エルマ エイミー。 【ヨルシカ/心に穴が空いた】の歌詞の意味を徹底解釈

【ヨルシカ/心に穴が空いた】の歌詞の意味を徹底解釈

エルマ エイミー

・2017年6月28日発売 全7曲収録の1stミニアルバム『夏草が邪魔をする』 ・2018年5月9日発売 全9曲収録の2ndミニアルバム『負け犬にアンコールはいらない』 ・2019年4月10日発売 全14曲収録の1stフルアルバム『だから僕は音楽を辞めた』 ・2019年8月28日発売 全14曲収録の2ndフルアルバム『エルマ』 2019年10月現在、ヨルシカからミニアルバムも含め、4つのアルバムが発売されている。 その中でも今年リリースされた1stフルアルバム「だから僕は音楽を辞めた」の続編にあたる2ndフルアルバム「エルマ」は僅か4ヶ月という異例の速さでリリースされたにもかかわらず、その完成度の高さから凄まじい人気を博している。 ここで注目していただきたいのは、その2つのアルバムの収録曲だ。 つまり2ndアルバムのエルマの曲は、1stアルバムで作られたエイミーの曲に応えるとなっているのだ。 同様に2ndアルバムの楽曲が1stアルバムの後に作られただとするなら、2ndアルバムの時系列も順番通りではない可能性が出てくる。 では何故、この並びになったのか。 単純に考えてみると、最初に作った曲の紙を一番下に置き、最新曲を一番上になるように重ねていったからなのかもしれない。 (エルマに宛てた手紙にはそのままの並びで同封した為、この順番になってしまった。 ) しかし、己の人生を懸けて作った曲をそんな適当に扱うだろうか。 もう一つの考えとしては、 エルマにこの順番で聴いてほしい何らかの理由があったから。 やはりこの考えが一番妥当だと思われる。 ・初回版 いずれにせよ、このままでは情報が少なすぎる為、時系列の真相にさえ辿り着くことができない。 何かエイミーの遺留品、もしくは彼を知るエルマの証言や思いが聞ければよいのだが… そんな物語をできる都合の良いものなんて… あった。 それは両アルバムの初回限定版の特典である。 1stアルバムの「エルマへ向けた手紙」では、青年がエルマへ向けて書き溜めた手紙や歌詞、訪れた街の写真などを納めた木箱を再現したボックスが付属され、 2ndアルバムの「エルマが書いた日記帳」では、エルマの旅の足跡を記した日記帳と写真が封入されている。 ヨルシカの作品は音源やMVだけでも十分に楽しむことはできるが、作品とリンクした特典の 手紙や写真を実際に手に取ることによって、まるで物語の世界観に入り込んだかのようなができ、各楽曲の背景をより深く味わうことができる。 木箱を再現したBOXとなっており、中にエルマへ向けた手紙や写真、歌詞カードとCD入っております。 そんなCDを買う意味やCDそのものの価値が問われる今の時代に対してのヨルシカなりの答えが、この木箱や日記帳というには真似できない仕掛けなのだろう。 さて、ここからは特別に手配することがで出来たこの二つの初回版に記された情報を読み解きながら、各楽曲について考察していくことにする。 二つの特典には楽曲ごとに、その曲が作られたとされる日付が記されていた。 なのでまずは、情報をもとに各楽曲を並び直してみた。 2ndアルバムの最後の曲である「ノーチラス」にだけ日付が振られていないのだ。 MVを見てみると、ノーチラスはエイミーが海へ飛び込む直前にその題名を書いたことがわかる。 従ってノーチラスは2ndアルバムに収録されてはいるが、原作者はエイミーということになる。 そしてその詩はエルマに宛てた手紙の中に入れられることなく、あの桟橋のギターケースの中にずっと入っていた。 では、ノーチラスはいつ作られたのか。 MVの後半、エルマがノーチラスの詩が書かれた紙を見るシーンがある。 そこに書かれていた題名と、詩の文字の濃さを見比べて見ると、ノーチラスの方が掠れていることがわかる。 (詩の部分はMVの前半で書いていた。 ) このことから、既に詩の部分は完成されていたが、なかなか題名が付けられず、人生の最期を迎える直前で思いついたということになる。 日付を書かなかった理由は、もしかしたら あの時点ではノーチラスは完成しておらず、日付を書けなかったからなのかもしれない。 まだまだ考察の余地はあるが、ひとまず次回からは各楽曲の内容を上の表に示した時系列に沿って、読み解いていこうと思う。 he-normal.

