一族である妻木氏が、妻木城主となっていました。 特に、 の娘・ は、宗家である の正室になったとされています。 諸説あり 明智光秀が の家臣となると、妻木広忠は明智家の与力となり、数々の合戦にも出陣しました。 1582年、 の際にも、妻木広忠は の戦い に参じましたが、敗れて、 に逃れたようです。 そして、 に明智一族の墓 供養碑 を設けると、墓前にて自刃したと言われています。 その子・妻木貞徳は、織田信長の馬周衆を務めていましたが、 の変のあと、家督を子の に譲って、美濃・妻木村に隠棲しています。 そのため、妻木頼忠 つまき-よりただ が18歳で妻木城主となりました。 しかし、織田勢で 主の が東美濃に侵攻し、美濃・高山城の も屈したことから、妻木頼忠は2人の弟を人質に出して、織田勢に臣従しました。 その結果、妻木城には、林為忠が入り、妻木一族は金山城の城下に移住しています。 1584年、 にて、森長可が討死すると、あとを継いだ のもと、林為忠が高野城に移動したため、妻木頼忠の妻木城復帰が許されています。 1600年、森忠政が信濃・川中島13万7500石への加増転封となった際には、河尻秀長は美濃に残りましたが、同様に妻木頼忠も妻木城に残りました。 そのため、代わりに美濃・ 4万石になった田丸直昌に従う事になったようです。 しかし、 となると妻木氏は徳川家康側に味方して、それまで、おとなしく隠居していた父・妻木貞徳と共に、 に味方した岩村城の田丸直昌を攻撃しました。 妻木頼忠は、尾張・ の と共に田丸氏の領内に放火したため、田丸勢は を捨てています。 また、 、 らが徳川家や妻木頼忠らの支援にて、美濃・ と美濃・ を奪還しました。 その勢いで、美濃・岩村城を攻めよう試みましたが、難攻不落の山城であるため、苦戦していたところ、 の戦いが終わり、田丸直昌や田丸主水らは東軍に降伏しました。 下記は、妻木城士屋敷から移築した山門で、妻木氏の菩提寺になる崇禅寺(そうぜんじ)にあります。 崇禅寺は1354年に、初代の妻木城主・土岐頼重が菩提寺として開山しました。 山麓の屋敷群は、妻木城士屋敷(つまぎじょうさむらいやしき)と呼ばれております。 妻木氏の家臣としては、沢井 土本 好安 仙石 水野 本田 小栗 安藤 那須 中垣 塚本 酒井 山神 豊部 土屋 有川 小池 高野 中條 芦尾 松本 奥村 加藤 といった名前の武将が、屋敷を与えられていました。 下記は妻木城士屋敷から入って行ける、妻木城の登城口ですが、駐車場は見当たりませんでした。 崇禅寺さんの駐車場を拝借するしか、なさそうです。 妻木城への交通アクセス・行き方ですが、電車の場合バスに乗って、最寄りのバス停から徒歩40分と現実的ではありません。 自動車の場合、東海環状自動車道の土岐南ICより約10分の距離です。

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【妻木煕子(明智煕子)とは】麒麟がくるで登場!!明智光秀の正室(妻)である彼女の生涯を徹底解説!