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【ヨルシカ/ノーチラス】歌詞考察 エイミーは何故この曲を残したのか。 遺作の真意に迫る

エルマ エイミー

ヨルシカ 「ノーチラス」。 アルバム「エルマ」に収められた一曲であり、一連の物語に沿って進行していたヨルシカの楽曲群において、現時点でこれが最後の楽曲である。 いわば、エルマとエイミーの物語のクライマックスだ。 一連の物語については以下の記事で触れているので、ご存じでない方には参考までにお読みいただきたい。 MVから察するに「ノーチラス」は、エイミーがエルマに送ることなく、彼が毒性の人工染料「花緑青」を飲んで入水自殺した桟橋にギターとともに残していた詩である。 彼の 遺作ともいえる作品だ。 なぜ彼は、「だから僕は音楽をやめた」で締めくくったかに思われた楽曲群にこの曲をつけ足したのか。 なぜこの曲は、エルマに送られることなく桟橋に残されたのか。 ここではその理由を徹底的に考察していく。 あくまで私個人の考察であり、曲の解釈を決めつけるものではない、という点にご理解いただきたい。 また、初回限定盤得点のエルマの日記帳を筆者は拝読していないため、公式の物語と考察が異なっている可能性がある、という点にもご留意いただきたい。 ヨルシカ• J-Pop• provided courtesy of iTunes• 垣間見えるエイミーの二面性 前作「だから僕は音楽をやめた」、およびこの曲を通してみると、エイミーという人物の 二面性のようなものが垣間見える。 彼は表層的にはエルマを恨んでいるが、その一方でエルマを心の底から愛しているのだ。 こう考えるに至った経緯を、詳しく説明していきたい。 「だから僕は音楽をやめた」でのエルマ 前作「だから僕は音楽をやめた」で語られた、彼が音楽をやめた理由を一言で表せば 「昔の信念を失ったから」であった。 僕だって信念があった 今じゃ塵みたいな想いだ 何度でも君を書いた 売れることこそがどうでもよかったんだ 本当だ 本当なんだ 昔はそうだった だから僕は音楽をやめた だから僕は音楽をやめた 作詞 n-buna 昔は愛や正しさを追い求め、音楽を通してただ自分の中の「エルマ」を描き続けていた彼であったが、その信念を貫くことができなくなった。 描き続ければいつか答えにたどり着けるとひたすらに信じていた「エルマ」の記憶が時が経つにつれ失われ、答えなどないという現実に直面せざるを得なくなったのである。 間違ってるんだよ わかってないよ、あんたら人間も 本当も愛も世界も苦しさも人生も どうでもいいよ 正しいかどうか知りたいのだって防衛本能だ 考えたんだ あんたのせいだ だから僕は音楽をやめた 作詞 n-buna そして彼は 「考えたんだ あんたのせいだ」とエルマに残し、エルマに会うことのできない、救いのない現実への諦めから花緑青を飲んで海底へと沈んでいった。 ここでの彼のエルマへの感情は 「憎しみ」に近いものがあり、自分の信念を貫けなかった要因としてのエルマを恨んでいる。 エルマのせいで、彼は社会を、信念を、音楽を、諦めざるを得なくなった。 社会に対する、言うなれば 表向きの理由として、彼はエルマに恨み口を叩かなければならなかったのである。 「だから僕は音楽をやめた」の中で自分を言い聞かせるために、音楽を諦めるために、人生の幕を閉じるために、彼はエルマを恨まなければならなかったのだ。 そして彼はこの曲を、エルマに送る手紙の最後にしなければならなかった。 彼女への最後の一曲が彼女への感謝の言葉であったり、謝罪の言葉であったりしては彼の面目が保たれないからだ。 自分への説明がつかないからだ。 「だから僕は音楽をやめた」は信念を曲げた自分に対する言い訳であり、自身の面目を保つための最後のメッセージだったのである。 捨てられなかった優しさ「ノーチラス」 エルマを表層的に憎もうとした一方で、 エイミーは根本的に、エルマを愛していた。 その捨てられなかった優しさこそが、彼が残した最後の曲「ノーチラス」なのではなかろうか。 さよならの速さで顔を上げて、 いつかやっと夜が明けたら もう目を覚まして 見て、 寝ぼけまなこの君を何度だって描いているから ノーチラス 作詞 n-buna 音楽をやめたのはあんたのせいだ。 そう言って世を去ろうとしたところで、彼にそんなことできるはずなかった。 愛する人を傷つけたままで終わることなどできなかったのであろう。 「寝ぼけまなこの君を何度だって描いているから 」。 音楽をやめたとしても、彼の心の中にはいつだってエルマがいた。 それを伝えずにはいられなかったのだ。 そしてそれを桟橋に残した。 エルマが自分の足取りを追ってここに来た時に、彼女を救ってあげられるように。 彼が愛した音楽が終わってしまわぬように。 彼の信念からすれば、この曲の存在は 駄作なのかもしれない。 「だから僕は音楽をやめた」で最後にしなければならなかったのかもしれない。 しかし、どうしてもこの曲を残してあげたかった。 「ノーチラス」は、彼のエルマへの愛そのものなのだ。 まとめ エイミーの残した遺作 「ノーチラス」。 ノーチラスはフランスの小説「海底二万里」に登場する、陸地との一切の交流を絶った潜水艦である。 人間社会とのかかわりを拒絶し、ただエルマだけを描いた彼の人生は、エルマへの想いとともに海底へと沈んでいった。 この曲がエルマに届いたことで、エルマが目を覚まし、本当の彼の想いに気が付くことができたなら。 エイミーの最後の願いは無事にかなったといえるのではないだろうか。 Twitter @nabuna2.

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ヨルシカ「エルマ」の初回盤の特典は?歌詞とエイミーの意味は?ライブツアー月光のチケット先行は?

エルマ エイミー

たった数十秒のクロスフェードが耳に離れず涙を流した経験はあるだろうか。 僕はそれまでの人生の中で音楽を聴いて涙を流す事なんてなかった。 しかし、初めて泣かされた音楽を僕は今でも憶えていて口ずさむ。 それがn-buna ナブナ さんが作り出した音楽だった。 彼の音楽で初めて泣いたのは、アルバム「月を歩いている」収録曲、「泣いたふりをした」だった。 さぁ 口ずさんで 口ずさんでたら、春が来て 僕ら気まずくないように 明日の方向いて笑っているんだろう 忘れないで 忘れないでよ、ねぇ この話は 君のために書いた話だ 本当は僕は、こんな絵本を描くことが夢だったんだ たった数行の歌詞に涙を流してから、僕は彼の作り出す音楽の虜になった。 そして、ヨルシカを好きになった。 ヨルシカはコンポーザーであるn-bunaさんと、ボーカルのsuis スイ さんが結成したバンドだ。 ミニアルバムを含めて、ヨルシカ名義で4つのCDを出している。 1stミニアルバム「夏草が邪魔をする」ではピアノのイントロから始まり、夏の昼を描いているように感じた。 「言って。 」では君が死んだ事に気付いている私が、君がいない現実を理解していながらも、君に空が青いのをどうやって伝えればいいのか、夜の雲が高いのをどうすれば君も分かるだろうとまだ伝えようとしている様を脳に残るリズムと鮮やかな青色で描いている。 1stミニアルバムで鮮烈な夏を描いたヨルシカであったが、2ndミニアルバムである「負け犬にアンコールはいらない」からより物語性を増していく。 「負け犬にアンコールはいらない」では、イントロである「前世」、「落下」、「夏、バス停、君を待つ」の歌詞カードに文章が書かれている。 この中で彼は箱について触れている。 目の前には箱が在る。 掌に収まるほどの、角の取れた立方体で、 中に何が入っているかは見当がつかない。 箱の中には鈴が入っていて、鈴がなればそれを齧り付く事を繰り返していた何かは箱が開かずに諦めがつく。 しかし、その後の一文で、 ふと、自分が人間だった頃のことを思い出した。 ここで何かは人間ではなく、負け犬、つまり犬である事が分かる。 犬の前世は人間だった。 