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talent-databank. 役を演じるのは、木村文乃さん! 妻木煕子は、織田信長が煕子と初対面のとき、煕子のあまりの美しさに信長は抱きついてしまった。 という逸話まであるほどの美人だったようですので、木村文乃さんはまさしくイメージにピッタリですね! 妻木煕子は、明智光秀の妻なので、たくさん史料があるかと思いきや彼女のことがわかる史料は極めて少なく、殆ど残されていません。 「 明智軍記」という明智家の事が書かれた史料はあるのはあるのですが、 間違ってたり、ちょっと作り話?みたいな部分もあったりして、信頼できる史料とは言い難いのだそうです。 それでも、今回のドラマでは主役が明智光秀。 で、妻木煕子はその正室なので、登場するシーンはたくさんありそうですよね。 「 麒麟がくる」で、長谷川博己さんが演じる明智光秀は、硬派な感じもありお茶目な雰囲気もありますので、どんな風に煕子と出会うのかが気になりますよね。 どうやら12話辺りで、十兵衛は煕子と結婚する様です。 十兵衛が鷹狩に行った際、妻木煕子と出会います。 煕子とは幼い頃から顔見知りで、十兵衛が「 大きくなったらお嫁においで」と幼い頃、煕子に言っていた様です。 久しぶりに会った煕子に「 自分の妻にならないか」と言い、煕子がそれを承諾する・・という流れの様ですが、どうやらお互い(特に煕子の方が)当時から相手に想いを寄せていたっぽい感じの様なので、すんなり結婚へ・・となるみたいですね。 途中の恋物語的なストーリーが何話かあれば面白いのになぁ。 とも思うんですけどね。 明智光秀から深く愛された正室(妻)・妻木煕子 明智光秀は愛妻家としてとても有名で、側室をおくことが普通とされていた時代なのに、 正室一筋! 側室は置かなかったそうです。 何かかっこいいですね。 これは、明智光秀の考え方なのでしょうか? 性格なのでしょうか? 妻木煕子が魅力溢れる女性だったからでしょうか…。 明智光秀から深く愛された正室(妻)・妻木煕子…。 どんな人物だったのか見ていきたいと思います。 妻木煕子が生まれたのは1530年頃(享禄3年)と1534年(天文3年)といった2つの説があります。 お父様は、 ・妻木範煕 ・妻木広忠 の二人が候補に上がっています。 1540〜1550年辺りに結婚。 時期ははっきりとはわかっていませんが、だいたい1545 年(天文14年)頃、明智光秀の正室・明智煕子となります。 美しかった煕子ですが、実は嫁ぐ前に天然痘を患い、顔に痘痕が残ってしまったそうです。 そこで妻木家は、煕子によく似た妹の芳子を光秀に嫁がせようとしました。 よっぽど明智光秀との縁談を潰したくなかったのでしょうね。 でも、明智光秀は、 「 人の容貌はすぐ変わるが、心の美しさは変わらない。 」と、妹ではなく煕子を正室に迎えたとされています。 この時からすでに深い愛を感じますね。 そして、1556年(弘治2年) 斎藤道三 VS 斎藤道三の嫡男・斎藤義龍 「 長良川の戦い」に明智光秀は参加することになります。 明智光秀は斎藤道三の味方につきましたが、勝利したのは嫡男の斎藤義龍。 明智光秀は本拠を失い浪人となりました。 ) 当然生活は質素に…。 そうなると連歌会の参加者を接待しなければならなくなりますが、無職なのでお金はなく…。 そこで、煕子は夫が連歌会で恥をかかないように、自慢の黒髪を売り資金を集め、酒、料理を出し、参加者をもてなしました。 明智光秀は、そんな煕子の気持ちが嬉しくて、感謝したそうです。 煕子が亡くなるまで、側室を持たなかったのは、愛していたのはもちろんですが、このような大変なときにお互いがお互いを思いやり深い愛と絆がうまれたからではないかと思います。 光秀との間には3男4女の子どもを授かりましたが、煕子の子どもについての史実はやはりあまり残されておらず、未だに不明点は多いです。 ですが、唯一史料が残されているのは、 ・長男の光慶。 残されているといっても史料は少なくて、いつ誕生したのか分かっていません。 ただ、死因は諸説あり、 「父の明智光秀が主君・織田信長に謀反を起こしたこと知り、不道を嘆きその場で亡くなった。 」 「明智光秀が山崎の戦いに敗北し、帰りの道中で討たれると、攻撃を受け落城する前に煕子と一族とともに自害した。 」 と、されています。 ・三女の細川ガラシャ。 1563年(永禄6 年)誕生。 細川ガラシャは美人であったとされています。 煕子も美人だったようなので、お母さん譲りの美貌だったのでしょうね。 細川忠興に嫁ぎ、キリスト教に洗礼されガラシャという洗礼名を受けます。 関ヶ原の戦いで、敵軍の石田三成によって大阪城下にあった細川屋敷に襲撃され、自害。 1600年(慶長5年)7月17日に亡くなった。 とされています。 他の子どもに関する史料は残されていません。 1576年(天正4年)、 明智光秀は「 天王寺の戦い」に参加した後、過労で体調を崩してしまいます。 そして煕子は夫の看病をし、 明智光秀の体調は回復したとされていますが、 看病で疲れたのか、煕子はその後、まもなく亡くなったとされています。 または、亡くなった理由について自害という説もあります。 煕子の自害説については、1582年(天正10年) 明智光秀が「 山崎の戦い」で敗北します。 そして光秀が坂本城へ帰る道中、百姓に殺害されたことを知り、煕子は坂本城で落城前に自害したとされる。 といった説もあります。 詳しい史料がないので、死因も時期も詳しくわかっていませんが、おそらく亡くなったのは、煕子が46歳か42歳か36歳とされています。 スポンサーリンク•

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妻木城 妻木頼忠は明智一族として戦国の世を生き残る 妻木広忠も