強烈なインパクトを植え付けてからイントロが終わり「負け犬にアンコールはいらない」が始まる。 私的な感想であるが、「負け犬にアンコールはいらない」の曲は前作よりも激しさを増して切なさや感情がより鮮明になっているような気がして好きである。 「夏草が邪魔をする」では全編を通してよく晴れた晩夏の日中を描いている雰囲気があったが、「負け犬にアンコールはいらない」では夜を描いている雰囲気が強かった。 「爆弾魔」では、夜に上がる花火を連想させるような歌の中で後悔に対して触れている。 もっと笑えばよかった ずっと戻りたかった 誰かが後悔している節がこの曲以外にも、全編を通して見えた。 そして、より文学性が増したのもこのアルバムの魅力であった。 ヒッチコックはイギリスの映画監督でスリラー映画と呼ばれる物の第一人者であった。 代表作は沢山あるが「レベッカ」が一番有名であるかもしれない。 「ヒッチコック」の曲中では、 ニーチェもフロイトもこの穴の埋め方は書かないんだ。 有名な哲学者たちの名前が書かれている。 「冬眠」では、 ここじゃ報われないよ と今世について考えられる言葉が目立った。 最後「夏、バス停、君を待つ」では空を見ている何かが早く生まれ変わりたいと零している。 人以外の何かに成りたい。 鼻の効く生き物なら何でもいい。 誰を探していたのかも、もう覚えていない。 それでも見つけなければと、 もう一歩だけ歩かなくてはと、そればかり考えている。 そして僕は気づく。 鼻の効く動物とは、犬の事ではないのか。 二つの椅子が置かれた部屋とは、歩いているとは、「雲と幽霊」のMVに繋がるのではないか。 その確証を得るのが初回限定盤に封入されていた「生まれ変わり」という短い読み物である。 「生まれ変わり」の中で、百日紅の花が爆弾のようだと語っており、「爆弾魔」は花火ではなく百日紅を表現していた事を知った。 バス停の木製のベンチに"幽霊"が座っている。 幽霊は"私"を見たが何事もなかったかのように空を眺めていた。 幽霊に隣に座ってもいいかと聞けば、はいと答える。 二言三言話してバスに乗る。 翌日も私は幽霊と他愛もない話をする。 いつしかそれが日課となり百日紅の隣に紫陽花が咲いても二人は話し続けた。 私は不思議と話し足りないような気がしていた。 幽霊は生まれ変わりを信じていて、心に想う人がいるらしいが随分昔の事なので死んでしまっているだろうけど忘れるに忘れられないから探していると話した。 それならばこんな場所でなくとも人の多い場所に行けばいいと聞けば幽霊は、 「彼女がもし生まれ変わっているのなら、きっとここへ来ているだろうから。 」 と言った。 そして私の口が私もです、と動き、私もずっと貴方を待っていました、と言った。 幽霊は、そうか、君だったのかと言って曖昧な靄となって消えた。 それ以来私は生まれ変わりを信じている。 さて、勘のいい方ならもう分かるだろう。 この話は「雲と幽霊」だ。 生まれ変わった彼女に会うため、このベンチに辿り着き目的を果たして成仏した彼が生まれ変わった生物は、決して人間ではなかったのだろう。 犬、夜鷹、何かしらの動物だったのかもしれない。 我々はこの二作品の中に盛大な物語を見た。 変わらぬ夏の情景を描き、名も知らぬ二人の、誰かの物語を追体験したような気分だった。 ヨルシカの音楽は物語を読む事と同じだと思っている。 我々に正解は分からない。 だからこそ、ヨルシカのコメント欄では考察班が現れ様々な解釈をする。 もしかしたら正解はないのかもしれない。 受け取るこちら側が好きに解釈していいのかもしれない。 ヨルシカの物語は名のない誰かが主人公であるから我々に想像の余地が出来、より我々の心を掴んで離さないのかもしれない。 そう思っていたのだ。 木箱が手元にやってきた。 両手で持てるくらいの大きさ、「前世」で書かれていた箱よりかは大きいかもしれない。 重さは軽くもなく重くもなかった。 しかし、中身に込められた想いに気付いた時にそれは重量を増した。 木箱を開ければエルマに、と書かれた手紙が入っていた。 一通ではなく何通も、そして写真も同封されていた。 手紙には日付が書かれていて誰かの旅の記録のようだった。 しかし、手紙というよりかは日記に近いと手紙の主は話している。 日付ごとに彼の見た世界と歌詞が入っていた。 この木箱の中身全てはエルマという女性に送る物のようだ。 彼はスウェーデンを旅していた。 ルンド大聖堂の天文時計、リンショーピンの街並みにガムラスタンの石畳、ゴッドランド島のヴィズビー、輪壁、フォーレ島、サンタ・マリア大聖堂、写真と手紙を見ながら我々も共に旅をしている気分になった。 しかし、これが彼の人生最後の旅だという事を知る。 この一年が僕の一生だ。 手紙にはどこか強い意志を感じられた。 我々はまた名も知らぬ誰かの人生を見ているのかと思ったが、どこか違う気がした。 手紙の中には有名な名前が出てくる。 オスカーワイルド、ヘンリーダーガー、松尾芭蕉。 これはn-bunaさん自身が好きな芸術家でもあるのだろう。 僕もオスカーワイルドの、 人生は芸術を模倣する。 という言葉は大いに分かる。 結局の所、本当のオリジナルなんて存在しないのだ。 生きている限り誰かに影響され、人生は自分の憧れた芸術を模倣するのだ。 「だから僕は音楽を辞めた」というアルバムはこの言葉が主軸に作られている気がする。 しかし、芸術家は皆ヘンリーダーガーであるべきだという事も大いに頷けるのだ。 真に芸術を愛しているのなら、見せびらかして芸術を金にして生きていくのではなく、他人からの称賛も名声も何も求めず、ただ自己満足であるべきなのだ。 それが一番美しい芸術の形だと理解しているが、ヘンリー・ダーガーのようになれないのが僕ら人間だ。 唯一、「エルマ」と「だから僕は音楽を辞めた」だけは日付の順番が逆である。 専用のインクでしか手紙を書かない彼は道中でスリに遭い荷物の大半を奪われる。 まるで命の終わりのようだった。 手紙のいくつかに、涙の痕が見えた。 一度音楽を辞めた彼がエルマのおかげでもう一度音楽を始めた事、二人で過ごした日々の事、子供の頃に夢見ていた自分。 遺書だ。 これはエルマに向けて書かれた遺書だと気づいた。 それまでYouTubeで上がっていた「だから僕は音楽を辞めた」収録曲を見る限り、てっきり彼がエルマに置いて行かれたのだと思っていた。 しかし彼が置いていく方だったのだ。 「だから僕は音楽を辞めた」から約四か月後、分厚い日記帳が届いた。 茶褐色のそれは長い間持ち歩いた証なのか所々着色が剥げていた。 ページを開く。 そして我々はここでようやく彼の名前がエイミーである事を知るのだ。 私にとっては今でも、貴方こそが神様に近い。 開いて数ページで、我々はエルマとエイミーの考え方の違いに気付くのだ。 エイミーは作品の中にこそ神様は宿ると話した。 神様は作品に宿るわけであって、 僕たち人間に宿っているわけじゃない。 そう思うのは創作家の傲慢だ。 神様の在り方が違うのだ。 僕から見れば、これは作る側と受け取る側の解釈の違いに見える。 エイミーは間違いなく芸術家でエルマはそれを受け取る側だった。 エイミーが神様に思えるのは我々が憧れのアーティストであったり尊敬する人に対して抱く思いと似ている。 ここからアルバムは始まる。 トラック01、「車窓」のシーンであろう。 「車窓」はピアノの音源と人々の行き交う音が聞こえた。 足音、話し声、聞いているだけで別の土地に来たような気持ちにさせられた。 木箱を受け取ったエルマがエイミーの後を追って旅に出る。 「だから僕は音楽を辞めた」でもそうだが、必ずしも日付順に曲が収録されているわけではないのだ。 「藍二乗」と「憂一乗」 エイミーに対してのアンサーソングだ。 この二つのアルバムは曲が全て対になっているため、聞いている我々はつながりを意識して聞けた。 これはエイミーである事が分かる。 所々現れる後ろ姿の女性は記憶の中のエルマである事が分かる。 人生は妥協の連続なんだ そんなこと疾うにわかってたんだ エルマ、君なんだよ 君だけが僕の音楽なんだ この詩はあと八十字 人生の価値は、終わり方だろうから 一度音楽を辞めたエイミーにとってエルマが自分の音楽であった事。 