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麒麟がくる 2020. 25 2020. 03 monster. cat611 明智光秀の妻熙子(ひろこ)とは 内助の功と煕子の足跡を追う! 2020年大河ドラマ「麒麟がくる」 2020年NHK大河ドラマ「麒麟が来る」では、木村文乃さんが妻・熙子役に抜擢されました。 ドラマはこの記事を書いている1月25日現在、まだ1回目の放送を終えたばかりで、光秀の結婚はもう少し先の話になるでしょう。 主役・明智光秀の妻ですから、きっと登場回数も多くなるはず! とっても楽しみです。 さて、明知光秀と妻熙子は、戦国時代には珍しいほどの仲睦まじい夫婦だったと伝わっています。 妻木煕子について 明智光秀の妻熙子は、光秀の正室であり、妻木範熙の娘であったといわれています。 実はこの父親説には、二人の父親候補がいます。 有力なのは妻木範熙ですが、もう一人、妻木広忠という説もあります。 また、この二人は同一人物ではないかという説までありますから、苦笑いするしかありません。 生年についても、1530年と1534年説があります。 熙子という名が知られるようになる前は、「お牧の方」とか「伏屋姫」という通り名で呼ばれていたそうです。 ただ最近では、お牧の方は母であると認識されています。 それなりに高貴な出自の女性は、〇〇の方・〇〇姫・〇〇殿などといった呼称で呼ばれるのが一般的です。 明智光秀の妻・熙子も、後世になって、父妻木範熙の熙の字をとって熙子といわれるようになったようです。 また女性が名前で認識されるようになったのは、なんと娘ガラシャの影響らしいです。 ガラシャという洗礼名が与えた印象が強く、そこから次第に女性たちも名前で呼ばれるようになったようです。 もちろん子供時代の名前はあり、両親や親族からは名前で呼ばれていたでしょう。 しかし社会的にはそれが通用しなかったとは、驚きではありますが、慣例ですから仕方のないことですね。 子供の人数については諸説ありますが、一般的に知られているのは3男4女という子宝に恵まれたという説です。 長女が明智光春(秀満)の室、次女が明智光忠の室、三女・珠(細川ガラシャ)が細川忠興の室、四女が織田信澄の室となり、嫡男の十兵衛光慶(千代寿丸)、次男の十次郎光泰、三男に乙寿丸がいたとされています。 この中で一番有名なのが細川ガラシャですが、美しいといわれた彼女の美貌は母親譲りだっとのことです。 明智光秀と熙子のエピソード 熙子が光秀と結婚する前のことです。 既に二人の結婚が決まっていましたが、それを直前にして熙子が疱瘡にかかってしまいました。 顔にアバタが残ってしまった娘を嫁に出すことを遠慮した父・妻木範熙から、代わりに熙子の妹ではどうかと打診されました。 この時光秀は「人の要望は変わるが心の美しさは変わらない」といってこれを断り、熙子と結婚したといわれています。 斎藤道三と息子・斎藤義龍が争い、道三側についた明智光秀は、戦いに敗れ逃げ落ちることとになります。 その時、明知光秀の妻・煕子は身重だったとあり、山道などは光秀が背負って逃げたとあります。 また明智城を追われ浪人生活を余儀なくされた中、光秀主宰の連歌会を催すことになりました。 主催ともなると酒やごちそうで客をもてなす必要がありますが、光秀一家にはそんなお金はありません。 そこで熙子は自慢の黒髪を売り、夫光秀に恥をかかせる事無く連歌会を執り行いました。 髪のない熙子を見た光秀は驚き、これ以上苦労はさせないと出世を誓ったといわれています。 松尾芭蕉は、「月さびよ 明智が妻の 咄(はなし)せん」という句を謳っています。 松尾芭蕉が奥の細道の旅を終え伊勢神宮参拝をした時、又幻という人の家に泊めてもらったそうです。 貧しいにも関わらず、精いっぱいのもてなしをしてくれた又幻夫婦に感激し詠んだ句とされています。 『寂しい月明りのもとですが、明智光秀の妻の昔話をしてあげましょう。 (あなたのその心掛けは、必ず報いられる日が来ますよ)』という意味です。 芭蕉が句にするくらい、熙子の良妻エピソードは知られていたということになりますね。 この句は、西教寺境内に現存しています。 熙子の墓 明智熙子の死去についても諸説あります。 現在認知されているのは、天正4(1576)年に病死したというものです。 熙子が病に倒れる前、光秀が長い間病床に伏せており、その看病疲れだともいわれています。 献身的な妻の支えがあり、そんな妻を労わる事を決して忘れなかった光秀の悲しみは相当だったろうと思います。 戒名は福月真祐大姉。 滋賀県大津市の明智氏、妻木氏の菩提寺である西教寺にお墓があります。 いつの世も出世する男には、それなりの妻がいたということでしょうか。 中孝礼節を重んじる徳川の世では、明智光秀は裏切り者・逆臣といったイメージが大きくなりました。 それが軍紀物などに書かれたり、芝居で上演されることで、定説化してしまったのです。 しかし近年になって、明智光秀はもちろん、その他の武将たちについても再評価が進んでます。 2020年、始まったばかりの麒麟がくるでは、明智光秀はもちろんのこと、光秀の妻・煕子がどんな風に描かれるのかも楽しみなところです。

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