手紙でも触れられた人生の価値について書かれていた。 サビでは最低だと繰り返し、 最低だ 最低だ 言葉なんて冗長だ 君の人生は月明かりだ 有りがちだなんて言わせるものか 手紙に書かれたエルマの詩に触れた際に月明かりを見た事に対してかけている。 夜しか照らさない無謬の光だ。 何もいらないと歌ったこの曲に似た歌詞がある。 それが先程出てきた「憂一乗」だ。 「憂一乗」では、 こんな自分ならいらない 僕には何にもいらない お金も名声も愛も称賛も何にもいらない このまま遠くに行きたい 思い出の外に触りたい また君の歌が聴きたい 同じように何もいらないと言いながらも、君さえいればそれで良かったんだと切ない歌詞を綴っている。 そう、時間が経ってしまったのだ。 エイミーがエルマから離れ旅立ってから、木箱が届きエルマがエイミーの跡を追って旅に出るまで随分と時間が過ぎた。 だからこそ、エルマはもう無くなってしまった思い出の地の事を見知らぬ土地で書いているのだろう。 この曲では「藍二乗」で使われたこの詩はあと八十字といった文字数を歌詞に入れる事と、花泳ぐという単語が使われている。 日記の中で松尾芭蕉と与謝蕪村について触れている。 松尾芭蕉に影響され俳句を書き始めた与謝蕪村は、松尾芭蕉の句風こそが正道なのだと説き彼の旅した道を辿った。 さて、これは何かに似ているのではないだろうか。 そう、エイミーとエルマの関係性だ。 エルマは今でもエイミーが神様に近いと思っている。 エイミーの旅した国を訪れて手紙通りの道を辿っている。 そっくりではないか。 人生は芸術を模倣する エルマもまたエイミーという芸術を模倣していた。 二人が共に住んでいたのだろう。 分かんないよと繰り返した歌詞の中で関町に住んでいた時の話が混じっている。 ヨルシカの歌詞は印象的なワードが多い。 花泳ぐや、揺蕩うように雨流れなど、昔の詩人たちが詠んだ俳句や詩を使い分け、自分の物にしているからなのかもしれない。 僕が初めて「踊ろうぜ」を聞いた時は鮮やかな水色の流動線が見えた。 真っ白な背景に一本の流動線だけが踊り続けるような映像を思い浮かべた。 日記を読み進めていく度思うのが、エルマの一人の女性としての考え方と芸術家のエイミーとの圧倒的なすれ違いだ。 お互いに想い合っているのに上手くいかなかった。 エルマは生活が苦しくてもエイミーさえいれば良かった。 エイミーはエルマの才能を認めていて素晴らしいと思っていたが同時に嫉妬のような感情も抱いていた。 だからこそ、苦しかったのかもしれない。 音楽に否定という言葉は存在しなかったからこそ、エルマの奏でる幼稚なピアノすらも純粋に喜ぶ事が出来た。 エルマは純粋に音楽を楽しめた。 語彙力が低下するがとにかく切ないのだ。 どうしようもない現実と変わらない過去だけがそこに存在し続ける。 我々は手紙と日記帳を通し二人の過去を知っていくが、結末はもう変わらないのを知っているからより切なくなった。 「歩く」の歌詞の中に、 どうせならって思うよ もう随分遠くに来た 何も知らない振りは終わりにしよう エルマは何故エイミーが自分の前から姿を消したのか、今どうなっているのか、薄々勘づいているではないだろうか。 何も知らないと思っていた。 けれど、旅をするに連れエイミーの思考に近づいていく。 生きていて欲しいと願うだろう。 我々が同じ立場ならそう思う。 エルマだって会えればいいと思っているが、もうエイミーがこの世にいない事に気付き始めている歌詞だと感じた。 そしてこの花緑青。 最初に聞いた時、僕は花緑青をただの色として言っているのだと思っていた。 どうでもいい話だが、僕は花緑青の色が好きで自分の万年筆のインクをわざわざ花緑青のような鮮やかなエメラルドグリーンに調合していたりしたので、この曲を聞いた時に、あ!同じ色じゃん!とか下らない事を思っていたものだ。 花緑青は鮮やかなエメラルドグリーンで、毒性の液体だ。 現在は使われていないがその毒性はかなり強く人を死に至らせる。 僕は単純なので五月だから花緑青なのかな、確かにエメラルドグリーンっぽい曲だもんななど思っていた。 浅はかだ。 まさかそれが重要な舞台装置であるとは気づきもしなかった。 最初は分からなかった意図も旅が終盤になっていくに連れ、今ならエイミーの言った言葉が分かると書かれている。 エイミーがいなくなった日の話を日記の中で触れている。 エイミーが病気だった事、それを隠していた事、だからピアノを弾かなくなった事。 そして、エイミーがいなくなった時途方もない悲しみに暮れたエルマの心の中に、安堵という感情が隠れていた事。 本当は終わりの瞬間なんて見たくなかった。 一緒に連れて行ってくれればよかったと思ったのも本心だが、恐れがあったのも事実だった。 エイミーはそれに気づいていた。 だから一人で旅立ったのだ。 エルマは人間らしい人間だ。 エイミーにも人間性はあるが、彼には芸術家としての側面の方が多い。 人間のどうしようもない感情が、この日記には詰め込まれている。 だからこそページをめくる指が止まらない。 「終わりのない小説なんてものは詰まらない だらだらと惰性で続く物語は美しくない。 」 エイミーの言葉だった。 僕も同感だ。 終わりがあるからこそ、その中に美しさが宿るものだと思っている。 だらだらと続く物語は面白くも美しくも何でもない。 そのような本が書店に並んでいたらきっと隅に追いやられて誰も手に取らないだろう。 終わるから美しいのだ。 人生だって同じだ。 終わるからこそ人はそこに美しさを見出す。 エルマが桟橋から湖に飛び込んだ際、エイミーの万年筆を見つけた。 後日、鞄を見つけ、手帳を見つけた。 君の指先には神様がいる。 誰一人見えない、 今は僕たちしか知らない、小さな神様だ。 君の価値を君は知らない。 他の誰かも、 君を馬鹿にする奴らも、友達も、両親も、君の祖母も、 勿論僕だって知らない。 芸術の神様だけが本当の君を見てる。 エルマ、君のしたいことは何だ? 君が本当にみつけたいことは。 エイミー、私は この文章を読んだ時、僕は泣いた。 本当に泣いた。 全ての芸術家たちは指先に神様が住んでいると言われたら泣くのではないだろうか。 それくらい僕はこの言葉が好きだ。 僕はこれを彼女に向けて書いた最初で最後のラブレターだと思った。 優しい曲調で、これまで過ごした時間が歌われる。 きっとこれが、本来のエルマの文字なのかもしれない。 丸文字でこれまでとは違う柔らかさがあった。 歌詞の中で四度目の夏が来ると書かれているように、これは旅が終わってから作られた曲なのだろう。 僕は「エイミー」がヨルシカ史上1,2位を争うくらいで好きだ。 全てを終えたエルマが作り出した曲が、これが本当に最後だと教えてくれるのだ。 さぁもういいかい、この歌で最後だから 何も言わないままでも 人生なんて終わるものなのさ いいから歌え、もう エルマはエイミーの見ていた景色の美しさ、作品にだけ宿る神様の居場所が知りたかった。 どうして忘れていたのか、考えてこなかったのか、エイミーはエルマに教えてくれていたのだ。 そして、始まりの曲が最後に流れる。 これまで生きてきた形跡を歩き、気付くと後ろをついてきていたエルマがいなくなる。 あんたのせいだと誰かに言うエイミー。 人間の醜さ、芸術との向き合い方、劣等感、そして本当は持っていたはずの信念。 僕だって信念があった 今じゃ塵みたいな想いだ 何度だって君を書いた 売れることこそがどうでもよかったんだ 本当だ 本当なんだ 昔はそうだった だから僕は音楽を辞めた 2ndフルアルバム「エルマ」最後の収録曲「ノーチラス」はヨルシカの始まりの曲でもあった。 我々には最新の曲だが、「ノーチラス」こそ最初に作られた曲であるとインタビュー記事で見た時、僕は何だか納得してしまった。 ノーチラス号はジュール・ヴェルヌのSF小説「海底二万里」に出てくる潜水艦だ。 オウムガイという意味を持つ。 僕らはヨルシカを通して一日を見てきたような気がする。 良く晴れた夏の昼、夕暮れ、夜、けれど朝に関する曲だけは見なかった。 夜しか眠れない僕らが「ノーチラス」で夜明けを見た時、この物語の始まりと終わりを見た。 「ノーチラス」MVでは、エルマが桟橋で泣きながらギターケースを抱え歌うシーンから始まる。 そしてエイミーが旅した風景をエルマが追う。 桟橋に辿り着いたエイミーが空に浮かぶノーチラス号を見て、かすれたインクで題名を書いた後ギターケースから小瓶を取り出す。 そう、花緑青だ。 花緑青は毒性の染料だ。 小瓶を全て飲み干せば死に至るだろう。 エイミーは花緑青を飲んで病に殺される前に自らその命を絶った。 なんてこった。 僕は花緑青の重要性にここで気づくと同時に、花緑青を飲ませる事によって死を選ばせるなんて天才かよと思った。 不謹慎かもしれないが、自分で命の終わりを決めた事、そして終わらせる方法を花緑青にした事に脱帽した。 その後桟橋に辿り着いたエルマは持っていた手紙全てを投げ出してギターケースを抱きしめる。 このシーンでエルマにとってエイミーこそが神様だという思いがよく伝わってきた。 そしてノーチラスの歌詞を見つけ夜明けを見たエルマは歌いだす。 明けない夜はないのだ。 「ノーチラス」はエイミーにとって深い眠りにつく曲で、エルマにとって目を覚ます曲だったのだ。 日記の余白に在りし日のエイミーがしていたように歌詞をどんどん書いていくエルマ。 ここでようやく我々は日付の意味を知る。 「ノーチラス」から始まったエルマの作詞だったのだ。 そしてエルマはようやく気付く。 跡を追って旅をしてまで曲を書く理由なんてなかった事、自分のためだった、エゴだった。 エイミーの残した詩で音楽を書きたい。 音楽を辞めたエイミーの物語を描きたい。 自分とエイミーのためだけの作品で構わない。 エイミーがあの日自分の中に見た月明かりを探す永い永い旅だ。 エイミーの手帳には手紙には無かった詩が数編挟まっていた。 雨上がりの晴れを書いた詩。 冬に眠り、夏を待つ詩。 自らを負け犬と標榜する詩。 ちょっと待ってくれ。 これは見覚えがある。 「ただ君に晴れ」「冬眠」「負け犬にアンコールはいらない」だ。 我々は二つのフルアルバムでエイミー作詞エルマ作曲、エルマ作詞作曲の曲を聞き続けてきたのだ。 そしてこの三つもエイミー作詞エルマ作曲なのだとしたら、もしかするとエルマは他のヨルシカの曲を作っていたのかもしれない。 物語を読んでいるなんてものではなかった。 脱帽だ。 ただ、圧倒的な才能の前に脱帽して尊敬の念を抱いた。 音楽の新しい側面を見せつけられた。 しかしヨルシカはn-bunaさんの曲だけでは成立しない。 ボーカルのsuisさんの歌声があって初めて成立する。 彼の作った曲を歌うのは、無色透明な歌声を持つsuisさんだからこそ出来る事だ。 他の人だったら、ここまで素晴らしい作品は出来上がらなかっただろう。 人生は芸術を模倣する。 ならばヨルシカの曲を聞いた僕の作り出す何かも彼らの芸術に影響を受けているだろう。 自覚はある。 しかし、様々な芸術を模倣して新たなものを作り出せば、それは唯一無二の作品になると僕は思っている。 ヨルシカに出会えた事によって知る事が出来た知識、感じる事が出来た情景、いい意味で影響を受けまくった。 そしてエイミーが語る言葉の数々に同じ考えだと共感もした。 ヨルシカを通して、人の一生を見た。 これから先も、ここまで尊敬するアーティストには出会えないだろう。 しかし、妄信はしない。 僕は作品と本人は別物だと思っているから作品は作品、本人は本人として受け止めているので尊敬の念は抱いても妄信は出来ないのだ。 でも、それでいいと思う。 論文みたいに長くなったが、ここまで読んでくれて少しでも興味を持ったらぜひヨルシカを聞いて彼らの作り出す世界を見て欲しい。 そして、ヨルシカコメント欄に現れる考察班たちのように、色んな解釈をして物語に触れて欲しい。 次にヨルシカがどんな曲を出して、どんな物語を作り出すのかは想像もつかないが、きっと僕はまたそれに触れて影響を受けるのだろうと今から思っている。 その日を、心待ちにしている。

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